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帰ってきた夫  作者: 西子
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リリーに「やり直そう」と提案し、屋敷に迎え入れるまでの三日間。

サイラスは、とにかく忙しく働いていた。

一日目は、"帰ったらやるべきリスト"を頭の中で引っ張りだし、次々とチェックを入れていくことに費やした。

領地内の穀物栽培や収穫、供給などの報告を頭に入れ、税金や関税の支払い決裁を、手慣れたように行っていく。

特に、使用人たちの給金に関しては、力を入れて取り組んだ。

サイラスが隣国で無責任に過ごしていた間、屋敷や領地を守ってくれていたのは、他ならぬ使用人たちである。

彼らの働きに報いるためにも、手当てという形で、本給を上回るように色をつけておいた。

もちろん、金銭的に報いるだけではいけないので、サイラスの今後の働きが重要になってくるのだが。


ーー手始めというわけではないが、月給制の話を進めてみるのもいいかもしれないな。


使用人への給料は、年一回支払われるのが一般的である。

だが、サイラスとしては月払いにしたいと以前から考えていた。

いきなり変えるのは混乱をきたすので、四季払いから段階的に始め、最終的に月払いにするのがいいかもしれない。

明日、屋敷や領地の使用人たちに打診してみよう。

そう考えたところで、サイラスは大きく伸びをした。


「もう、こんな時間か」


窓の外を眺めながら、首筋の強張った筋肉を揉む。

朝から働き始め、今や夕方。

一旦、休憩を入れる必要があった。


「旦那様」


サイラスの気持ちを読んだかのようなタイミングで、エルバートから声をかけられる。

優秀な執事に、内心で微笑んだ。


「エルバートか。入ってくれ」

「失礼いたします」

「ちょうど、呼ぼうと思っていたところだ」


エルバートはただ頷いただけだったが、表情でわかった。

彼が、ずっとタイミングを見計らっていてくれたことに。

エルバートは謙遜するだろうが、優秀で忠実な執事に恵まれたことを誇らしく思う。

サイラスが思わず微笑むと、エルバートはわすがに口角をあげた。

その変化だけで、エルバートが照れていることがわかる。

彼とも、長い付き合いだった。


「エルバート、実は聞きたいことがあるのだが……」

「奥様の件ですね。承知しております」


どこまでも優秀な執事は、心得たように頷いた。

お茶の準備まで完璧に整え、サイラスが休憩がてら話を聞くことができるように配慮してくれている。

サイラスはありがたく、お茶を一口飲んだ後で、話を切り出した。


「赤いユリのことを詳しく知りたい」

「かしこまりました」


エルバートは、彼が知る限りのことを丁寧に説明してくれた。

八月の上旬になると、敷地内で発見される赤いユリの話を、サイラスは黙って聞き入った。


「なるほどな」


サイラスは、最後まで話を聞いた後、小さく呟いた。

その表情は、エルバート同様、厳しい。


「確かに、お前が言うとおり嫌な予感がするな。まだ判断材料が足りない気はするが、用心するにこしたことはないだろう」

「では……」

「ああ、詳しく調べてみようと思う。"あいつ"を呼んでくれ」

「かしこまりました」


エルバートは満足そうに頷いて、退出していった。

それを黙って見つめていたサイラスは、扉が静かに閉まった後で、ため息混じりに呟いた。


「……直接会うのは、五年振りになるのか」


なんとなく乗り気になれないのは、"あいつ"の性格を知っているからか。

それとも……。


サイラスはソファーに背中を預け、天井を仰ぎ見た。

浮かない表情のままに、窓から覗く夕陽が、サイラスの頬を徐々に漆黒に染めていった。







"あいつ"がやって来たのは、その日の深夜だった。

物音一つさせず、サイラスの書斎に入ってきたその人物を、サイラスは見つめた。

まるで闇そのもののようだと思う。

夜を支配する黒髪に、黒い瞳。

服装まで黒で統一されているのは、意図的なのか、ただの趣味なのか。

サイラスには、よくわからなかった。


「お前は、相変わらずだな」


挨拶抜きでしみじみ言うと、その出で立ちからは想像もできないようなひょうきんな声音が返ってきた。


「ご挨拶だな。やあ、久しぶり!元気だった?くらい言えよ。君だって相変わらずじゃないか。そもそも、いつぶりだっけ?五年?そう五年だ。君が愚かにも、愛人の尻を追いかけて隣国に渡って以来だ」


