48
従僕のアランと狩猟犬のサムには、離れた所で待機してもらうことにして、リリーは傍で泣きじゃくっているケビンを見つめた。
大の大人が鼻水を垂らしながら、膝をついている姿を見るのは、もちろんこれが初めてである。
リリーは、なんだか責任を感じ、ケビンにハンカチを手渡した。
「よかったら、どうぞ。使ってちょうだい」
「うん……」
遠慮なく、上質なリリーのハンカチで鼻をかむケビンに、レイチェルはなにか言いたげに身を乗り出したが、リリーはやんわりとそれを制した。
今は、ケビンが落ち着くのを待つのが先決だからだ。
「大丈夫?少しは落ち着いた?」
やや時間を置いて、リリーが申し訳なさそうに尋ねると、ケビンは目を三角にしてリリーを睨みつけた。
「落ち着けるわけないよ!犬をたきつけるなんてひどいじゃないか!僕を殺す気なの!?」
「そ、そんなつもりはなかったの。ただ、あなたに用があっただけで。でも、怖がらせてしまって、ごめんなさい」
「ふん!今度は気をつけてよね!」
プイッと顔を背けるケビンに、レイチェルは今度こそ我慢がならなかったらしい。
腕組みしながら、一歩前に出た。
「奥様に向かって、その言い様、聞き捨てなりませんね!ちょっと顔がいいからって偉そうに!」
「偉そうってなんだよ。僕が男前なのは否めないけど、遺伝なんだから仕方ないだろう?っていうか、そもそも奥様って?誰のこと?」
「聞いて驚きなさい!こちらにおられる高貴なお方が、わたしの奥様です!」
レイチェルは、なぜか"わたしの"の部分をやけに強調しながら、自慢気にリリーを紹介した。
「奥様は、ウォータフォード伯爵夫人でいらっしゃいます!」
「へえ、君が……」
どうだと言わんばかりのレイチェルに対し、ケビンは冷静だった。
すっと目を細めて、無遠慮にリリーを見定める。
リリーは居心地が悪い気分になりつつも、それを受け入れるようにして、ケビンと視線を合わせた。
「こんにちは、リリーよ。わたしは、サイラスの……」
「知ってる。奥さんでしょう」
「え、ええ」
「で?その伯爵夫人が、僕になんの用なの?」
気負わない様子のケビンに、リリーはむしろ好感を持ったが、レイチェルは違ったらしい。
まるで糾弾するように、挑みかかった。
「奥様に対して、なんたる無礼な物言い!敬語を使いなさい!」
「レイチェル、いいのよ」
「でも、奥様!」
「本当にいいの。今は、それよりも大事なことがあるわ。ねえ、ケビン。実は、あなたにお願いしたいことがあるのよ」
「名前……」
「え?」
「どうして、僕の名前を知っているの」
「ああ、エルバートに聞いたのよ。もしかして、呼んではいけなかった?」
「……僕は、エルという名前が気に入っているんだ。僕にとって特別な名前だからね。それに、そもそもあなたには本名で呼んでほしくない」
「うん、そこに正座しなさい。わたしの拳で、その腐った性根を叩き直すっ!」
「れ、レイチェル、落ち着いて!」
目がすわっているレイチェルをなんとか宥め、リリーは改めてケビンと対峙した。
「えーと。エル、でいいのよね?」
「……うん」
「では、エル。あなたに改めてお願いします。サイラスのお母様は、あなたがサイラスの腹違いの弟ではないかと疑っているの。そのことだけが原因ではないけれど、二人は仲違いをしてしまって、エルバートも苦しんでいるわ。だから、その誤解を解くのを手伝っ……」
「嫌だ」
にべもない様子で、ケビンは顔を背けた。
取りつく島もないとは、まさにこのことだ。
「仲違いしたって言われても、僕には関係ないことだよ。勝手にやってくれって感じ。僕は、得にならないことはしないんだ。自分のためにしか動かない主義だからね」
キッパリと言う彼の様子から、それはきっと嘘ではないのだろうと、リリーは思った。
しかし、同時にこうも考えた。
嘘ではないが、本音でもないのだろうと。
リリーは、じっとケビンを見つめながら言った。
「じゃあ、あなたにとって得になることってなに?」
「え?」
ケビンは、キョトンとした表情で、振り返った。
そうしていると、あどけなささえ感じる。
血は繋がっていなくとも、サイラスと同じものをケビンに感じた瞬間だった。
きっと、これはケビンにとっても必要なことなのかもしれない。
サイラスやエルバート、そして彼の過去と向きあうための。
リリーは、なるべく優しい声音を意識しながら語りかけるように言った。
