49
「母上!」
サイラスがマリーに追いついた時、彼女の足は止まったものの、決して振り返りはしなかった。
呼びかけても、頑なに背を向けて、こちらを見ようとしないマリーに、サイラスはこれが自分たちの親子関係そのものを表しているような気がして、胸が苦しくなった。
「母上、どうか……」
そこまで言って、サイラスは口を閉ざした。
正確には、ことばが続かなかったのだ。
マリーの肩が小刻みに揺れているのが見えたからである。
サイラスは呆然とした。
ーー泣いているのか?あの母上が?
サイラスが知る限り、マリーは常に威厳に満ちた強い女性だった。
サイラスの父親が亡くなった時でさえ、毅然としていたあのマリーが、サイラスとの口論で涙を流すなど信じられない。
信じられないが、今、眼前の光景がそれを肯定していた。
「…………」
サイラスは動揺して、マリーになんと声をかければいいのかわからなかった。
ただ、じっとマリーの後ろ姿を見続ける。
細い肩だなと思った。
マリーの髪に銀色のものが混じっていることに気づいたのも、その時が初めてだった。
老いというより、彼女の心労を強く感じる。
この五年、いや、それよりずっと前から、マリーは苦労を重ねていたのかもしれない。
サイラスは、唇をかんだ。
思いきってマリーの前へと回り込み、その瞬間、ああ、やはりと思う。
マリーの潤んだ瞳に、涙の跡と翳りを見てとったのだ。
その表情を見られたくないのか、マリーは顔を背けたけれど。
サイラスには、それで十分だった。
マリーに、こんなにも脆い一面があるのだと知ったから。
動揺はあったが、リリーが言ったように、マリーの心と向きあいたい、むしろ、向きあわなければならないと強く思った。
きっと、サイラスが知らないマリーがそこにはいるはずだから。
「母上」
サイラスは、マリーに呼びかけた。
細心の注意を払い、冷静な声音を心がける。
「母上、こちらを向いてください」
マリーはなにも言わなかったけれど、ゆっくりとサイラスに視線を向けてくれた。
これが本当の意味で、二人が対峙した瞬間だった。
「ひどいことを言ってしまい、申し訳ありませんでした。だから、どうか泣かないでください」
ハンカチを差し出すと、マリーは視線を彷徨わせた。
戸惑った表情を浮かべながらもハンカチを受け取るマリーを、サイラスは見守った。
「……サイラス、あなたはわたくしを、さぞ愚かしい女だと思っているのでしょうね。息子であれ、泣き顔を見せて醜態を晒すなど、貴族として情けないと」
「いいえ、思っていません。むしろ……嬉しいです。母上は、今まで悲しみを誰にも見せずにきたのでしょうが、わたしはずっとあなたの本心を知りたいと思っていました」
「な、なにを……」
マリーは狼狽して、涙を拭く手を止めた。
思いあぐねるように揺れるマリーの瞳を、サイラスは真正面から受け止めた。
「リリーに言われました。わたしが気づかなかっただけで、母上はずっとわたしを愛してくれていたはずだと。違いますか?」
「そ、それは……」
「どうか教えてください。わたしは、母上の気持ちが知りたいのです」
「わたくしは……わたくしは、ただ…………」
マリーの逡巡を見てとり、サイラスは口を閉ざした。
なにも言わず、しばし見守る。
落ち着くまで待とうと考えたのは、きっとリリーであれば、そうするだろうと思ったからだ。
マリーは、随分と長い間、視線を彷徨わせていたが、ややあって、なにかを決意したかのように唇をかんだ。
ためらいがちにだが、重い口を開くマリーを、サイラスは見つめ続けた。
「……わたくしの気持ちは、ずっと変わっていません。あなたが生まれたその日からずっと」
「…………」
「あなたを産んだ日のことは、今でも鮮明に覚えています。愛する息子と夫に囲まれて、わたくしは幸せでした。お産は大変だったけれど、あの日はわたくしにとって人生最良の日だった。そして……」
マリーは、そっと手を伸ばした。
ためらいがちに伸ばされた手は、まっすぐサイラスに向かっている。
サイラスは、その手を優しく握った。
「あなたが生まれてからずっと、わたくしは幸せでしたよ。あなたを想わない日はないくらい。ずっと、ずっと愛していました。あなたのためなら、なんだってできる。死ぬことさえ怖くありません」
愛している。
