47
リリーは落ち着きなく、何度もスカートの裾を払った。
これは決して、久しぶりに義母のマリーと会う緊張感ゆえの行動ではない。
ーー久しぶりにオシャレをしてみたけれど、なんだか思った以上にソワソワするのよね。
巻き毛をゆったりと編み込まれ、小柄な体格をカバーするかのようなふんわりとしたデザインのドレスを身にまとったリリーは、全身シックな色合いでまとめてはいたが、随分と初々しく輝いて見えた。
今までの装いが垢抜けなかったというのもあるが、今のリリーの姿を見て、服に着られていると揶揄する者はいないだろう。
リリーは内心、無理をして若作りをしていると思われたら嫌だなと思いつつも、地味な印象の自分をここまで変えることができるレイチェルの腕には、心底感心させられた。
ただ、いったい、サイラスにいくらくらい使わせてしまったのだろうかと考えると、頭が痛い。
具体的な金額は知らないが、相当額のお金が動いたことを、リリーは知っていた。
サイラスがなにも言わないのをいいことに、レイチェルがあれもこれもとサイラスに買わせてしまったのだ。
年若い美女が着飾るならまだしも、身にまとうのは三十路手前の地味なリリーである。
どう考えても分不相応な気がしたが、レイチェルは手放しで褒めてくれるし、サイラスもなぜか満足そうに頷いていたので、リリーは素直に感謝のことばだけを伝えておいた。
感極まったレイチェルが、リリーに抱きつこうとしてメイド頭のアンに力づくで止められるという一幕はあったものの、午前中は終始和やかな雰囲気で過ぎていった。
そして、午後。
リリーは、サイラスと共にマリーを出迎えていた。
マリーとは五年振りの再会だったが、彼女の厳しい表情でさえ懐かしさを覚える。
感慨深い思いだった。
「母上、お久しぶりです」
「まあ、サイラス、本当に久しいこと。あなたが帰ってきたことは知っていましたが、こうして目にするまで、わたくしは信じていませんでしたよ」
「返すことばもありません。長らく不在にして申し訳ありませんでした」
サイラスが殊勝に謝ったので、マリーは一瞬、おや?という風に眉をあげた。
サイラスを値踏みするかのように目を細め、しかし、それ以上はなにも言わなかった。
ややあって、マリーの視線はリリーへと注がれる。
冷たい目だった。
サイラスを一瞥した時以上の。
サイラスの斜め後ろに控えていたリリーは、慌てて挨拶をしようと一歩踏み出したのだが、あえなく出鼻をくじかれてしまった。
リリーの真横を通り過ぎ、マリーが室内へと入っていったからだ。
リリーは急いで、マリーを追いかけた。
「お、お義母様、お久しぶ……」
「どうして、あなたがここにいるのですか。わたくしは、はっきり申し上げたはずです。屋敷から出て行くようにと」
「母上、そのことでお話があります」
リリーが言うより先に、サイラスが話を切り出した。
サイラスを見やると、彼の視線とかち合う。
「任せてくれ」と、そう言っているように感じ、リリーは小さく頷いた。
マリーの様子から、サイラスが説明した方が上手くことが運ぶような気がしたのだ。
サイラスは、やや硬い表情で、マリーを応接間に通した。
マリーが腰をかけ、紅茶を一口飲んだところで、ようやくサイラスは口を開く。
「母上、まずはじめに謝罪します。この五年間のわたしの振る舞いは到底、許されるものではありませんでした。長らくご心配をかけてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
サイラスが非礼を詫びたので、リリーも一緒に「申し訳ありませんでした」と述べた。
だが、マリーはなにも言わない。
無表情で、ジッとサイラスを見つめているだけだ。
怒っているのかもしれないし、呆れているのかもしれなかったが、どちらにせよ、気まずい雰囲気が流れたのは言うまでもない。
「母上、本当にわたしは……」
「もう、おやめなさい、サイラス。あなたの気持ちは、わかりましたから」
そう言いつつも、マリーはこちらを見ていなかった。
カップに注がれている紅茶をジッと見つめているその表情からは、なにも読み取れない。