「あなたは、自分のためにならないことはしないと言ったけれど、エルバートやサイラスのために動くことは、あなたの得にはならないの?」
「それは……」
「あなたにとって、エルバートやサイラスは特別な人でしょう?だったら、彼らを手助けすることは、あなたにとっても利益になるんじゃないかしら」
「知った風なこと言わないでよ。僕は別に父さんやサイラスのことを特別だとは思っていないよ」
「嘘だわ。だって、あなたがELと名乗っているのは、父親の名前のElbertからとったからでしょう?普通、特別に思っていない人の名前を借りたりしないわ。それに、あなたはさっき言ったもの。あなたにとって、エルという名前は特別だと。エルバートとの繋がりは、どんな形であれ大切だと思っているから出たことばじゃないの?」
最初、彼の名前を聞いた時、リリーはLと書いてエルと読むのだと思っていた。
明らかに偽名っぽいし、それに意味はないのだと。
しかし、手紙にあったELという文字を見て、エルバートとの関係を知った時、ピンときたのだ。
ケビンがエルと名乗っている本当の理由に。
その証拠に、ケビンはバツが悪そうにしてはいるが、決してリリーのことばを否定しなかった。
それに後押しされるように、リリーは続けた。
「サイラスを兄と呼ぶのだってそうだわ。普通、そんな呼び方をすれば相手は嫌がるけれど、あなたは気にしていない。刺繍のハンカチを送るようないたずらもする。それって、サイラスが本気で怒らないと信じているからでしょう?許してくれるとわかっているから、そういう態度をとるのよ。それが特別じゃなくてなんなの?」
ケビンは、大きく顔をしかめた。
口をへの字に曲げて、不服そうにリリーを睨んでいる。
「ごめんなさい。あなたを怒らせたいわけじゃないの。ただ、あなたにとって大切な人たちを助けてあげてほしいだけなの。だから、エル、考えなおしてくれないかしら?」
「ふんっ」
顔を背けたケビンを見て、リリーは思った。
これが、この話はもうおしまいという彼なりのサインなのだろうと。
決して追い詰めたいわけではなかったので、ケビンの協力を取りつけるのは諦めるべきなのかもしれない。
リリーがそう考えていた時、背後に控えていたレイチェルが突然動いた。
「エルだかケビンだか知らないですけど、もう堪忍袋の緒が切れました!あなたが協力しないなら、実力行使にうってでるまでです!アラン!」
レイチェルは、アランを呼んだ。
よく響く大きな声だった。
「サムを放して!もう一度、あの男の匂いを追跡させてちょうだい!」
「ふん、聞こえるわけないよ。こんなに離れてるんだから……って、ぎゃああああー!?」
悲鳴に驚き、リリーが振り返ると、一目散にこちらに駆けてくるサムの姿が小さく見えた。
レイチェルの声は、離れた所にいるアランにも、バッチリ聞こえたらしい。
忠実に、レイチェルの頼みを叶えていた。
「逃げても無駄ですからね!サムの方が足が速いし、どこまでも追いかけてくるんだから!」
「悪魔だ!ここに悪魔がいる!」
「お黙りなさい!嫌なら、奥様に協力しなさいよ!奥様の言うことなら、サムも聞くから」
「冗談じゃな……って、うわぁぁー!本当にこっちに来たー!?」
ケビンは、涙目で木に張り付いた。
「わかった、わかったから!なんでも言うことをきくから、犬を僕に近づけさせないで!」
「男に二言はありませんね?」
「ないよ!」
ふふんと勝ち誇るように微笑んだレイチェルは、くるりと振り返ってリリーに言った。
とてつもなく良い笑顔だった。
「というわけで、奥様。サムをお願いします」
「え、ええ……」
呆気にとられつつも「おいで」と手招きすると、サムは方向転換して、嬉しそうにリリーの元へとやって来た。
優しく撫でてやると、尻尾を振って応えてくれる。
こんなに可愛い動物が苦手な人もいるなんてと他人事のように考えていると、ケビンの泣き声のような悲鳴が響き渡った。
「後生だから、そいつを早くどこかにやってよ!」
「そ、そうだったわね。ごめんなさい」
リリーは慌てて、サムを引き連れて、その場を離れた。
しばらく歩いた先でアランを見つけたので、サムを再び預ける。
リリーが戻ってくると、青白い表情のケビンがその場に膝をついて泣いていた。
なんだか、デジャヴを感じる光景である。
しかし、レイチェルはケビンに容赦しなかった。
