43
情報屋のエルのせいで、モヤモヤした気持ちを抱えたまま、サイラスは屋敷に戻ってきた。
先ほど新しく渡された情報が、さらにサイラスの心を騒つかせる。
ウォリンジャー夫妻のひき逃げ事故についての情報だった。
どうして、こんなにも早くエルは情報を掴んでくることができるのかよくわからないが、今まで誤った情報を持ってきたことはないので、全面的に信用している。
そのエルの情報によると、ひき逃げ事故があった日の朝早く、夫妻は突然馬車で出かけたというのだ。
馭者もつけず、馬車の操作は夫のジョージが務めたらしい。
その後、首都へと続く道端で倒れている二人が偶然発見された。
その頃には馬車の姿はなく、これといった事件の目撃情報もなかったという。
ーー釈然としないな。
サイラスは、顎に手をやった。
気になる点が、いくつかあったのだ。
そもそも、なぜ夫妻は突然出かけることにしたのか。
行き先はどこか。
乗っていた馬車の行方は。
それらの疑問点が、引っかかってならない。
もちろん、警察も調べてはいるようだが、未だ解決に至っていないことからも捜査は難航しているに違いなかった。
もちろん、サイラスは諦めるつもりなどなかったが。
ーー気になるのは、やはり夫妻の突然の行動の理由だな。
おそらく、その前後でなにかあったはずなのだ。
でなければ、いきなり二人だけで出かけるわけがない。
事件当日の前後数日間の詳しい夫妻の様子を知る必要があった。
そのためのプランを頭の中で練りながら、執事のエルバートに外套を手渡していると、メイド頭のアンが階上から姿を見せた。
「おかえりなさいませ、旦那様」
「ただいま。わかっている、夕食だろう?すぐ支度をするから、少しだけ待っていてくれ。リリーにも、そう伝えてくれないか」
「そのことなのですが……」
珍しく、アンは言いよどんだ。
その彼女が続けて言ったことばに、サイラスは思わず足を止めた。
「え?リリーが寝ている?」
「はい。大層お疲れのご様子で、少し横になるとおっしゃって、そのまま……」
それは、リリーにしては珍しいことなのではないかと、サイラスは思った。
だから、アンが「声をかけて参りましょうか?」と続けて言った時、サイラスは首を振った。
あのリリーが寝過ごすくらいだ。
よほど、疲れているのだろう。
それを起こすのは、忍びなかった。
「いや、そのまま寝かせておこう」
「よろしいのですか?」
「ああ、その代わり、もし朝リリーが起きてきたら、朝食を一緒にどうかと伝えておいてくれないか」
「かしこまりました」
頭を下げるアンに背を向け、サイラスは再び外套を手に取った。
「また、お出かけに?」
訝しむエルバートに、サイラスは苦笑した。
「安心しろ。酒は最近、控えている」
「では、どちらに行かれるのですか?」
「ちょっとした買い物だ」
「こんなお時間に?わたくしでよろしければ、買いに行かせていただきますが」
「いや、ツテがあるんだ。自分で行くよ」
以前サイラスの飲酒量が格段に増えていた時期のことを思い出しているらしいエルバートは、ひどく心配そうにサイラスを見つめていたが、ややあって「お気をつけて」とだけ言った。
これ以上、言い募るつもりはないらしい。
サイラスはこれ幸いと、その場を立ち去ったのだった。
そして。
サイラスは、今、酒場にいた。
誤解がないように言っておくと、酒を飲みにきたわけでは、もちろんない。
酒を飲みに来ている友人に、用事があったのだ。
しばらく辺りを見渡し、目当ての人物を見つけたサイラスは、おもむろに声をかけた。
「久しぶりだな、トム」
「ん?」
彼は一瞬、不思議そうに首を傾げ、目を細めた。
そして、唐突に間抜けな声を出しながら、のけぞった。
「え?え?もしかして、サイラス、お前か?」
「ああ」
「戻ってきたのか!一瞬、誰だかわからなかったぞ。雰囲気、変わったな。えーと……」
「五年ぶりだ」
「そうだ、そうだった!五年ぶりだ!いやぁ、本当に久しぶりだな、サイラス。まあ、座れよ」
言われるがままに、相席する。
すると、いきなり酒を勧められたので、サイラスは慌てて辞した。
「飲みにきたんじゃないんだ。君に用があってね。ちょっと頼まれてくれないか」
「なんだよ、あらたまって」