ドカリとソファーに腰掛け、机に足を乗せながら、ニヤリと笑うその人物を、サイラスは呆れながら、しかし、どこか憎めないままに見つめた。


「君って、なんていうか、仕事以外はてんでダメな奴だよね。特に、恋愛面!人を愛せることは尊いけど、相手が既婚者じゃあ、道理に反するよ。まあ、浮気するクソ貴族なんて、今日日ゴロゴロいるけどさー。君は、違うと思ってたんだけどなあ。ああ、なんか裏切られた気分だよ」


肩をすくめ「やれやれ」と、あからさまにため息をつく様は、いかにも堂に行っていたが、どこかアンバランスな印象を受ける。

それさえも、その人物の魅力だった。


「しかも、君は貴族としての義務を放ったらかして、五年も無責任に隣国で過ごしていたっていうんだから、笑っちゃうよ。呆れを通り越して、もはや感動を覚えるレベルさ」


サイラスは、頷いた。

まったくもって、その通りだったからだ。

反論の余地はない。


「そもそも、君は結婚するべきじゃなかったんだ。どんな理由であれ、諦めきれないとわかっていたんだろ?だったら、その意志を貫くべきだった。賢い君なら、それができたはずだよ。なあ、そうだろう?"兄さん"」


面白そうに"兄さん"と語尾を強調し、こちらの顔を覗きこんでくるものだから、サイラスは思わず眉を寄せた。

そっと顔を背け、距離を取る。


「その呼び方はよせと言っているだろう。わたしは、お前の兄じゃないぞ、エル」


エルと呼ばれた人物は、今度こそ笑い声をあげた。

彼は、サイラスの迷惑顔を見るのが、なによりの楽しみなのだ。

嫌な趣味である。


「別に、なんて呼ぼうがいいじゃないか。"兄さん"というのは、むしろ親しみを込めて言っているんだしさ。それに、僕たちって容姿がちょっと似てるだろ?兄弟でも通るよ」

「通らないし、似てもいない」


サイラスが嫌そうに言うと、反対にエルは満足げに頷いた。

本当に、嫌な性格をしている。


ちなみに、エルというのは偽名だ。

サイラスは彼の素性を知っているが、本名では決して呼ばない。

エルは、いわゆる情報屋だった。しかも、優秀な。

彼は情報屋という胡散臭い肩書きをさらに胡散臭くしようという、よくわからない思考回路で自身をエルと名乗っているのだが、仕事の内容を鑑みるに、確かに偽名を使った方がいいだろうと、サイラスも判断したのだった。