しかし、サイラスは諦めなかった。
「わたしの不在時に領地を取りまとめてくださっていたとも伺いました。本当に感謝しています」
「別に、あなたのためではありませんよ。罪のない領民に迷惑をかけるのが不憫だっただけです。それに、屋敷や領地のことは、ほとんど家令に任せてありましたし」
「それでも、母上への感謝は消えません。ありがとうございました」
リリーも感謝を込めて、深々とお辞儀をする。
しかし、マリーは肩をすくめただけで、やはりなにも言わなかった。
サイラスの方を見てさえいない。
関心がないわけではないのだろうが、リリーはどこか無理に冷静さを装っているような、そんな印象を受けた。
それは、息子であるサイラスも同様だった。
浅く息を吐き出している様で、落ち着こうと必死に努めているのがわかる。
実の親子なのに、ぎこちない気もしたが、もしかすると以前からこの二人はこんな感じだったのかもしれない。
「それで?今日は、ただ謝るためだけに、わたくしを呼びつけたわけではないのでしょう?」
「はい。実は、リリーのことで話したいことがあります。五年前、母上は屋敷からリリーを追い出したと伺いましたが、それを取り消していただきたいのです」
「無理です」
マリーはキッパリと言った。
その頃には、先ほどまでのよそよそしさなど感じられないほど堂々とした態度に戻っていた。
「わたくしは、彼女にここにいてほしくありません」
「なぜですか」
「決まっているでしょう。五年前、あなたを止めなかったからです」
「しかし、それは、わたしに責任があることであって、リリーには関係ありません」
「いいえ、関係ならあります。もちろん、あなたに責任がないとは言っていませんよ、サイラス。あなたが一番無責任で罪深いことは揺るぎようがありません」
「ただ……」と続けざまに、マリーはリリーを見やった。
それは、ひどく冷たい眼差しだった。
明らかに、リリーを非難するものだとわかる。
「わたくしは、彼女も悪いと言っているんです。彼女には、伯爵夫人としての役割があった。夫の愚行を止めるという大切な役割が、ね。それを怠ったのですから、彼女にも責任はあります」
「だから、それは!」
「おやめなさい、サイラス。大きな声を出すのはみっともないですよ」
大きなため息をつきながら、マリーはカップを机上に置いた。
そのまま、無言で立ち上がる。
サイラスとリリーも慌てて、それにならった。
「サイラス、いくら、あなたが声高に主張しようと意見は変わりません。わたくしが正しいからです。あなたは伯爵としての義務を怠り、彼女は伯爵夫人としての義務を怠った。彼女を、この家にふさわしくないと思うのは当然ではありませんか。だからこそ、わたくしは屋敷から追い出したのです。サイラス、もちろん、あなたも追い出されて当然の愚か者ですが、伯爵位を継げる人間があなたしかいない以上、そういうわけにはいきません。ですが……妻は替えがききます」
「替え?それはどういう意味ですか」
「わたくしは、彼女と離婚すべきだと考えています」
その瞬間、サイラスが一気に無表情になったのがわかった。
ここ最近、彼のそういう表情は見たことがなかったので、リリーは思わず肩を揺らした。
これは、サイラスがひどく怒っている時の表情だったからだ。
「離婚ともなれば、周囲はうるさくなります。しかし、それも一時のこと。すぐに収まります。しばらくしたら、わたくしがこの家に相応しい女性を探してきますから、あなたはその方と再婚すればいいのです」
「……わかりました」
サイラスの声がひどく冷たい。
瞬間、リリーは血の気が引いていくのを感じた。
「縁を切ります」
「サイラス、それでいいのです。では、さっそく離婚申請を……」
「誤解しないでください。わたしが縁を切る相手は、母上、あなたです」
「!?」
声にならない驚きは、リリーのものだったのか、それともマリーのものだったのか。
はたまた、その場に居合わせた使用人たちのものだったのか定かではなかったけれど。
サイラスが言ったことばだけは、確かにそこに存在していた。