それは、サイラスがずっと聞きたかったことばだった。
幼い時分は怖くて確かめられず、大人になってからは諦めていた母親からの愛情を、今ようやく実感できた。
自然と、目頭が熱くなる。
サイラスは、ゆっくりと目を閉じた。
瞼の奥で、幼いサイラスに微笑みかけるマリーの姿が見えたような気がして、また心が震えた。
「……ずっと母上に愛されたいと思っていました。わたしが愛するように、あなたにも愛を返してほしいと。でも、違ったんですね。あなたは愛してくれていた。わたしを心からずっと想ってくれていた。それが、それが、こんなにも嬉しいだなんて、知らなかった」
「サイラス……」
そっと目を開けた時、マリーの揺れる瞳とぶつかった。
いや、違う。
揺れて見えるのは、きっとサイラス自身の目が潤んでいるからだ。
自分とよく似た瞳を見つめながら、サイラスはそう思った。
「わたくしは不器用で、あなたにうまく自分の気持ちを伝えられた試しはありませんでした。それに、弱いところを見られたくなくて強がっていた部分もあります。でも……夫の死後もなんとか頑張ってこられたのは、あなたがいてくれたからです。あなたが、わたくしの生きる理由でした」
ふと、自分にとっての生きる理由はなんだろうと、サイラスは考えた。
父親の死後、心の拠り所といえば、エルバートやケビンたち使用人、初恋の相手であるヴェロニカの存在だけだった。
それでも、サイラスには十分辛かったのに、マリーにとって、自分の存在がそれに値するのだろうか。
「そんな顔をしないでちょうだい、サイラス。あなたは、いつだってわたくしの支えでしたよ。わたくしがずっと強がっていたせいで、わかりにくかったかもしれませんが……いえ、違いますね。それが間違いだったんだわ。わたくしは強くあろうとするのではなく、あなたと寄り添うべきだった。あなたにもっと本心を伝えていくべきだったんだと、今なら思います。ただ、あの頃はわたくしも必死だったんですよ。焦っていましたからね」
「焦る?」
「お祖母様のことは覚えていますか?」
「え、ええ」
サイラスの祖母は、亡くなって久しい。
マリー同様、厳格な人としてサイラスの印象には強く残っていたが、その祖母がどう関係してくるのだろうかと、サイラスは首を傾げた。
「わたくしは、あなたという跡継ぎがいたことで、夫の死後も屋敷に住んでいられましたが、あなたのお祖母様はそのことをあまり快く思ってはいませんでした。なにか理由をつけて、わたくしを実家に帰らせようとしていましたからね。でも、わたくしはあなたと離れたくなかった。それだけは絶対に嫌だったのです。厳しく育てたのは、あなたに立派な伯爵になってほしかったというのもありますが、あなたのお祖母様に追い出されたくなかったからなんです。あなたを伯爵として一人前に育てあげることが、わたくしがあなたの傍にいていい唯一の理由でした。あなたには、ただ嫌な思いをさせてしまうだけでしたが……あなたが馬小屋に行って、一人で泣いているのを見るのは、本当に辛かった」
「知っていたのですか?」
「当たり前でしょう。あなたのことなら、なんでも知っていますよ。幼いあなたが苦手な人参をこっそりナプキンに包んで残していたことも、夜中一人でお手洗いに行けずエルバートに泣きついていたことも、すべてね」
サイラスは、バツが悪そうに口元を押さえた。
まさかマリーに、そこまで知られているとは思わなかったのだ。
そんなサイラスを見て、マリーは少しだけ笑んだ。
「もちろん、あなたの初恋だって知……」
「母上!その話はやめましょう!もう終わったことですから!」
サイラスは急いで遮った。
幼い自分の恥部をさらけ出されそうで、なんだか気恥ずかしい。
だが、その恥ずかしささえ嬉しく感じてしまうのだから、母の愛とは偉大だと思った。
そんなサイラスに対し、マリーは不思議そうに首を傾げた。
「終わったことって、サイラス。そういえば、あなたたち、今どうなって……」
マリーが言いかけたその時。
突然、木立の間から這い出てくるようにして、黒いものが飛び出してきた。
ケビンだった。
化け物にでも追われているかのような必死な表情で、サイラスとマリーの前に飛び出したケビンは、サイラスを見とめるや、すがりついた。
「助けてよ、サイラス!僕、殺されちゃうよ!」