「さあ、約束ですからね。行きますよ。ほら、さっさと立って!時間がもったいない」
「血も涙もないなっ!」
レイチェルに無理やり立たされたケビンは、散々悪態をつきながらも、涙を拭いてリリーを見やった。
「……で?どうすればいいの?」
「とりあえず、サイラスたちと合流しましょう」
リリーが提案すると、ケビンは口を尖らせた。
「えー、面倒だなー」
「アラン!サムを放……」
「わー!ごめんなさい!行きます、行かせていただきます!」
レイチェルが再び叫ぶ態勢に入ると、ケビンは急にキビキビと動き出した。
少々強引だが、時間がないのは事実である。
ケビンには申し訳ないが、このままサイラスたちの元へ行くしかない。
リリーは内心でケビンに謝りつつ、先を急いだのだった。
ケビンが覚えている限り、母はいつも泣いてばかりいた。
彼に捨てられたと泣き言を言う母に、ケビンはなにもしてやれず、生活も安定しない。
とにかく苦労した記憶しかなかった。
そんな貧しい暮らしの中、一通の手紙が届く。
母が病気で亡くなる少し前だった。
しかし、母は字が読めず、また周囲に字が読める人間もいない。
結局、母は手紙の封を切らず、そのまま保管していた。
その後しばらくして、母は息を引き取った。
散々泣いて、泣いて、さらに泣いて。
幼いながらに、これからは一人で生きていくしかない。
そう思えるようになった頃、一人の男性がケビンの前に現れた。
青天の霹靂だった。
警戒するケビンに、その男性は泣きそうな表情で言った。
一緒に来てほしいと。
その理由を、ケビンは問わなかった。
ただ頷き、男性について行った。
長い船旅だった。
しかし、ケビンに不安はなかった。
少なくとも、今までの生活以上に惨めで苦しいことはないだろうと思ったから。
そして同時に、こうも思った。
この人が、父親なのかもしれないと。
そして、それは真実その通りであった。
船が港に着き、さらに馬車で揺られること数ヶ月。
ケビンは大きな屋敷に立っていた。
傍らには父親のエルバートと、嬉しそうに微笑む身なりのいい紳士がいた。
紳士の背後には、顔をしかめた女性と、ケビンと同い年くらいの男の子が控えている。
二人とも、よく似た瞳でケビンを見つめていた。
とにかく、居心地が悪かった。
特に、紳士の隣に立つ女性は、まるで汚物を見るかのようにケビンを見下ろしている。
幼いケビンには、その理由はわからなかったけれど、きっと良い理由ではないのだろうと悟った。
ついて来なければ良かった。
そう思ったが、もう遅い。
後悔とともに、エルバートとの二人っきりの生活が始まった。
以前の暮らしと比べると、生活自体はマシになったけれど、孤独は増した。
エルバートは相当忙しいらしく、ほとんど顔を合わせることがなかったからだ。
そんな折り、どういうわけかケビンは、エルバートが仕えているという伯爵家で世話になることになった。
あの女性が伯爵夫人だと知ったのは、その時だ。
どんな嫌な目にあうのかと怯えていたが、夫人のマリー以外ケビンに敵意を向ける人間はおらず、案外ケビンは快適な生活を送ることができた。
伯爵は、とにかくケビンによくしてくれた。
あまり屋敷にはいなかったけれど、息子であるサイラスと同じように接してくれたのだ。
サイラスも同様だった。
まるで兄のように、親友のように、ケビンに親切にしてくれた。
使用人たちも、ケビンの素性をとやかく詮索せずにいてくれるし、むしろ親身になって世話してくれる。
ケビンは、もう孤独ではなかった。
母やエルバートがいなくても、幸せだったのだ。
むしろ、エルバートへの不満が募ったのは皮肉だった。
どうして、母を捨てたのか。
どうして、早く迎えに来てくれなかったのか。
どうして、一緒に過ごす時間をつくってくれないのか。
不満が疑問になり、それが恨みへと変わった時、伯爵が亡くなった。
そして、ケビンの幸せも終わりを告げた。
マリーは、屋敷にケビンがいることを許さなかったのだ。
再び、エルバートとの二人暮らしに戻ったケビンを孤独が襲う。
エルバートへの恨みは、募り続けた。
伯爵が本当の父親だったら良かったのにと、思わずにはいられなかった。
そうすれば、サイラスと一緒にいられたし、孤独でもなかったから。
母が亡くなる前に送られてきた手紙を読もうと思ったのは、そんな時だ。
手紙は、いつも肌身離さず持ち歩いていた。