情報屋というのは、思った以上に危険と隣り合わせの職業である。

だが、当の情報屋であるエルからは、危険のきの字も感じさせない。

今も、呑気そうに欠伸をしていた。


「で?今日はなに?可愛い"弟"に会いたくて、呼んだわけじゃないんだよね?」

「当たり前だろう。仕事の依頼だ」


サイラスは、エルに赤いユリやリリーの実家への脅迫文などについて話して聞かせた。

エルは黙って、それに耳を傾ける。

とある仕事の関係で出会って以来、サイラスはたびたび、エルにこうして情報収集を頼んでいた。

情報の正確さは折り紙つきである。


「うーん……」


だが、当のエルは腕を組んで、難しい表情をした。

彼にしては珍しい反応だった。


「どうしたんだ。わたしはただ、リリーの周辺の情報を、できる範囲で集めてほしいと言っただけだが。そんなに難しいことなのか?」

「ん?いや、全然。国家情報を盗んでこいなんていう無理難題に比べれば、簡単なことだよ」


では、なにをそんなに悩んでいるのか。

サイラスには、よくわからなかった。


「いやさー、不思議なんだよね。君は、今までプライベートなことで僕を頼ることは絶対にしなかっただろう?いつも仕事関係の依頼だけだった。それが、君の流儀。曲げられない倫理観だったはずだ。でも、今回は違った。いや、今回だけは違うんだ。"弟"としては、その理由が気になるんだよね」

「それは……」


サイラスは、言い淀んだ。

答えたくないわけではなく、答えられないからだ。

サイラス自身でさえ、指摘されるまで気づかなかった。

確かに、仕事以外でエルを頼ることを、サイラスは良しとしなかった。

今までのサイラスであれば。


ーーじゃあ、今回はどうして?なにが違うんだ?


なにが、そうさせたのか。

自身に問いかけ、しかし、首を振る。

その答えを、サイラスは知らなかったから。


戸惑うサイラスに、だが、エルは満足そうに頷いた。

納得がいった。そんな表情だった。


「わかった、わかった。君の気持ちは、十二分にわかったよ」

「どういうことだ?わかったって、一体なにが……」

「君が知る必要はないよ。いや、その内、自分で気づくかもしれないけど。面白そうだから、僕からはなにも教えてあげない。その代わり、さっきの依頼は受けてあげるよ。しかも、タダで!僕って、なんて優しい"弟"なんだろう!」

「いや、別に金は払……」

「じゃあね、"兄さん"!」


サイラスのことばを遮り、エルはヒラヒラと手を振りながら書斎から出て行った。

なんとも慌しい奴である。

サイラスは、怪訝な表情のまま、エルが出て行った扉を見つめた。


「まあ、一応依頼は受けてくれたから、いい……のか?」


その疑問に答えてくれる人は、もちろん誰もいなかった。







翌日。

サイラスは、朝早くから馬車で移動し、自身が治めるウォーターフォードの領地に立っていた。

約五年ぶりに、領地に足を踏み入れたサイラスは、タウンハウスでしたのと同様に、使用人たちに謝罪した。

正直、石を投げられても仕方がないと思っていたが、小作人をはじめ、使用人のほとんどがサイラスを温かく迎え入れてくれた。

サイラスとしては、複雑な心境だった。

責められた方が、どれほど楽だったか。

そう考えると、昨日エルに非難されたことは、むしろありがたかったのかもしれない。

皮肉にも、エルは"優しい弟"だった。


「ところで、母上は?姿が見えないが」


マリーが、サイラスの不在時に領地を守ってくれていたことは、執事のエルバートから聞いて知っていた。

隣国で滞在中、マリーとは随分と衝突したので、まさかこんな形でサイラスをフォローしてくれるとは思わなかったが、サイラスの不実や無責任さを諌めようとしてくれたマリーには、誠心誠意の謝罪と感謝を伝えなければならない。