「は?藪から棒にどうしたんだ?」
「犬だよ、犬!君のところの!」
ああ、そういうことかと、サイラスは頷いた。
ケビンは昔、犬に追いかけられてからというもの、大の犬嫌いになった。
もういい大人であるが、相変わらず犬を見ると、この調子である。
よほどのトラウマだったのだろうとは思うが、サイラスにとっては、いまいち危機感が募らなかった。
ケビンが言う犬とは、おそらく狩猟犬のサムのことだろうが、サムは躾がされているので、命令されない限り人を噛むことはないのだ。
ケビンとしては、噛む噛まないの問題ではないのかもしれないが、サイラスは怪我をしない限り大丈夫だろうという認識である。
だが、悠長なサイラスとは対照的に、ケビンは半泣きでまくしたてた。
「君の奥さんは血も涙もない冷血漢だ!この僕に犬を差し向けるなんて悪魔の所業だよ!」
リリーに似つかわしくない単語ばかりが飛び出したので、サイラスは思わず眉根を寄せた。
「訳がわからん。誰か別の人と勘違いしてないか?」
「なんでだよ!僕は……」
その刹那、サムが使命にかられたかのような真剣な顔付きで、ケビンめがけて一直線に駆けてきた。
当然、ケビンは半狂乱になって叫ぶ。
「ぎゃぁぁぁあー!?来たー!?サイラス、追い払ってよ!」
「無理だ。わたしの言うことは、そこまできかん」
「役立たずー!木偶の坊ー!見掛け倒しー!」
失礼なことを言われ、サイラスはムッとした表情でケビンを睨んだ。
その時、ふと、サムの後方からこちらに駆けてくる人物たちに気づき、サイラスは睨むのを止め、目を凝らした。
「ん?誰かこっちに走ってきているな。アランか?いや、待てよ。あれは……リリー!?」
サイラスはギョッとした。
あのリリーがスカートをたくし上げて全力疾走するなど、ただ事ではない。
なにかあったに違いないと思ったサイラスは、リリーの方に走り出そうとして、しかし、それは叶わなかった。
ケビンが、サイラスの服をつかんだのだ。
「ちょっと、行かないでよ!僕が犬に殺されてもいいの!?」
「構わん」
「人でなし!」
意地でもサイラスを離そうとしないケビンと、それを振り切って動こうとするサイラス。
そんな無益な二人の攻防を、マリーはなんとも言えない表情で見つめていた。
だが、サムが飛びかかれるくらい接近したところで、ケビンが断末魔のような悲鳴をあげたものだから、マリーはさすがに放置できないと思ったのだろう。
よく響く良い声で、ピシャリと言い放った。
「待て!」
その刹那、サムは急ブレーキをかけて、立ち止まった。
マリーを見上げ、叱られた子どものようにシュンとその場に伏せる。
サイラスとケビンは、あんぐりと口を開けて、マリーを見つめた。
「なんですか」
「い、いえ……」
「なんでもありません……」
サイラスとケビンが揃って口を閉ざすと、マリーは「あら、そう」と肩をすくめた。
ややあって、ようやくリリーたちがサイラスたちの元へとやって来た。
息も絶え絶えといった風だが、サイラスたちと合流したリリーは開口一番、ケビンに謝った。
「ご、ごめんなさい。まさか、サムがアランを振り切って走り出してしまうとは思わなくて……あなたのこと、気に入ったのかしら。やたら追いかけたがるのよね……って、そんなことはどうでもよかったわ。エル、大丈夫?」
「大丈夫じゃないよ!僕はもう少しであの世に旅立つところだったんだから!」
「そのまま、どこへでも旅立ってしまえばよかったんですよ」
「れ、レイチェル」
ボソリと冷たい表情で呟くレイチェルを、リリーがなだめ、その隣で、ケビンが文句を言う。
いつの間に、ケビンとレイチェルはこんなに険悪な雰囲気になったのだろうと、サイラスは思った。
自分も仲介役を務めた方がいいのだろうかと考え、しかし、その前にレイチェルの関心は他に移ったようだった。
「あら、奥様。後ろ髪が乱れていますよ。今すぐ直しますね」
「ちょっと!僕を無視しないでよ!」
すでにレイチェルは、リリーの身なりを直すことにすべての意識を向けているようで、もうケビンを見さえしない。
憤懣やるかたないケビンは、傍らで管を巻いていたが、二人の口喧嘩自体は収まったようだ。
そんな二人の様子を、困ったように伺っていたリリーは、なんとか雰囲気を変えようと思案しているらしく、ふと、サイラスと視線があうと、これ幸いと話しかけてきた。