「……サイラス、あなたは今、自分がなにを言ったのかわかっているのですか」
「もちろんです、母上。わたしは、あなたと親子の縁を切りたいと申し上げました。あなたとは金輪際関わりたくない」
「なんて、罰当たりな子!母であるわたくしを蔑ろにするつもりですか!」
「蔑ろにしているのは、あなたの方だ!」
サイラスが声を荒げたので、リリーは条件反射でびくりと体が震えた。
だが、マリーはそれ以上だった。
今まで、サイラスに反抗されたことなどなかったのかもしれない。
マリーの表情は、驚愕のそれだ。
「あなたは、いつだってわたしを蔑ろにし続けた!あなたは、わたしが子どもの時でさえ苛烈だった!大人になった今も、それは変わらない!母上、あなたはわたしを愛してくれたことがありますか?」
「そ、それは……」
「わたしは、あなたから愛された記憶がない!子どもの時分でさえ、あなたはわたしに慈しみを示してはくれなかった!風邪をひいた時、手を握ってくれたことがありましたか?家庭教師が出す課題を満点で合格した時、頭を撫でてくれましたか?すべて否だ!わたしが伯爵として恥じない大人になることしか、あなたの頭にはなかったんだ!」
「…………」
「わたしはいい!もう、あなたに愛を求めることは諦めた!しかし、リリーにまでひどく当たるのは筋違いだ!それだけは、我慢できない!」
サイラスは、マリーに詰め寄った。
「わたしに関しては、いくらでも罵ってください!弁明のしようがないのは確かだ!しかし、リリーは違う!彼女には、彼女なりの理由があったはずだ!そういう女性だ!それを聞いてもいないうちから切り捨てないでください!」
「呆れた。サイラス、あなた本当に女のこととなると目がくらむのですね。なにを吹き込まれたのか知りませんが、我が家の家名を脅かした彼女の罪は変わりませんよ」
「いい加減にしてください!」
相手がもしマリーでなかったら、掴みかかっていたかもしれないほどの激しさで、サイラスは言った。
顔を歪めて笑っているような表情だったが、リリーにはサイラスが泣いているように見えた。
「そんなに大事ですか、この家が!伯爵という家名が!家族であるわたしやリリーでなく、爵位だけがあなたにとっての守るべきものだと?なんて、くだらない!」
「……くだらない?」
「そうです!あなたは伯爵夫人である前に、一人の母親だったはずだ!それを脇において、家の名誉だけを重んじることの、なんとくだらないことか!」
「くだらなくなんてありません!」
マリーは詰め寄るサイラスを押しのけるように叫んだ。
乱暴に声をあげるマリーを見るのは、それが初めてだった。
使用人たちも同様らしく、口を開けて、マリーを見つめている。
「くだらなくなんてない!わたくしにはそれが、伯爵という爵位だけが全てだった!わたくしには、それしかなかったのよ!」
魂の叫びだった。
胸の内をさらけ出す、マリーの心からの声だ。
それがわかるからこそ、誰もなにも言えなかった。
誰もが息をのむ。
そんな中、サイラスだけは懐疑的にマリーを見つめ、反論した。
「違う、あなたには父も息子もいた。守るべきものがあったんだ。少なくとも、父上はあなたを愛していたのだから、なにも持っていないわけがな……」
「あの人は、わたくしを愛していなかった!」
「え……?」
さすがのサイラスも、マリーのその一言には驚きを隠せなかったようで、目を瞬かせた。
リリーなど、面くらって固まってしまったほどだ。
「あなたの前では、良い父親を演じていたけれど、わたくしにとってあの人は良い夫ではなかった!彼には、他所に何人も愛人がいたんですからね!仕事と称して、家にほとんど帰ってこない夫を待つわたくしの惨めさがわかって?むせ返るほどの香水やお酒の匂いが夫からしても、気付かないふりをする虚しさを知ってるの?蔑ろにされていたのは、むしろ、わたくしの方だわ!省みてくれない夫を振り向かせるために、わたくしにできるのは家を守ることだけ!だったら、それを生きがいにしてなにが悪いのですか!」
「そ、それは過大解釈です。そもそも、父上は愛人など……」
