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気詰まりな馬車の旅を終え、サイラスの屋敷に到着したのは、正午前だった。
毎月一度は訪れている場所だが、隣に立つサイラスの存在がそうさせるのか。
今日は、屋敷全体がまるで人見知りする幼子のように感じる。
まさに拒絶した雰囲気だった。
「リリー」
いつまでも屋敷を仰ぎ見ていたリリーの肩は、その声ではねた。
見れば、玄関前に立つサイラスがこちらを振り返っている。
リリーは慌てて、サイラスに近づいた。
彼にリリーと呼ばれることには、まだ慣れていない。
まるで自分の名前ではないような響きを覚えるのだ。
もちろん、そんなことではいけないし、早く慣れるべきなのだが、なかなかうまく心の整理がつかない。
人の心の、なんとままならないことか。
リリーは、サイラスの斜め後ろで立ち止まり、息を整えた。
その間、サイラスはなにを考えているのかよくわからない表情で、待っていてくれた。
「ありがとうございます。お待たせいたしました。さあ、入りましょうか」
「ああ」
サイラスが一歩踏み出すと、まるで魔法のように玄関のドアが開いた。
おそらく、誰かが中から開けてくれたのだろうが、サイラスは驚いていない。
彼にとっては、これが日常なのだろう。
だが、サイラスはなかなか入ろうとしない。
首を傾げながらリリーがサイラスを見上げると、ややあって、彼に背中をそっと押された。
そこで、ようやく先に入るよう促されていることに気付く。
リリーは、レディーファーストという認識がごっそり抜け落ちていた自分に、急に恥ずかしくなった。
どうか頬が真っ赤になっていませんようにと祈りながら扉をくぐると、玄関先に見慣れた顔ぶれが並んでいた。
「旦那様、奥様、お帰りなさいませ」
ただいまとは、すぐに返せなかった。
それは、執事のエルバートの声音が妙に優しかったからかもしれないし、メイド頭のアンの口元が若干緩んでいるように見えたからかもしれなかった。
メイドのレイチェルは、お手洗いにでも行きたいのか、ずっとソワソワしていたけれど、それさえもこんなに胸が熱くなる。
リリーは、一瞬だけ瞳を閉じ、微笑んで言った。
「ただい……」
「奥様ぁぁぁー!!」
ただいまの"ま"を言い終わる前に、レイチェルに両手を取られる。
いつも元気で笑っている印象しかない彼女が、目を腫らせて泣きじゃくっている姿は、見ているこちらが悲しくなるほどだった。
だが、レイチェルが悲しくて泣いているわけでないことは、リリーにもわかった。
彼女は、嬉しくて泣いているのだ。
鼻をすするレイチェルの手から、そっと自分の手を引き抜き、リリーはハンカチを取り出した。
「泣くほど喜んでくれてありがとう。わたしもあなたに会えて嬉しいわ。だから、早くいつものように笑ってちょうだいね。よかったら、このハンカチを使っ……」
「奥様ぁぁぁぁぁっっー!!」
余計に泣かせてしまったようで、レイチェルの顔は涙なのか鼻水なのかよくわからない液体でぐちゃぐちゃになっている。
とりあえず、ハンカチで拭いてあげようとしたら、隣で小さな笑い声が聞こえた。
サイラスだった。
笑いたいのを必死に堪えていたが、とうとう我慢できなくなった。
そんな感じの笑いだった。
サイラスでも、そんな風に笑うのだなと、どこか他人事のように考えていると、ふと、サイラスと視線があった。
しばし、見つめ合い、そして……。
「奥様!!」
レイチェルが急に間に入ってきた。
相変わらず、顔は謎の液体まみれだったが、もう泣いていない。
むしろ、少し怒っている様子だった。
「奥様!!」
「は、はい」
レイチェルの勢いに、反射的に返事をする。
すると、レイチェルは少し拗ねたように「奥様」と呟いた。
どうでもいいが、先ほどから「奥様」以外のことばを喋っていないのだが、大丈夫だろうか。
「奥さ……」
「レイチェル!もう、その辺にしなさい!」
ピシャリと言ったのは、アンだった。
いつのまにかレイチェルの背後に潜んでいて、ものすごい形相で睨みつけている。
レイチェルは、カエルが踏み潰されたような奇妙な声を出したが、決して振り返らなかった。
いや、できないのだろう。
固まるレイチェルに、アンは容赦なく畳み掛けた。
「奥様は、屋敷に到着されたばかりでお疲れなのですよ?あなたがさらに疲れさせて、どうするのですか!」
「……申し訳ありません」
レイチェルはシュンと肩を落とし、リリーから一歩離れた。
「奥様、大変失礼いたしました」
「わたくしからも謝罪いたします。申し訳ありませんでした」
謝罪するレイチェルの隣で、アンもまた頭を下げたものだから、リリーは焦ったように手を振った。
「気にしていないから、頭をあげてちょうだい」
ややあって、顔を上げるアンとレイチェル。
そんな二人の様子に、リリーは急におかしくなって笑った。
「あなたたちは相変わらずね」