その上で、リリーへの誤解を解くのだ。


しかし、サイラスのその意気込みは、どうやら無駄に終わったらしい。

マリーが、急遽、知人の葬儀に出席することになったからだ。

サイラスとは行き違う形で、マリーが遠方に出向いていったと聞き、正直、肩透かしをくらった気分だった。

サイラスとしては、マリーとの確執ゆえに、今まで避けてきた部分も過分にあったのだが、今回ばかりはそうもいかないし、一度きちんと話し合う必要性も感じていた。

それが先延ばしになったことで、なんとも落ち着かない面持ちではある。

だが、葬儀ならば致し方なかった。


ーーまた後日、会いに来よう。


今のところ、サイラスにはそうするより他にどうすることもできないのだった。


その後は、領地を回って作物の栽培を確認したり、昨日考えていた給料の支払いについて使用人たちに意見を聞いたりして、忙しく過ごした。

あえて、忙しくしていたのもある。

明日は、とうとうリリーが屋敷に戻ってくる日だからだ。

期待や高揚感とは違うし、不安なわけでもなかったが、心と体がソワソワして仕方がない。

リリーを守り、今までのことを償う機会に恵まれた。

それを無駄にしたくない一心で、気持ちがはやるのだろうが、果たして、償えるだけの働きを自分はすることができるのか。

それが、本当の意味でリリーの幸せに繋がるのか。

サイラスとしても、いまいち自信が持てない。

だからこそ、こんなにも心が騒つくのだ。


エルから便りが届いたのは、そんな時だった。

領地からタウンハウスに帰ってきて間もなくのことである。


「相変わらず、仕事が早いな」


一枚の汚いテーブルナプキンを見つめながら、サイラスは呟いた。

便りといっても、便箋ではなくテーブルナプキンを使って伝言をしたためるあたり、エルの人となりがよくわかるというものだ。

苦笑しながらも、サイラスは伝言に目を通す。


「前夫の死に不審な点あり。他殺の可能性も考えられる、か……」


ますます、きな臭い。

サイラスは、眉をひそめた。

リリーの前の夫であるジェイソン・キャトリーの死は、リリーの浮気が原因で、愛人と決闘した末のものというのが有名な話だが、公的には自殺として処理されている。

というのも、ジェイソンの両親が証言したからだ。

ジェイソンが生前、悩んでいる様子だったと。

遺体の手首に、いくつか自傷の跡があったのも、証言の信憑性を強めた。

ペーパーナイフという殺傷力が微妙なものを使ったことから、もしかすると本当に死ぬつもりはなかったが、衝動的な行動で、運悪く死に至ったのではないかとの警察の見解を、エルの報告は最後に綴っていた。