「そ、そういえば、サムを止めてくださったのね。サイラス、ありがとうございます」
「え。いや、わたしじゃないよ。サムを止めたのは……」
チラリとマリーを見るサイラスに、リリーは目を丸くした。
「も、もしかして、お義母様が?」
「ええ。別に大したことではありませんよ。犬は、賢いですからね。逆らってはいけない人間のことは自然とわかるものです」
マリーが至極当然だと言わんばかりにそう言い切ると、リリーは複雑そうな表情をした。
マリーの手前、同意していいものか判断に困ったのだろう。
しかし、ケビンはやっぱりといった風に叫んで、リリーを指差した。
「犬は、怖い人の言うことはよく聞くんだよ!つまり、わざと僕を追いかけるよう命令したのは君なんだ!君は、怖い人間だからね!」
「ちょっと!変なことを言わないでください!奥様はお優しい方なんですから!そもそも、サムは悪い人間を追いかけるのが好きなだけで、命令されなくても追いかけます!」
「それだと、僕が悪い奴みたいじゃないか!こんなに善良な人間に向かって失礼な!」
「それはないな」
「それはありませんね」
サイラスとレイチェルが真顔で言ったので、ケビンは地団駄を踏んだ。
「悲劇だ!」と天を仰ぐ姿は堂にいっていたが、なんだか残念な人間にしか見えないのは、いつものことである。
というわけで、ケビンのことは無視して、サイラスはリリーに話しかけた。
「で、リリーたちはどうしてここに?」
リリーにレイチェル、ケビン、サムという、あまりない組み合わせに、サイラスはずっと首を傾げていたのだ。
それに対し、リリーは一瞬、周囲を見渡して誰かを探す素振りを見せたが、諦めたように首を振って、話を切りだした。
「実は、お義母様に聞いていただきたいことがあって参りました」
「わたくしに?」
マリーが眉をあげると、リリーは大きく頷いた。
「エル、お願いできる?」
「あー、はいはい。約束だから守るけど、僕がなにを言っても変わらないと思うけどなー」
「そんなことないわ。あなたが頼りなのよ」
自分でなくケビンを頼るリリーに、サイラスは若干面白くなかったが、なにも言わずにやり取りを見守った。
すると、ケビンは乗り気でない様子で、マリーと対峙した。
「えーと、挨拶が遅れましたが、お久しぶりです、マリー様。僕のこと、覚えていますか?」
「え、ええ……」
「あなたが僕の素性のことで勘違いをしていると伺ったので、誤解を解きにきました。僕は前伯爵の隠し子ではありません」
「…………」
「あー、やっぱり信じられないですよねー」
怪訝な様子のマリーに、ケビンは頭を掻いた。
明らかに面倒くさそうにしているが、レイチェルがわざとらしく微笑んでサムを撫でると、そそくさと姿勢を正した。
「僕は、執事のエルバートの子です。本名はケビンです。母は……ずっと昔に亡くなりました」
「エルバートの?そんな話、聞いたことがありませんが」
「ですよねー……って、ちょっと、そこのメイドさん。待った、待った!そんな怖い顔しないでよ!わかってるから!」
ケビンは焦ったように、マリーに早口で言った。
「信じられないのはわかりますが、本当です。父にも確認してください。あ、そうだ!証拠があります。ほら、これです」
ケビンは懐から、丁寧に折りたたまれた手紙を取り出した。
相当、古いものなのだろう。
所々、擦り切れている。
「前伯爵から、僕の母に宛てた手紙です。読んでみてください」
サイラスは、驚きを隠せなかった。
父が、ケビンの母親に手紙を送っていたことを知らなかったからだ。
それはマリーも同様で、戸惑い気味に、手紙を受け取った。
逡巡の後に、手紙を広げて視線を走らせるマリーをサイラスたちは見守った。
ややあって、マリーは「あの人の字だわ」と呟いた。
どこかぼんやりした表情で、ケビンを見る。
「あなたは、てっきりあの人の子だと思っていました……だって、あの人はあなたの経済的な支援をよくしていたし……髪や目の色も、まるで……」
「容姿は、母親ゆずりです。母は海を渡った植民地の出身でしたから。あっちでは、黒い髪も目もそう珍しくありません。経済的な支援については、前伯爵の完全な善意です。僕というより、父のエルバートに対するものでしょうが」
