32、奇跡を描く夜
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人の痛みは言葉にならない。羨望や嫉妬、悲嘆や苦悶。そして胸の奥に押し込められた邪念もだ。
それらは形を持たず、しかし目に見えない振動となって外へ広がっていく。
僕はそれを感じとる。
感じたものを光と色に置き換えると、不思議なことにその人の澱みが薄れ、やがて光に還っていく。
僕にとって絵画とは、心を癒やすものではなく、囚われたものを解放する手段なのだ。
***
これらの言葉は、スヴェンが日記に書き記したというより、感情をぶつけたかのようだった。
他の文章は穏やかな筆致で書かれているのに、この部分だけは乱雑で、熱を帯びている。
エレノア様によれば、スヴェンは物静かで、滅多に感情を表に出さない人物だったという。
けれど本当は、誰にも理解されない苦しみを、ひとりで抱えていたのかもしれない。
『吐き出さないと僕は壊れてしまう』
その言葉が、彼の切実さを語っているように思えた。
◇
その夜、スヴェンの日記がずっと頭に残っていた私は眠れず、そっと部屋を出ていった。
向かった先は、やはりスヴェンの部屋だった。
不思議と、あの部屋は心を落ち着かせてくれる。
画材の匂いが漂うせいだろうか。
花の香水よりも、絵具の香りに私は安らぎを覚える。
廊下で視線の先に誰かが歩いてくるのを捉えた。
杖をつき、ゆっくりと歩くその姿はエリオスだった。
ひとりきりだ。
「エリオス、こんな夜遅くにひとりで大丈夫なの?」
私が慌てて駆け寄ると、彼はにっこり微笑んだ。
「壁にはぶつからないから平気さ。障害物はわかるんだよ。ぼんやりと、何かがそこにある気がするんだ」
「でも、転んだら……」
「確かに足もとはわからないな。だが、君の気配は察した。近くに君がいることがわかって出てきたんだ。どこへ行くんだ?」
「スヴェンの部屋に……眠れなくて」
「なら、俺も一緒に行っていい?」
「ええ。構わないわ」
明かりのないスヴェンの部屋に、窓から月光が差し込んでいた。
窓を開けると淡い光が広がり、部屋はたちまち幻想めいた明るさに包まれた。
私は窓辺でスヴェンの日記のことをエリオスに話した。
彼の残した言葉を伝えると、エリオスは神妙な面持ちになり、静かに語った。
「彼は本当に繊細だった。俺の苦しみを取り除き、希望を与えてくれた。ああやって、きっと多くの人を救ってきたのだろう」
さらにエリオスは自分の過去も語ってくれた。
毒に蝕まれ視力を失った経緯。死を選ぼうとしたほどの絶望。
そしてスヴェンに出会い、生きる気力を取り戻したこと。
その話を聞くたびに胸が締めつけられる思いがした。
けれど、その痛みの奥から、別の衝動が湧き上がってくるのを感じた。
理屈では説明できない、全身を焦がすような熱い渇望。
描きたいと言う思いだ。
「あなたのために、絵を描きたいわ」
私はそう言って、月明かりに照らされた明るいバルコニーへ歩み出た。
眼下には夜の庭園が広がっている。
右手を掲げると、暖かい光が宿る感覚がした。
手を動かすと、空中に細い光の線が滑り出す。
最初は銀糸のように途切れがちだったが、描き進めるうちに線が繋がって、絡んで結び合い、光の輪郭に厚みが増した。
「ああ、これだわ」
あの夜と同じ感覚が全身を包み込んでいく。
完成に近づくと、私は振り返り、そばに佇むエリオスに訊ねた。
「エリオス、見えるかしら?」
彼は微笑んで小さく頷く。
「ああ、見えるよ。馬に跨り草原を駆ける騎士の姿だ」
「正解よ」
ふたりで並んで静かにその光景を眺める。
月明かりの下に浮かぶ光の絵は、まばゆくあたりを照らしている。
前回は無意識に描いたものだったが、今回はスヴェンの日記が教えてくれた。
あのときは自分の心を、そして今はエリオスの心を描いたのだ。
「これは、俺が子供の頃から夢見てきた理想の姿だ。叶わないと思っていたけど、君の絵を見て、不思議と吹っ切れた気がする」
エリオスの口調は穏やかだ。
「騎士になりたかったのね」
「そのために訓練をしていた。生まれつき体が弱く、よく病気をしていた。寝込むことが多いと、無性に動きたくなるんだよ。いつか騎士になろうと思っていた。毒に侵されるまでは」
「けれど、あなたの心はとても穏やかだわ」
「スヴェンに救われたからね」
「でも、まだ諦めきれていないということね」
「そうだろうな。君がこの絵を描けるということは、俺はまだ未練があるのだろう」
エリオスはふっと、かすかに笑みを浮かべた。
「まあ、これは……!」
エレノア様の声が庭先から聞こえた。
視線を向けると、バルコニーに出ていたのは彼女だけでなく、侯爵やカレン、そしてデイルとリックも眠そうな顔で姿を現していた。
「あっ! 兄ちゃん見て。スヴェンの絵が見える!」
リックが歓声を上げると、デイルも目を輝かせて感嘆した。
「騎士だ。すごくかっこいい」
「ねえ、スヴェンが帰ってきたの?」
「そんなわけないだろう。あれは……」
デイルの言葉を、侯爵が笑みを浮かべて続けた。
「レイラが描いた絵だよ」
「素敵ね」
カレンが侯爵のとなりでやわらかく微笑む。
エレノア様はわずかに肩を震わせながら、絵を見上げて目を潤ませていた。
「なんて、美しいのかしら」
彼女の感嘆の声が静かな夜に響き、頬を伝う涙が月明かりにきらめく。
その様子を見て、私は胸が締めつけられ、同時に熱くなるのを感じた。