だが、もしこれが自殺でなく他殺だった場合、あるいは他殺だと考える第三者がいた場合、どうなるのか。

サイラスは表情を曇らせた。

ジェイソンが亡くなった八月上旬に送られてくる赤いユリと「人殺し」の脅迫文。

リリーの両親の死や、弟のピーターが襲われたことを合わせると、さらに不穏な様相を呈してきたように感じる。

それらすべての悪意が、嫌な形でリリーに向けられている気がしてならなかった。


「リリーの実家のモンゴメリー領が、今物騒なことになっているのも、関係がありそうだな」


領民が、なかなか橋の復興が進まないと嘆いていたのを思い出し、サイラスの眉根のしわはさらに深くなった。


「ガラの悪い野盗を捕まえた時、黒幕の正体について問い詰めておけばよかった」


思わず、舌打ちする。

あの口の軽い野盗は、ハッキリと橋を燃やすよう頼まれたと言っていたではないか。

つまり、それを指示した人物がいるわけで、そいつがリリーに対して良からぬことを画策している張本人かもしれないのだ。


「エルに、追加で調査してもらう必要があるな」


サイラスは、テーブルナプキンをグシャリと握り潰し、赤々と燃える暖炉へとくべた。

じっと、暖炉の火を見つめる。

すでに時計は、零時を過ぎていた。

あと数時間後には、リリーが戻ってくる。


ーー朝になったら、リリーを迎えに行こう。


サイラスが出向いていけば、リリーは驚くかもしれない。

しかし、彼女のことが心配でたまらなかったのだ。

少なくとも、サイラスの屋敷にいれば、リリーは安全である。

だが、今彼女はタウンハウスで使用人と二人きり。

あのハンクという使用人は、この間見た限り、意外と鍛えているようだったが、それでも年齢的には初老といった感じだった。

リリーになにかあった場合、守りきれるかどうかわからない。

今なお、リリーの身は危険なままだ。

サイラスは、早く時計の針が進むように睨みつけながら、その後の数時間を過ごしたのだった。








リリーのタウンハウスの玄関で、サイラスはハンクと睨み合っていた。

正確には、ハンクが睨んでいるだけで、サイラスはリリーの姿を探して視線を彷徨わせていただけだったが。

だから、リリーが少ない荷物カバンを抱えて、玄関先にやって来た時、サイラスは内心で安堵した。


ーーよかった。無事だった。


反して、リリーの表情は固まっている。

サイラスが予想したとおり、リリーはまさかサイラス本人が出向いてくるとは思っていなかったらしい。

困惑気味なリリーに申し訳なさを感じつつも、サイラスの視線はリリーから離れなかった。

見つめられたリリーは、ものすごく戸惑っているが、どうしてもやめられない。

もし、リリーが「やっぱり戻らない」と言い出したら、どうしようかと心配だったのだ。

ぎこちないながらも、馬車に乗り込んだリリーに、サイラスがどれほど胸をなでおろしたことか。

おそらく、サイラス本人でさえよくわかっていなかっただろう。

だが、さすがに青白い表情でこわばっているリリーが可哀想になり、サイラスは馬車内では、なるべくリリーを見ないように努めた。

代わりに考えていたのは、五年前の結婚式の夜、サイラスの屋敷へと向かう道中でのことだった。

シチュエーション的には、あの時と変わらない。

しかし、サイラスの気持ちはまったく違っていた。

あの時は、ただただリリーが憎くて仕方がなかった。

理不尽に、リリーを嫌っていたように思う。


ーー本当に、わたしはなんて愚かだったんだろう。


エルに指摘されずとも、そのことは自分が一番わかっていた。

おそらく、今ここに座っている資格はサイラスにはない。

リリーのことを本当に愛し、大切にできる誰か別の人間が、彼女の傍らには相応しいのだ。

誰かと言いつつ、サイラスの頭には明確に一人の人物が浮かんでいたのだが、あえて今は考えないようにした。

とにかく、今はリリーの安全を確保するのが第一だったからだ。


サイラスは、チラリとリリーを盗み見た。

困ったように眉を下げて俯くリリー。

彼女の表情に本当の笑顔が戻るその時、おそらく自分は傍らにはいない。

それが、リリーの幸せだと、サイラスは思った。








リリーと夕食の約束をした後、サイラスは寂れた路地裏にいた。

先ほどから、とある仕事の報告をしていたのだが、時計を見るのをどうしてもやめられない。

時間が気になって、仕方がなかった。


「貴公は変わったな」


路地裏には似つかわしくない上等な外套を着た中年男性に苦笑され、サイラスは慌てて時計から視線を逸らした。


「失礼しました」

「構わない。なにか大事な用事があるのだろう?報告は手短に済ませてくれていい」


鷹揚に言われ、サイラスは頷いた。

隣国での政治情勢や軍部の動きについて、簡潔に伝えていく。

相手の男性は、ただ黙ってそれを聞いていた。