「確かに、あの人はエルバートによくしていましたが……でも……」
「すべて事実でございます、マリー様」
サイラスは、ハッとして振り返った。
そこには、エルバートが申し訳なさそうに立っている。
彼にしては珍しく、前髪が乱れていた。
おそらく急いで走ってきたせいだろう。
それだけエルバートは必死なのだと、サイラスは悟った。
「マリー様には、本当に申し訳ないことをいたしました。マリー様はずっと、傷ついておられたのですね。知らずにいたとはいえ、すべてわたくしの責任です」
深々と頭を下げるエルバートの肩は震えていた。
いつも毅然としているエルバートの、それとは思えぬほどの弱さを垣間見たような気がして、サイラスの心は苦しくなった。
しかし、それはマリーも同様だったらしい。
エルバートに頭を上げるように言うマリーもまた、どこか苦しそうだった。
「マリー様、旦那様は……前伯爵は、本当にお優しい方でした。不甲斐ないわたくしを、いつも励まし支えてくださっただけでなく、息子のケビンにも同様の温情をかけてくださいました。財政的な支援をしてくださったのは、わたくしの不徳の致すところではありますが、おかげで、ケビンは立派に育ちました。本当に感謝しております。そして、そのせいでマリー様が勘違いをなさり、心痛める結果となったこと、心から謝罪いたします。誠に申し訳ありませんでした」
「エルバート……」
マリーは、何度か口を開閉させた。
なにか言おうとして、やめる。
その繰り返しだった。
サイラスは、どうしても見ていられず口を出した。
「母上、母上はエルの……いえ、ケビンのこと以外にも誤解しています。母上は先ほど、父上が不在がちなのは浮気しているからだとおっしゃいましたね。しかし、それは違います。違うと断定できます。父上は、本当に仕事で各地を回っていただけなんです」
父親の死後、サイラスも同様の仕事を引き継いだので知っている。
各地で情報を収集し、なにか我が国に不利な出来事があれば未然に防ぐ。
代々受け継がれている伯爵家の、もう一つの裏の仕事だ。
父の時代は、前の戦争終結後まもない時期で、とにかくきな臭かった。
サイラス以上に、父は多忙だったことだろう。
夜の商売を生業にしている女性から情報を聞くこともあったし、酒場で商人から情報交換することもあったはずだ。
父がいつも香水やお酒の匂いをさせていたのは、そのためだろうと、サイラスにはわかる。
しかし、サイラスがそうしたように、父もまた妻であるマリーには、その裏の仕事については話さなかった。
だから、マリーは誤解したのだろう。
夫が浮気していると。
隠し子がいるなどと、突飛なことを言い出した時は驚いたが、なにも知らないマリーからすれば、当然の疑惑だったのかもしれない。
「父上には、特別な仕事がありました。多忙だったのは、そのためです。しかし、その仕事の特殊性ゆえに家族には一切話さなかった。そのせいで、母上が傷つくことになったのは本当に残念ですが、父上はわたしにいつも言っていましたよ。"自分が不在の間、マリーを守ってくれ。彼女は、わたしが誰よりも愛する女性だから"と。嘘ではありません。わかりにくかったかもしれませんが、父上は本当に母上のことを愛していたのだと思います」
マリーは、唇をかんだ。
瞳は潤み、肩は揺れている。
もうそこに、以前の威厳に満ちたマリーはいなかった。
どこか頼りなげな、しかし、血の通った母親の姿を見てとり、サイラスは思わず、その細い肩を引き寄せた。
マリーは、抵抗しなかった。
マリーもまた、サイラスの背中にそっと腕を回し、優しく抱きしめてくれる。
サイラスが覚えている限り、それがマリーとの初めての抱擁だった。
それが、こんなにも優しく温かいものだったことを初めて知ったサイラスは、思わず泣きそうになった。
母の愛を、親子の繋がりを、肌で感じたからこそ、こんなにも心が震えるのだ。
ようやく、マリーと本当の意味で親子になったような気がして。
サイラスは、この上ない幸せを噛みしめた。
リリーが言っていた愛の意味を、全身全霊で感じながら。
リリーは、サイラスとマリーを見つめていた。
その表情は明るい。
一時はどうなることかと思っていたが、なんとか丸く収まって、本当に安堵した。
その輪に入ることはできないけれど、幸せそうなサイラスたちを見ているだけで、温かい気持ちになる。