「いなかったとは言わせませんよ、サイラス!あなたも知っているのでしょう?あの人には隠し子がいた!あの黒い男ですよ!」
「黒い……?もしかして、エルのことですか?」
サイラスは、エルバートを見やった。
そして、戸惑い気味に首を振る。
「母上、なにを勘違いしているのかは知りませんが、彼は違いま……」
「嘘をおっしゃい!あの男の髪と目、あの人とそっくりじゃありませんか!それに、あなたのことを"兄さん"と呼んでいるのをこの目で見ましたよ!」
「よしてください。くだらないことを言うのは」
「また"くだらない"ですか!そういうところが、あの人そっくり!」
「……どういう意味ですか」
「あの人に、他に愛人がいるのかと聞いて、一笑に付された時と同じ表情だと言っているんですよ!本当、年々、似てくるんですからね!あなたが隣国に渡った時、あなたたちはやはり親子なんだと確信しましたよ!不貞なところまで血は争えないと!あなただけは、そんな人間にならないように厳しく育てたつもりですが、意味がなかったようですね!しかも、あなたの場合、妻までふしだらで無責任ときています」
「リリーを悪く言わないでください!」
「事実を言っているんですよ!それなのに、聞く耳をもたないとは、つくづくやっていられませんね!」
「聞く耳をもっていないのは、母上の方です!」
再び剣呑な雰囲気になってきたので、リリーは困り果てたように、二人のやり取りを見つめた。
どうにか仲裁したいが、話が変な方向に向かっていて、どうにも口を挟めなかったのだ。
「わかりました、そこまで言うならわたくしは出て行きます!あなたが望むとおりにね!」
「勝手にしてください!」
売りことばに買いことばで、サイラスはそっぽを向き、マリーは部屋から出て行った。
マリーの足音がどんどん遠のいていく。
リリーは、焦った。
リリーとしては、ただマリーに謝りたかっただけなのだが、リリーへの誤解を解くことが発端で、サイラスたちが喧嘩別れのようになってしまったのが悲しい。
このまま二人に、疎遠になってほしくなかった。
大事な人たちと死に別れることが多いリリーにとって、それはあまりに切な過ぎる。
どうにかしなければならないと、強く思った。
リリーはギュッと手を握り締めながら、思いきってサイラスに話しかけた。
「ねえ、サイラス」
サイラスは気まずそうに、リリーを振り返った。
「すまない、リリー。変なことになってしまって。君の誤解を解きたかっただけなのに、上手くいかなかった」
「わたしはいいんです。それよりも、お義母様のことです。追いかけてください、サイラス。わたし、このままではいけないと思います」
サイラスとマリーの確執は今に始まったことではないようだが、それでも親子がこんな形で仲違いするベきではない。
血の繋がった家族なのだ。
今なら、まだ間に合う。
面と向かって、話し合えばきっと。
しかし、サイラスは頑なに首を縦に振らなかった。
「母上とは、昔からそりが合わなかった。君のことがなくても、いずれこうなっていたと思う。だから……いいんだ」
「よくないわ!」
リリーは、思わず、サイラスとの距離をつめて、真正面に立った。
ここで説得できなければ、サイラスとマリーは二度と家族として戻れないと思った。
リリーは必死だった。
「サイラス、あなたはわかっていないのよ。お義母様の本当のお気持ちを。お義母様は、あなたを愛しているわ。今も昔もずっと変わらず、あなたを慈しんでいたはずよ。あなたが気付いていないだけだわ」
「なぜ、そんなことが……」
「わかるかって?わかるわよ。だって、五年前、シドニー公爵夫人のハンカチを最初に破ったのはお義母様だもの」
「母上が?」
「ええ、そうよ。だから、わたしも夫人の気持ちに気づいたの。でも、よく考えて、サイラス。お義母様がハンカチを破った理由を。その真意を。ちゃんと向き合ってほしいの。お義母様の心と」
「わたしには……わたしには、わからない」
サイラスは不安そうに視線を逸らした。
そうしていると、大層幼く見える。
実際、サイラスの心はまだ幼いのかもしれなかった。