無性にホッとする。
不安な気持ちを抱えての帰宅だったので、なおさらそう思った。
「毎月、会っていたのに不思議だわ。なんだか、ものすごく久しぶりな感じがするもの」
懐かしそうに目を細めると、レイチェルの瞳に再び大粒の涙が光ったので、リリーは慌てて話を変えた。
「えーと、そうだわ。わたしの荷物をお願いできる?積もる話は、それからにしましょう」
「かしこまりました!」
リリーの少ない荷物ケースを持ち上げるレイチェルの顔に、もう涙は見られない。
その様子に胸をなでおろしていると、傍に控えていたアンが静かな声音で言った。
「ところで、奥様のお荷物はどちらにお運びすればよろしいでしょうか?」
「え?」
どういう意味だろうと首を傾げ、リリーはハッとした。
アンは、サイラスの私室とリリーの私室、どちらに運べばいいのかと問うているのだ。
焦ったのは、リリーのほうだった。
もちろん、サイラスとやり直すと決めた以上、同じ部屋で過ごすこともあるかもしれないとは考えていたが、いきなりそれを突きつけられたような形となり、心が落ち着かず、戸惑ってしまったのだ。
リリーがまごついていると、助け船を出したのは、意外にもサイラスだった。
「……リリーの部屋のほうが、クローゼットが広くていいんじゃないのか。リリー、どう思う?」
「え、ええ。その、あなたさえ良ければ、わたしは構わないわ」
「わかった。じゃあ、リリーの部屋に荷物を運んでくれ」
「かしこまりました」
リリーは、正直安堵した。
覚悟していたとはいえ、さすがにいきなりサイラスの私室で過ごすだけの度胸はなかった。
だから、リリーの私室を使っていいと、サイラスが暗に認めてくれたことに、内心で安堵する。
「しばらく、ゆっくり過ごすといい。わたしは、少し用があるので出かけるよ。夕方には戻るから、夕食を一緒に食べよう」
リリーは目を瞬かせた。
結婚して間もない頃、サイラスの帰りを待って夕食にありつけなかったことが、まるで嘘のような提案だった。
リリーは、驚きを隠せないままに頷いた。
「は、はい。お待ちしています。その、お気をつけて」
「ああ、いってくる」
妻がいってらっしゃいと送り出し、夫がいってきますと出かけていく。
まるで、本物の夫婦みたいな会話に感心し、いや事実、わたしたちは夫婦だったなと思い直す。
ーーこれからは、こういう会話が増えていくのかしら。
想像したが、いまいちピンとこない。
サイラスの後ろ姿を、リリーは困ったように見送った。
リリーは、見慣れたような見慣れないような、そんな部屋を見渡した。
ここは、サイラスの屋敷にあるリリーの私室である。
結婚式の夜にサイラスから与えられ、義母のマリーに屋敷を追い出されるまでの短い間、寝起きした場所だった。
だからだろうか。
少ない荷を解き、クローゼットに整理していっても、あまりしっくりこないのは。
リリーがぼんやり考えこんでいると、背後からそっと声をかけられた。
アンだった。
「奥様、少しお休みになられてはいかがですか?」
「え、でも……」
「馬車での移動でお疲れになったのではありませんか?荷ほどきもすみましたし、ゆっくりお過ごしになられても誰も文句は言いませんよ」
「そうねえ……」
確かに、サイラスとの気詰まりな馬車の移動で、気疲れしたことは事実だった。
夕食までに、ゆっくり休んでおくのもいいかもしれない。
リリーは、申し訳なさそうにアンに言った。
「じゃあ、おことばに甘えて、少し休ませていただくわ。本当は、レイチェルとおしゃべりしたかったのだけれど……また明日にしましょうと伝えてくれる?」
「あのおバカ……いえ、レイチェルに気をつかっていただく必要はありません。調子にのるだけですので」
アンは、そうため息混じりに言い、「失礼いたします」と丁寧に一礼してから出て行った。
残されたリリーは苦笑しつつ、それでも一応、後でレイチェルに一言謝っておこうと思った。
頭の中でメモを取りつつ、リリーはゆっくりとベッドに横になった。
その途端、ドッと睡魔が押し寄せてくる。
どうやら、思った以上に疲れが溜まっていたようだ。
瞼が重い。
ちょっと横になるだけのつもりだったが、夕方までの数時間だけ眠っておこう。
そこまで考えて、リリーはゆっくりと意識を手放したのだった。
「……ーーーー」
声が聞こえたような気がして、リリーは振り返った。
「……ーーーー」
やはり、声が聞こえる。
だが、どこから聞こえるのか、なにを言っているのかまでは判然としない。
「え?なあに?」
リリーは、問いかけた。
辺りを見渡し、声の正体を探る。
「……ーーーー」
「よく聞こえないわ。もう一度言って」
「……ーーーー」
リリーは、肩を落とした。
まるで、水中から音を拾うようなもどかしさである。
だが、なんとなく、呼ばれているような気がするのはなぜだろう。
声が妙に切実だからだろうか。
それとも……。
ーーなにかを訴えようとしている?