それだけで、リリーは幸せだった。
「まったく、手が焼ける親子だな」
ケビンはつまらなそうに言ったが、反して、目尻は下がっていた。
彼なりに、サイラスの幸せを喜んでいるのだろう。
リリーは、そんなケビンを見つめた。
彼の横顔に、どこか憧憬を見てとる。
ケビンにもまた向き合わなければならない人がいることを、リリーは悟った。
「……君って、お節介だよね」
ケビンは、リリーを見ずに唐突に言った。
彼の視線は、いつのまにかサイラスからエルバートへと移っている。
「先に言っておくけど、僕の問題には首を突っ込まないでよね。自分の始末は自分でつけるから」
リリーは黙って頷いた。
他人であるリリーがしゃしゃり出るべきでないことは、十分理解していた。
だから、ただ「幸運を」という思いを込めて、ケビンを見つめる。
リリーにできるのは、それだけだった。
そんなリリーに対し、ケビンはため息混じりに首をかいた。
「君はさ、他人のことじゃなくて、自分の心配をするべきだと思うよ」
「え?」
「僕は、君のことが嫌いだ。聖人君子然とされると、鼻に付くからね」
「わ、わたしは、別に……」
「僕には、君がいい人間でいることに固執しているように見える。きっと、自分をそう戒めているんだろうけど、そんなの無理に決まっているよ。君は、神様じゃないんだからさ。だから、いい子でいるのはもうやめたら?もっと自分の幸せに貪欲になればいいよ。その方がよほど建設的だ」
ケビンはそう言うや、リリーの返答を待たずに、ヒラヒラと手を振って行ってしまった。
彼が向かう先には、もちろんエルバートの姿がある。
これから、ケビンとエルバートがどんな話をして、どんな関係に落ち着くのか。
リリーにはわからなかったけれど、二人が幸せになってくれたらいいなと思った。
それから、しばらくして、リリーたちは屋敷に向かって歩いていた。
ちなみに、ケビンとエルバートは二人で話し合うために、この場を離れていたので別行動である。
屋敷を出た時に比べ、人数は減っていたけれど、皆の雰囲気はとかく明るかった。
その際たる理由が、サイラスとマリーだということは明白である。
そのサイラスが、ふと歩みを遅め、リリーの隣に来た。
先ほど、ケビンに言われたことについて思いを巡らせていたリリーは、どこか、ぼんやりとした表情でサイラスを仰ぎ見た。
「リリー」
「はい」
「本当にありがとう」
「え?」
「君のおかげで、母上と向き合うことができた。君が言う通りだった。わたしは、母上のことをなにもわかっていなかった。そのことに気づかせてくれて、本当にありがとう。わたしは今、ものすごく幸せだよ」
はにかむように笑うサイラスを見るのは、それが初めてだった。
サイラスもそんな風に笑うのだと、どこか他人事のように考える。
「別に、わたしはなにもしていません。あなたやエル、エルバートたちが頑張ったから、お義母様と和解できたのだと思います」
「いいや。君のおかげだよ。君が背中を押してくれたんだから。そもそも、わたしが変わろうと思えたのだって、君のおかげだし」
変わる?
リリーは首を傾げた。
そして、ハッとしたように目を見開いた。
そうか、サイラスは変わったのかと、ようやく気づく。
リリーの知らないサイラスの一面を垣間見る度、それは今までリリーに見せなかっただけで、彼の本来の姿なのだと思っていた。
しかし、違ったのだ。
彼は変わろうと努力して、真実変わった。
だからこその、結果なのだと。
サイラスのこの笑顔も、マリーと和解できたことも、すべて。
前に進もうと努力したからこそ得られたものだった。
反して、自分はどうだろうと、リリーは考えた。
ケビンが言うように、ずっと善良な人間でいることに執着していた。
それが償いになると信じて疑っていなかった。
しかし、それではいけないのではないかと、ふと思った。
自分もまた、サイラスのように変わらなければならないのだろうか。
いつまでも過去を振り返らず、前に進む必要があるのだろうか。
そう自問自答し、しかし、その答えは出なかった。
ーーわからない……。わたしは、幸せになってもいいのかしら。
リリーは、不安げにサイラスを仰ぎ見た。
穏やかに微笑む彼の横顔に、なにか見出せないかと思いながら。