「……あまりにも長い間、母上とは壁があった。今さら、母上の気持ちを理解できるとは思えない」
「わたしにはわかるわ、お義母様のお気持ちが。お義母様はね、必死だったのよ。愛する息子に、真実を知って傷ついてほしくなかったから。必死にあなたを守ろうとしていただけなのよ」
マリー自身が一番わかっていたのだろう。
愛する人に裏切られた時の、底知れぬ悲壮感を。
押し寄せる絶望を。
今となっては、サイラスの父親の不貞行為について真実はわからない。
しかし、マリーはそれを未だに信じていて、ものすごく傷ついているのだ。
リリーにはマリーの気持ちは痛いほどわかった。
これは、同じ立場に立ったことがある人間にしかわからない感覚かもしれない。
「お義母様があなたに厳しかったのは、あなたを大切に想っていた証拠よ。幼いあなたが伯爵として立派にやっていけるか、心配だったはずだもの。それが母親だわ。さっきは、感情が高ぶっていて、ひどいことも言ったかもしれないけれど、あれは決してお義母様の本心じゃないわ」
「…………」
「よく考えて、サイラス。あなたを追って隣国に行ったのも、あなたをシドニー公爵夫人から引き離すように軟禁したのも、あなたが不在の五年間、領地をフォローし続けたのも、決して家のためじゃない。義務感じゃないの。そんなもののために、お義母様は動かないわ」
「じゃあ、一体……」
「見返りを求めない行動。人はそれを愛と呼ぶの」
感じてほしいと思った。
マリーの、サイラスに対する不器用で精一杯の愛を。
ややあって、サイラスは逸らしていた視線を、リリーに戻した。
その瞳には、まだ戸惑いが見えたけれど、迷ってはいないようだった。
一つ頷き、サイラスは部屋を出て行った。
マリーを追いかけるために。
リリーは、ひとまず安堵した。
同時に、問題はこれからだとも思った。
サイラスと和解しても、それは一時的なもの。
マリーのあの頑なさは、長年にわたる傷心からくるものだろうからだ。
サイラスの父親の人となりを、リリーは知らない。
不貞の真実もわからない。
しかし、マリーがなんらかの形で感情に区切りをつける方法があるとすれば、それしかないとも思う。
サイラスが話して誤解が解ければいいが、そもそも誤解でなかった場合、立ち直るきっかけがなにかあればいいのにと願わずにはいられなかった。
その時になって初めて、サイラスとの関係も前進するような気がしたから。
なんとなく他人事ではないように思いつつ、リリーは自分にできることはなんだろうと考えた。
ふと視線を彷徨わせ、リリーの瞳は執事のエルバートを捉えた。
なぜ、目に留まったかというと、彼が青ざめていたからだ。
ひどく怯えるような、戸惑っているような。
そんなエルバートの表情は、見たことがない。
リリーはエルバートに寄り添った。
「顔色が悪いわ、エルバート。大丈夫なの?」
「奥様、わたくし……どうしたら……」
リリーは目を瞬かせた。
エルバートが頭を抱え、辛そうに唇を震わせたからだ。
ただならぬものを感じたリリーは、近くの椅子を引き寄せて、エルバートを座らせた。
紅茶を入れて、カップを渡してやる。
エルバートの傍にしゃがみこみ、彼が一口飲むのを見守った。
「……申し訳ありません、取り乱しました」
「構わないわ。それよりも、どうしたの?わたしにできることがあれば、遠慮なく言ってちょうだい」
リリーが心配そうにエルバートの顔を覗き込むと、エルバートは弱々しく微笑んだ。
「奥様は、本当にお優しいですね」
「……優しいわけじゃないわ。あなたを心配しているだけよ」
優しいと言われるたび、リリーはいつも戸惑ってしまう。
自分の本性は、誰よりもわかっていた。
もし、優しい人間のように見えたのだとすれば、それはリリーが必死で繕っているからだ。
善良な人間を、完璧な淑女を。
だが、エルバートは首を振った。
その瞳は、眩しそうに細められている。
「奥様は、わたくしが知る限り、誰よりも慈悲深い方だ。そして、見返りを求めない。そんなあなただからこそ、わたくしは恥を承知で、今まで秘密にしてきたことを話せます」
「?」