内容が気になっていたのもあるが、母が大切にとっていたからだ。
こちらに来てからは毎日が幸せで、手紙のことなどあまり気にかけてはいなかったが、家庭教師をつけてくれた伯爵のおかげで、読み書きができるようになった今なら、ケビンでも内容を確認することができる。
ケビンは思いきって、手紙の封を切った。
エルバートからだと思っていたが、違った。
手紙の差出人は、伯爵だったのだ。
よく考えればわかることだった。
エルバートなら母が字が読めないことを知っているのだから、手紙など送ってこない。
ケビンは、急いで内容に目を通した。
手紙には、エルバートのことが書かれてあった。
エルバートが母とケビンのことを深く愛していること。
彼がなかなか迎えに行けないのは、こちらで親子一緒に暮らす基盤を築いているゆえであること。
必ずエルバートは迎えに行くから、その時は彼を拒まないでやってほしいことなど。
伯爵らしい優しげな筆跡で綴られたそれを、ケビンは黙って見つめ続けた。
エルバートに今すぐ会って、真実を確かめたかった。
彼が本当に母や自分を愛しているのかどうか。
決して、見捨てたわけではなかったということを。
ケビンがそうしなかったのは、寄宿学校に通えることになり、物理的にエルバートと会う機会がなくなったというのもあるが、それ以上にケビンは怖かったのだ。
もし、エルバートが自分たちを愛してくれていなかったのだとしたら。
母が言ったように、見捨てるつもりだったとしたら。
そう思うと、ケビンは不安で仕方がなく、どうしても真意を確かめる勇気が持てなかった。
ーーだからこそ、今まで見ない振りをしてきたのに。
ケビンは、チラリとリリーを盗み見た。
リリーの指摘は、すべて的を射ていた。
彼女のことばで、今まで蓋をしてきた事柄と向きあわざるを得なくなったような気がして、ケビンは納得いかなかった。
リリーの最初の印象は、とにかく地味な女というだけ。
サイラスには相応しくないと思ったし、事実彼はリリーを置いて行ってしまった。
無責任な行動だったが、相手がリリーではさもありなんといった風だった。
しかし、五年後、久しぶりに会ったサイラスは昔と変わっていて、正直ケビンは戸惑った。
その理由が、取るに足らないと思っていたリリーにあるというのが、さらに面白くない。
ーーしかも、この僕に犬をさし向けるような凶暴な女だしね!
まったくもって、サイラスにはつり合わないと思った。
サイラスも人間としては未熟だし、いろいろと問題はあるのだが、ケビンはそれも含めて愛していた。
もし、命をかけられるとしたら、サイラス以外にいないと思うくらい、ケビンには大切で特別な存在。
まさか、それをリリーに指摘されることになるとは思わなかったけれど。
会って間もないリリーに見抜かれたからこそ面白くないのか、それともサイラスが自分を置いて変わっていくような気がして怖いのか。
ケビンには、よくわからなかった。
とにかく、リリーのことはあまり好きになれそうにないと思った。
「エル?どうかしたの?」
ケビンが、難しい顔をしていたからだろうか。
リリーは心配そうに、こちらを見上げている。
「疲れたなら、少し休みましょうか?」
リリーが噂通りの嫌な女だったらいいのにと思った。
そうすれば、思いきり嫌うことができたのに、と。
ケビンは、複雑な思いでリリーを見つめ返した。
彼女の琥珀色の瞳に、一切の打算はない。
本当にケビンのことを心配しているのだ。
それがわかるからこそ、ケビンは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「別に休まなくていいよ。早くサイラスたちと合流したいし。あーあ、君たちと一緒だとなんだか落ち着かないんだよねー。犬もいるし、本当最悪……って、あれ?犬はどこ?」
「え?サムなら、アランと一緒に……」
振り向きざま、リリーが固まるのがわかった。
嫌な予感を感じたケビンが目を凝らすと……。
「うわぁぁぁあ!?また来たー!?」
使命に燃えるかのごとく必死に駆けてくる小さな獣を見とめたケビンは、居ても立ってもいられず全力疾走した。
そんなケビンの背中を見て「奥様に対する不届きな言動は許さない 」とばかりに悪い顔で微笑むレイチェルの姿があったのだが、もちろんケビンはそれどころでなく、そのことに気づいてさえいなかった。