「ハーブティーが欲しいんだ。君の領地では、以前から他国と取り引きをしているだろう?その中で、疲れがとれてリラックスできるようなものがあれば教えてくれないか?」
「カモミールやセージならあるが。お前が飲むのか?」
「いや。わたしじゃない。なるべく、女性が好みそうな味がいいんだが」
「ああ、なるほど」
トムは、なにやら納得したように頷いた。
顔がニヤついている。
「じゃあ、明日にでも、お前の屋敷に届けてやるよ」
「ありがとう、助かる」
「でも、女性に贈るなら気をつけろよ?体質的に合わなくて蕁麻疹がでたり、流産の危険性があったりする場合があるからな」
「そうなのか?」
それは知らなかったと思いながら、サイラスは頷いた。
疲れ気味なリリーのために、ハーブティーを買って飲んでもらおうと思ったのだが、念のため、一度リリーに確認した方がいいだろうと、頭の中で考える。
その間も、トムは酒をあおり続けた。
「おい、飲み過ぎじゃないのか?」
「いいんだよ。俺は今、傷ついた心を酒で癒しているんだからな」
「また、振られたのか……」
サイラスは、ちょっと同情して、トムのグラスに酒を注いでやった。
「くそっ!今度こそ、間違いなく運命の人だと思ったのに!」
「そうか」
トムは、好みのタイプの女性に出会うと、"運命の人"だと言ってはばからない。
そして、袖にされるたび、こうして酒をあおった。
「まさか、彼女が二回りも歳上の男と結婚してしまうとは思わなかった!」
「それは、残念だったな」
貴族社会で、歳が離れた者同士が結婚するのは、よくある話だった。
おそらく、爵位か金が絡んでいるのだろうが、家人の意思である以上、どうしようもない。
サイラスは、トムの肩を叩きながら慰めた。
「元気を出せ。ものは考えようだろう?また違う女性と巡り会える機会がもてたと思えばいい」
「お前がそれを言うのか?」
トムは、サイラスの手を払いのけた。
ジト目で見つめてくるその様から、相当酒が回ってきているのがわかったが、グラスを口に運ぶトムの動作を止めることはしなかった。
きっと飲みたいだろうと思ったからだ。
「怒るなよ。わたしは、ただポジティブに考えた方がいいと思って」
「なにがポジティブだよ。代えがきかない女だっている。お前が一番わかっているはずだろう?」
サイラスは、なにも言えなかった。
トムが、ヴェロニカのことを指して言っているのは、明白だったからだ。
しばらく、グラスの酒を見つめ、重たい口を開く。
「……悪かった。君の言うとおりだ。諦めきれない女性だっているよな」
サイラスは、追加で酒を注文した。
飲むつもりはなかったが、一杯だけ付き合おうと思ったのだ。
「まあ、飲めよ」
新しく運ばれてきた酒を、二つのグラスに注いで、一方をトムの前のテーブルに置いた。
それを一気に飲むトムの横顔を見つめながら、サイラスも一口、口をつける。
「それにしても、君がそんなに惚れ込むとは、相手は相当の美人だったんだな」
「そうなんだよ。絶世の美女というのは、彼女のためにあるようなことばなんだ」
それはまた大げさなと思いながらも、サイラスは申し訳程度に頷いた。
それには気付かず、トムは大げさに嘆いてみせた。
「ああ、愛しのエイミー!あなたを想うと、胸が張り裂けそうだ!」
「ん?」
サイラスは、首を傾げた。
どこかで聞いた名だなと、しばし考える。
そんなサイラスを、トムはギョッとした表情で見つめた。
「ちょっ、お前、彼女のことを忘れたのか!?お前たち、付き合っていただろう!」
一気に詰め寄られて、肩を掴まれる。
サイラスは、参ったなと思いながら、トムの手をやんわりと払いのけた。
「そんな目で見るなよ。ちゃんと覚えているって」
一度見たら忘れられない美人というのは、存在する。
それが、エイミーだった。
咄嗟に思い出せなかっただけで、エイミーのことはもちろん覚えていた。
ーーいや、すぐに思い浮かばなかった時点で、アウトか。
こういう時、サイラスは自分のことが本当に嫌になる。
彼女に言い寄られて付き合うことになったとはいえ、一時でも恋人同士だった仲だ。
蔑ろにするような態度はよくない。
「でも、そうか。彼女、結婚したんだな」
しみじみ言うと、トムは舌打ちした。
「余裕ぶりやがって!これだから、モテる奴は嫌いなんだ!」