「奥様、わたくしにはせがれが一人います。先ほど、マリー様がおっしゃっていた"エル"です」
「え」
リリーは、はしたなくも、口を大きく開けた。
エルバートに息子がいたことも驚いたが、それが件のエルなる人物だったとは、さらに驚きである。
「"エル"というのは、あいつが勝手に名乗っているだけで、本名はケビンといいます。あれの母親は、海を渡った大陸の出身でした」
ということは、もしかすると、ケビンには先住民の血が混ざっているのかもしれない。
黒髪に黒い瞳は、そこからの系譜だろうと思われた。
「彼女と出会った時、わたくしはまだ従僕でした。まだ若く未熟だったのです。彼女に妊娠したと告げられた時、結婚しなかった。後で迎えに行けばいいと思っていたんです。愚かでした。彼女やケビンより、己の出世を選んだのです」
使用人にとって、結婚は出世に響くことが多い。
どんな時も主人のもとへ駆けつけなければならないが、世帯を持つと住み込みで働けなくなるので、既婚者の使用人は雇い主から敬遠されるのだ。
「でも、あなたは後で迎えに行くつもりだったんでしょう?恋人を捨てて結婚しない無責任な従僕が多い中で、あなたは立派よ」
執事まで出世すれば、いくらかの自由が認められ世帯を持つことを許される。
エルバートは、執事になってから一緒になるつもりだったのだろう。
「使用人を辞めるという選択肢もありました。貯めたお金で、宿屋でも経営すれば良かったんです。しかし、わたくしはそれを選ばなかった。サイラスお坊っちゃま……いえ、旦那様の傍で仕えたかったのもあります。どちらにせよ、わたくしは彼女や息子より、仕事を選んだ。家族を捨てたのです。そのせいで、彼女たちがどれほど苦労したことか。今でも後悔は尽きません」
エルバートは、自嘲の笑みを浮かべた。
先日、見せた表情と同じだ。
サイラスとの夫婦関係について話した時の。
あの時は彼のプライベートを知らなかったが、今ならばあれはエルバートの後悔の表れだったのだとわかる。
リリーは慰めるように、エルバートのカップに紅茶を注ぎ入れた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。そういえば、今、ケビンのお母様はどうしているの?」
「二十年前に亡くなりました。わたくしが、執事になって間もなくの頃でした。病死だったと聞いています。ようやく迎えに行けると思っていましたが……結局、間に合いませんでした」
「……ごめんなさい。不躾な質問だったわね」
「奥様が謝ることではありませんよ。お気になさらないでください」
エルバートは、微笑みながら、また一口紅茶を飲んだ。
ややあって、話を再開させる。
「わたくしの元には、息子だけが残りました。引き取り育てるつもりで、わたくしはケビンをこの国に連れてきました。しかし、わたくしは良い父親ではなかったと思います。いつも仕事ばかりで、ケビンに構ってあげたことはほとんどありません。生活も決して楽ではありませんでした。ケビンには、嫌な思いばかりさせてしまったと思います……。そんなわたくしたちを不憫に思ってくださったのが、前伯爵でした」
「サイラスのお父様?」
「はい。前伯爵は、全面的にケビンの生活の面倒をみてくださいました。恐れ多くも、旦那様と一緒に過ごさせていただいた時期もあったくらいで。旦那様もケビンを弟のように可愛がってくださいました」
エルバートは、そこで話を切ると、急に肩を落とした。
「しかし、それがいけなかったのです」
「どういうこと?」
「わたくしは、ケビンと親子であることを、あえて周囲には知らせませんでした。隠していたわけではなかったのですが、あの頃のケビンは母親のことを思い出すと、ひどく塞ぎ込んでしまうようでしたので、なるべく母親の話題からは遠ざけたいと思っていたのです。そのためには、彼の出自を明確にしない方が都合が良かった。旦那様が仲良くしてくださったので、皆はケビンが遠縁の親戚かなにかだろうと思って、詮索してこなかったのも幸いしました」
「そうだったの……。もしかして、お義母様もご存知なかったのかしら、あなたたちが親子だと」