「報告は以上です」

「ああ、わかった」


お互いにメモは残さない。

口答でのやり取りのみだった。


「五年もの長い間、諜報活動ご苦労だった。陛下もたいそう感謝されることだろう」

「いえ……」


サイラスは複雑な表情で俯いた。

隣国での諜報活動を行っていたのは事実だが、サイラス自身はほとんど呆けていたため、実際に動いてくれていたのは隣国出身の従者である。

そもそもサイラスは想い人のヴェロニカを追って隣国に渡っただけだし、彼女の死を嘆くあまり、五年という長期間の活動になってしまっただけなのだ。

もちろん、頼まれたことはすべて調べて報告したが、サイラスにとって過分な評価であることに変わりはない。

とにかく、良心が痛んだ。

サイラスはとうとう我慢できずに、頭をあげて話を切り出した。


「実は、そのことでお話ししておきたいことがあるのですが……」

「……シッ。誰か来たようだ」


男性の行動は素早かった。

次の瞬間には、踵を返し、大通りに紛れ込む後ろ姿を、サイラスは黙って見送った。

告白の機会を逸してしまったと、ため息混じりにごちる。

そして、振り返らずに呟いた。


「なぜ、邪魔をしたんだ。エル」

「やっぱりバレてたか」


路地裏の陰から、ひょっこり顔を出したエルに悪びれた表情は見られない。

ニコニコ笑いながら、サイラスに近づいてきた。


「邪魔じゃないよ。君を助けてあげたんだ。わざわざ自分に不利になるようなことを、上司に伝えるなんて馬鹿だよ。下手したら、君が処罰されちゃうし」

「……わかってる」


それでも、心のどこかで罰してほしいと考えていたのだと思う。

誰も、サイラスを咎めない。

それが、むしろ一番の罰であるかのように感じていたから。


「君はさ、迷惑をかけた人たちに償うために帰ってきたんでしょう?だったら、なに贅沢なこと言っているのさ。罰せられて楽になろうなんて、百年早い。ずうずうしいよ」

「……ああ、そうだよな」


サイラスは、苦笑した。

どこまでも、自分勝手な思考を巡らせてしまう自分が情けない。


「……というか、エル。わたしが償うために帰ってきたと、よくわかったな」

「わかるよ。"兄さん"のことなら、なんだってね。コレガ、ボクノアイダヨ!」

「……そのわりには、片言になっているぞ」


「えへへ」と笑うエルを、サイラスはなんとも言えない表情で見つめた。

本当に、よくわからない奴だと思う。

だが、もしかすると、エルは本当に……。

そこまで考えて、サイラスは肩をすくめた。

考えたって仕方がない。

エルの内情は、彼自身がわかっていればいいことだし、もし言いたくなったら、あいつのことだ。

勝手に喋るだろう。

だから、サイラスは黙って手を差し出した。


「なに?握手?気持ち悪いんだけどー」

「違う!」

「わかってるって。情報でしょ?ちゃんと持ってきたよ。ほら」


エルから、ボロ切れの布を手渡される。

サイラスは眉を寄せた。


「なぜ、普通に紙に書くか、口答で報告しないんだ」

「えー?だって、面白くないんだもん。奇をてらわなきゃ、君のその不機嫌顔は見られないし。僕の唯一の楽しみなんだから」

「…………」


サイラスは、もうなにも言うまいと思った。

こうして、情報を掴んできただけでもありがたいのだ。

それ以外の素行には目をつむるべきだろう。

なにやら悟りを開きかけているサイラスだったが、その様子をエルは面白くなさそうに見つめた。


「……変わったね、君は」

「?」

「昔の君なら、絶対に怒っていたはずだ」


確かにと、サイラスは頷いた。

生真面目な性格なので、エルのようなタイプの人間とは今までそりが合わなかった。

エルと、よく口争いをしていたのも事実である。


「つまらないな……」


エルは、ぼそりと呟いた。

今まで聞いたことがないような冷たい声音だった。


「君の奥さん、なんて言ったっけ?リリー?ちょっと、興味があるな」

「おい!」


サイラスは聞き捨てならないとばかりに、エルに詰め寄った。


「リリーに、なにかしたら許さないぞ!」

「しないよ。興味があるって言っただけだろ」


それが悪いんだ!と、サイラスが睨むと、エルは肩をすくめた。


「わかってるって。君の許しなく、奥さんに接触はしないよ」


「あー、怖い怖い」と笑いながら、サイラスが止める間も無く、エルは立ち去った。

残されたサイラスは、不安な気持ちのまま、その場に立ち尽くす他ない。

別に、エルがリリーに危害を加えるとは思っていなかったが、エルが絡むと、面倒なことになるのは目に見えていた。


ーーリリーの件に加えて、エルにも目を光らせる必要があるな。


頭が痛い。

その一言に尽きるサイラスだった。

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