プイと顔を背けるトムになんと返していいかわからず、サイラスは再びグラスに口をつける。
反対に、トムはグラスをテーブルに叩きつけるように置いた。
「なんで、お前ばっかりモテるんだよ!お前に比べれば、俺の方がよっぽど紳士なのに!やっぱり顔か、顔なのか!お前のその端正な顔が憎い!呪ってやるー!」
「……呪うのはいいが、つばを飛ばすのはやめてくれ」
サイラスは、遠い目をしながら、トムから距離をとった。
彼は酔うと必ず絡んでくるのだが、つばを飛ばすほどまくし立てるのには、未だ慣れなかった。
「まったく!お前は、本当に女の扱いがわかっていない!五年前だって、お前が曖昧な態度でレディー・エイミーと別れたものだから、彼女はずっと諦めきれずに、落ち込んでいたんだぞ?お前は、他所の女のことで頭がいっぱいで、彼女と上手に別れる配慮を怠った。そんな時、優しく慰めたのが俺だ。それなのに、それなのに!なぜ、他の男と結婚してしまったんだ、エイミー!!」
「……彼女にも、いろいろと都合があったんだろう」
「知った風な口をきくな、このゲス野郎!」
またしても、つばを飛ばしながら愚痴り始めたトムに、サイラスは肩をすくめた。
まさに、堂々巡りだ。
いつものことながら、付き合うのには骨が折れる。
サイラスは、チラリと時計を確認した。
短針が、十一の数字をさしている。
今から帰れば、今日中には屋敷に戻れるだろうか。
「ダメだ、行かせないぞ、サイラス!今日は、とことん付き合ってもらうからな!」
恨みがましく言われ、おそらく今日中に帰るのは無理だろうと、サイラスは悟ったのだった。
翌朝、サイラスはエルバートの冷たい視線を受けながら、ばつが悪そうに屋敷に帰ってきた。
頭は痛いし、視線も痛い。
自業自得とはいえ、やりきれなかった。
「お早いお帰りでございますね。素敵なお酒の香りがいたします」
「これは、その……。いや、悪かった」
言い訳は諦め、素直に詫びる。
すると、エルバートからの咎めるような視線が若干、和らいだ。
「……とりあえず、顔を洗ってください。熱いコーヒーも必要ですね」
テキパキと動くエルバートの横で、サイラスは頭痛と格闘していた。
手渡されたコーヒーの味も、よくわからないままに尋ねる。
「リリーは?もう起きているのか?」
「ええ。朝早くから、朝食のメニューを考えたりテーブル準備を手伝ったりしてくださいました。……ところで、旦那様」
「なんだ」
「わかっていらっしゃるとは思いますが、醜態を晒す前に、奥様に朝食をキャンセルすることもできるのですよ?いかがいたしますか?」
サイラスは首を振った。
リリーがわざわざ朝食の支度を手伝ってくれているらしいとわかった今、朝食をキャンセルする選択肢はない。
「では、早くお支度を。奥様を待たせたくないでしょう?」
サイラスは、黙って頷いた。
せっかくの朝食を台無しにしないようにするためには、どうすればいいのか、そのことだけを考えながら。
先に言ってしまうと、リリーとの朝食は台無しだった。
どう台無しだったかと言うと、朝食の献立やテーブルセッティングは、文句一つない完璧なものだったのだが、サイラスは二日酔いで頭が回らないし、リリーも終始申し訳なさそうに肩を落としているしで、まるで、葬式のような雰囲気だったといえばわかりやすいだろうか。
サイラスとしては、リリーに償うために、少しずつ話をしていくことから始めたいと思っていたのだが、お互いにそれどころではないといった感じだった。
サイラスは、向かいに座るリリーを見やった。
昨日、疲れて寝てしまったと聞いたが、未だに彼女の顔色は悪い。
サイラスは、こめかみに手を当てて頭痛と戦いながら、青白い表情でスプーンを口に運ぶリリーに話しかけた。
「リリー」
リリーは一瞬、手を止めたが、すぐに動きを再開させた。
辛抱強く、サイラスがもう一度、呼びかけると、ややあって、リリーは顔を上げた。
視線が合うと、驚いた様子で居住まいを正すリリー。
自分が話しかけられていることに、ようやく気づいたようだった。
「ご、ごめんなさい。考え事をしていました。その、なにか、ご用でしょうか?」
まるで使用人のような口ぶりに、サイラスは戸惑った。
他意はないのだろうが、リリーとの距離を感じてならない。