「はい、あの様子を見るにおそらく……。わたくしは、てっきり前伯爵が説明されているだろうと思っていたのですが」
サイラスの父親は、マリーにケビンがエルバートの子だと話していなかった。
だから、マリーはずっと勘違いしていたのだろう。
ケビンは夫の隠し子で、だからこそ、生活の面倒をみているのだと。
「ケビンは旦那様のことを、ふざけて"兄さん"と呼ぶことがありました。マリー様は、それをお聞きになったのだと思います。ケビンが、前伯爵と似た瞳や髪の色だったのは完全に偶然ですが、マリー様にとっては隠し子という結論を導き出す材料の一つになってしまったようです」
不運にも。
そう続け、エルバートは肩を落とした。
落胆するエルバートの腕を優しく叩いて慰めながら、リリーは思った。
マリーが、今までどんな思いでいたのだろうかと。
マリーのことを考えると、心が痛い。
胸が苦しくなるのを止められなかった。
「サイラスは、それが誤解だと知っているのよね?」
「はい」
「じゃあ、彼がお義母様の勘違いを正すことができればいいのだけれど」
親子関係の修復は、サイラスに頑張ってもらうとして、問題はマリーが夫に隠し子がいたとずっと思っているということだ。
サイラスとマリーの根深い確執は、そもそもそこからきているのではないかと思われた。
だからこそ、二人が本当の意味で和解できるのは、きっとその誤解が解けた時だろう。
「あなたから、話してみたらどう?」
エルバートならマリーも信頼しているので、すぐに誤解が解けるだろうと思っての提案だった。
しかし、エルバートは残念そうに首を振った。
「マリー様は信じないと思います。わたくしが、マリー様を慰めようと偽りを述べたとお考えになるのではないでしょうか」
「そう……。じゃあ、サイラスが説明しても、もしかしたら同じことかもしれないわね」
「残念ながら……」
なにか証拠になるものがあればいいのだが、そもそも隠し子でないケビンが、隠し子でない証拠など、あるわけがないのだ。
「うーん、困りましたねえ」
「ええ、そうね……って、レイチェル!?」
突然、割って入ってきた声に、リリーたちはまごついた。
いつからいたのか、メイドのレイチェルがリリーたちの背後で腕組みしている。
「れ、レイチェル、いつからそこにいたの?」
「エルバートさんに息子さんがいて、マリー様がその人を夫の隠し子だと勘違いしている、というあたりからです」
「……つまり、結構最初からいたのね」
リリーはため息をつき、エルバートは諦めたように首を振った。
しかし、レイチェルは気づかなかったようで、リリーの傍に近づくや、全身を見つめ、ニッコリと微笑んだ。
「本当に、今日の奥様は素敵ですね」
「あ、ありがとう」
「それなのに、マリー様ったら、なにもおっしゃってくださらないんだから」
唇を尖らせるレイチェルには申し訳ないが、あの雰囲気でそういうやり取りにはならないだろうと、リリーは思った。
リリーが苦笑していると、レイチェルはリリーのスカートの広がりをせっせと直しながら、なにげない様子で言った。
「マリー様にとって、益にならない第三者からの証言があればいいんじゃありませんか?例えば、エル……じゃなくて、ケビンさんのことばとか」
リリーは、ハッとした。
急いで、エルバートを仰ぎ見る。
「エルバートは、どう思う?」
「ケビンですか?わたくしから申し上げるより、効果はあるかもしれませんが……マリー様も、ケビンの性格はご存知でしょうし。マリー様のために、自分は隠し子ではないと言うような優しい奴ではありませんからね。しかし、ケビンは神出鬼没です。連絡をとっても、今都内にいるとは限りませんし……」
「ケビンさんなら、さっき会いましたよ。旦那様にお渡しするものがあるとかで。また、わたしが預かっていま……」
「レイチェル!」
「は、はい!」
リリーが大きな声を出したからだろう。
レイチェルは、ピンッと背筋を伸ばした。
「それを、早く言ってちょうだい!ケビンは、今どこなの!」
「さ、先ほどまで、使用人専用の出入り口にいました。わたしに、旦那様への預かり物を手渡した後は、帰って行きましたが」