それは直感だったけれど、当たっているような気がした。
リリーは、もう一度、辺りを見渡した。
そして、問いかける。
「あなたは誰?なにが言いたいの?」
「……ーーて!」
「え?」
「気を…ーー」
気をつけて。
そう聞こえたように感じた。
そして……。
「んっ……」
リリーは、ゆっくりと瞳を開けた。
見慣れない天井を見つめ、ここはどこだろうとぼんやり考える。
「そうだわ。わたし、サイラスの屋敷に帰ってきたんだったわ。それで、自分の部屋で眠って……」
そこで、リリーは飛び跳ねた。
急いで、窓から外を確認する。
いや、確認するまでもなかったかもしれない。
周囲は、完全に常闇のカーテンを閉めていたから。
「どうしよう。寝過ごしちゃったんだわ」
夕食はどうなったのだろうか。
サイラスは帰ってきたのだろうか。
リリーは、慌ててベッドから這い出し、廊下へと飛び出した。
「奥様?」
「アン!」
部屋から出てすぐに、アンと鉢合わせしたリリーは、矢継ぎ早に尋ねた。
「サイラスは?もう帰ってきている?夕食はどうなったの?わたしったら、熟睡しちゃって。遅刻もいいところだわ。ねえ、サイラスは今どこかしら?謝ったほうが……」
「奥様、落ち着いてください」
静かな声音になだめられ、リリーは押し黙った。
寝過ごして取り乱すなど、今までなかったことだ。
自分が情け無い。
「旦那様は、夕方頃にお戻りになりました」
「ああ……」と、リリーはことばにならない声を漏らした。
さぞ、サイラスは呆れ果てていることだろう。
「奥様がぐっすりとお休みになられていたので、旦那様は寝かせておこうとおっしゃいました。夕食はまた後日でいいと」
「え?」
「代わりに、朝食をご一緒にどうかとのことでした」
「さ、サイラスは、その……怒っていなかった?」
「いいえ。よほどお疲れなのだろうと心配されていたくらいで」
あのサイラスが心配していたなど、あまり想像できないが、それはそれで申し訳ないことをしたなと思った。
夕食をすっぽかした上に、余計な心配までかけさせてしまっていたとは。
妻として、失格である。
リリーは、チラリとサイラスの私室の扉を見つめ、そして項垂れた。
「……明日、朝食の席で謝るわ」
せっかくの夕食を台無しにしてしまったことや、夫を放置して眠り込んでいたこと自体、淑女としてあるまじき失態である。
謝ってすむような問題でもないのだが、リリーの倫理観が許さなかった。
だが、さすがに今から押しかけて謝るのは迷惑だろう。
明日まで待つほかない。
リリーが難しい顔でため息をついたからだろうか。
アンは慰めるように言った。
「そんなに思いつめる必要はないのではありませんか?旦那様は別に気にされていないと思いますし」
そうであればいいのにと、思わずにはいられなかった。
結局、リリーはその後もずっと不安を抱えたまま、寝付くことができずに朝を迎えた。
その頃にはすでに、先ほど見た夢の内容など、すっかり忘れてしまっていたのだった。