物理的なものではなく、精神的な。
リリーとは、このテーブル以上の距離が、隔たりとして心の中にあるのだと、改めて実感する。
だからこそ、サイラスは、努めて、優しげな声音でリリーに言った。
「昨日は、ゆっくり休めたかどうか聞きたかったんだ」
「!」
その瞬間、リリーの顔色はさらに悪くなった。
理由がよくわからないままに見つめていると、リリーは、深々と頭を下げた。
「昨日は、本当にごめんなさい。わたしのせいで、せっかくの夕食を台無しにしてしまって」
そこで、ようやくサイラスも気がついた。
リリーがずっと昨日のことで責任を感じていたことに。
別に、サイラスは怒ってなどいなかったが、リリーにはもしかするとサイラスが不機嫌そうに見えたのかもしれない。
夕食をすっぽかされ怒る旦那という認識だったのだろう。
実は、ただの二日酔いで苦しむ旦那というのが正解なのだが。
サイラスは、申し訳なく思いながら、首を振った。
「別に、謝らなくていい」
「え……」
「君は、疲れていたんだろう?それなら、仕方がないよ。それよりも、朝早くから朝食の準備をしてくれたそうだが、まだ休んでいなくて大丈夫なのか?」
「は、はい。もう大丈夫です。ありがとうございます」
リリーは戸惑いつつも、少し安堵したように息を吐き出した。
そして、おもむろに切り出す。
「あの、それで……」
「?」
「朝食はいかがですか?お口に合わなかったのでは……」
ほとんど手をつけていないサイラスの皿をチラリと見たリリーに合点がいき、サイラスは慌ててスープをすくい、口に運んだ。
「いや、とても美味しいよ。ありが……」
そこで、サイラスは口を覆った。
「失礼」とことば少なに、その場を退席する。
リリーは呆気にとられていた。
しかし、サイラスもそれどころではない。
「う……気持ちが、悪い……」
トイレに駆け込み、吐き気と格闘することしばし。
ようやく落ち着いてきたサイラスは、口元を乱暴に拭った。
エルバートの懸念通り、ただ醜態を晒すだけになってしまったことを後悔しながら。
サイラスが食卓に戻ってきた時、リリーの表情は青白いを通り越して、もはや土気色になっていた。
可哀想に、リリーの方がよほど具合が悪そうである。
「大丈夫ですか!?」
「あ、ああ」
「本当にごめんなさい。きっと、わたしが考えたメニューが悪かったんだわ。念のために、医者を呼んで……」
「いや、平気だ」
サイラスは、ばつが悪そうに首を振った。
リリーの表情から、自分が悪いのだと信じて疑っていないことが伺える。
リリーに責任などないのに、彼女は完全に誤解していた。
何度も言うが、これはただの二日酔いである。
医者など必要ではない。
「リリー、本当に大丈夫だから」
「でも……」
「……実は、ただの二日酔いなんだ」
申し訳なさそうに言うと、リリーはさらに表情を曇らせた。
明らかに、信じていない。
そんな感じだった。
「気を遣っていただかなくても……」
「本当だ。エルバートに確認してくれ」
傍に立つエルバートが、ゆっくり頷くのが見えた。
このやり取りを面白がっていたらしく、口元がピクピクしていたが、肯定してくれたことに変わりはない。
サイラスとエルバートを交互に見つめるリリーに、サイラスも大きく頷いて同調した。
ややあって、リリーは安堵の息を漏らした。
どうやら納得してくれたらしい。
サイラスも一安心だった。
いや、恥をかいただけとも言えるが。
「なんだ……二日酔いだったのね」
リリーは近くの椅子を引き寄せ、腰をかけながら、どこかボンヤリとした表情でそう呟いた。
なにかに気をとられているのか、心ここにあらずといった感じである。
「わたし、てっきり、あなたまで……」
「え?」
そこで、リリーはハッとした表情で顔をあげた。
「な、なんでもないわ。気にしないで」
明らかになんでもなさそうには見えなかったが、サイラスはなにも言わなかった。
追求して欲しくなさそうだったのもあるが、それ以上に、先ほどの遠くを見つめるリリーの眼差しが切なげだったからだ。
ーーリリーは、前の夫の死をどう受け止めているのだろう。
ふと、そう思った。
もちろん、応えはない。
リリーのあの表情だけが、すべてを物語っているだけだった。