「じゃあ、まだ間に合うかもしれないわ!追いかけましょう!」
エルバートたちを引き連れ、リリーは戸外へと飛び出した。
サッと周囲を確認するも、それらしい人影は見当たらない。
「二手に分かれましょう。エルバートは南側をお願い。レイチェル、わたしたちは北側を探すわよ」
「はい」
「かしこまりました」
リリーたちは、必死にケビンを探した。
普段、駆け回るようなことはしないリリーだが、なんとかマリーの誤解を解きたい一心だった。
しばらく走り、さすがに息が切れて、リリーは立ち止まった。
しばらく、肩で息をしていると、背後から声をかけられた。
「奥様?」
疑問形なのは、普段リリーがこんなところで走り回っていないからだろう。
不思議そうな視線が、リリーにささった。
「アラン、奥様はケビン……じゃなくて、エルという男の人を探しているのよ。見なかった?」
息切れで声が出ないリリーに代わり、レイチェルが問う。
アランというのは、従僕の一人だった。
彼は不思議そうに首を傾げながらも、レイチェルの問いに答えた。
「エルってもしかして、この間来られた方ですか?全身黒ずくめの」
「そう、その黒い人よ。今日も屋敷に来ていたんだけど」
「さあ、僕は知らな……って、うわっ!」
話の途中で、突然、アランがびくりと仰け反った。
見れば、アランの足元に、狩猟犬のサムがじゃれついているではないか。
「す、すいません。今、散歩中だったもので。サム、ちょっと待っ……」
「そうよ、サムだわ!」
ようやく息が整ったリリーは叫んだ。
レイチェルとアランはポカンとしていたが、構わず、そのまま膝をついてサムと目線を合わせる。
すると、サムは嬉しそうに、リリーにすり寄ってきた。
「お、奥様?」
「大丈夫。サムとは仲良しなの。それよりも、アラン。サムを借りていっても構わないかしら?」
「構いませんが、どうするおつもりですか?」
「サムに人探しをしてもらうのよ。レイチェル、彼から預かったものを貸してちょうだい」
「はい、奥様」
レイチェルは懐から、使い古した手袋を取り出して、リリーに手渡してくれた。
「これ、最初はあの人が手にはめていたんですよ。旦那様が来客中だとわかるや、急に脱ぎ出して、渡してくれと言われましたが」
見れば、手袋の中にぐちゃぐちゃに折られた紙が押し込められている。
もしかすると、こちらのほうがサイラスに渡したいものなのかもしれない。
紙の端に"EL"と署名があったので、手紙かなにかだろうか。
ーーそれにしても、ハンカチの次は手袋なのね。
リリーは苦笑した。
ケビンは、かなり変わった人物なのだろうと察して。
「さあ、サム。匂いを嗅いで。わたしたちに、彼の居場所を教えてちょうだい」
手袋に鼻を押し付けて、クンクンと嗅ぐ仕草をしたサムは「ワン!」と吠えざま、走り出した。
「追いかけましょう!」
リリーたちも急いで後を追った。
アランの前任者から、サムが臭気選別できると聞いた時は、まさか、その特技を活かす日が来ようとは思っていなかったが、今はそれが心底ありがたい。
サムは途中、何度か行ったり来たりを繰り返しながら、屋敷の敷地外に向かってグングンと進んだ。
途中、開けたところに来た辺りで、サムは急にスピードを上げてダッシュした。
そのまま向こうの茂みにダイブしたのだが、その刹那「ぎゃあ!?」という叫び声があがる。
リリーとレイチェルは顔を見合わせた。
「も、もしかして?」
「ええ、きっとケビンよ!」
リリーは確信めいたものを感じて、茂みの向こうへと走り出した。
リリーが茂みに入ってすぐ目にしたのは、木の上に向かって吠えているサムの姿だけだった。
ケビンはいない。
リリーは首を傾げた。
「サム、どうしたの?」
「ワンワン!」
ずっと吠え続けているサムの視線の先を追って、リリーは頭を上げた。
目を凝らすと、木の上になにやら黒い塊が見える。
「え?人?」
リリーが目を瞬かせると、小刻みに震えていた黒い塊が叫んだ。
「助けてよ!犬は大の苦手なんだー!!」
これが、リリーとケビンの初対面だった。




