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リリーは馬車に揺られながら、サイラスの屋敷へと向かっていた。
真正面には、サイラスが長い足を組んで座っている。
狭い馬車の中で二人きり。
リリーにとっては、ただひたすら気まずい一時間だった。
だが、やり直そうというサイラスの提案に頷いた以上、リリーは彼との生活に慣れなければならないし、気まずいなどと文句を言う資格もない。
リリーは、チラリとサイラスの端正な横顔を伺った。
なにを考えているのか気取らせない無表情で、窓から外の景色を眺めているサイラスを盗み見ながら、今朝のことを振り返る。
サイラスとの話し合いで、あの突然の訪問から三日後の午前中に、サイラスの屋敷に戻ることになっていたのだが、まさかサイラス本人が迎えに来るとは予想していなかった。
玄関に立つサイラスを仰ぎ見た時のリリーの動揺は、言わずもがなである。
しかも、サイラスは馬車に乗り込むまでのリリーの一挙手一投足をじっと見つめていた。
車内では気が済んだようで、リリーから視線を逸らして景色を眺めるだけに落ち着いてくれたが、あれは一体なんだったのだろうかと考えずにはいられない。
ーーもしかして、逃げ出すとでも思っていたのかしら?
それとも、玄関先でリリーが驚いた表情をしたので不愉快に思ったのか。
考えれば考えるほど、わからなくなる。
悪い考えばかりが、頭をよぎるのだ。
この感じには覚えがあった。
サイラスとの結婚式の日だ。
あの夜も、こうしてサイラスと二人馬車に揺られながら屋敷に向かった。
気まずい雰囲気も不安な気持ちも、あの日と変わらない。
だが、サイラスの提案に頷いたのは、他ならぬリリー自身。
いつまでも、暗い気持ちのままでいるわけにはいかなかった。
ーー大丈夫。頑張れば、きっと大丈夫よ。
サイラスと理想の夫婦にはなれないだろうが、努力することはできるはずだと思いたい。
リリーが決意とともに、ギュッと両手を握りしめた、ちょうどその時。
突風が吹き荒れ、馬車が大きく揺れた。
まるで出鼻をくじくかのようなタイミングに、驚きを隠せない。
「大丈夫か?」
リリーは知らず、汗を拭って、呼吸を整えた。
あと、半時間もすればサイラスの屋敷につく。
それまでに心を落ち着かせ、サイラスとの生活を再開させるための決意を胸に……。
「リリー」
「え?」
思わず、リリーは顔をあげた。
そこで、ようやく馬車が停車していることに気づく。
どうしたのだろうかと首をひねり、そして、固まった。
真正面に座っているはずのサイラスが、いつのまにかリリーの真横に移動していたからだ。
「リリー、大丈夫か?」
そっと顔を覗きこまれ、その近さにリリーの肩は揺れた。
「だ、大丈夫、です……」
「本当に?先ほどから声をかけていたが、まったく反応がなかったが」
もしかして、リリーがつらつらと考え事をしていた間、サイラスはずっと声をかけてくれていたのだろうか。
今まで、そのことに気づかなかったということは、サイラスのことばを無視し続けていたことになる。
かなり失礼な態度だった。
リリーは、血の気が引いていくのを感じた。
「も、申し訳ありません。お声に気づかず、その……」
「いや、構わない。馬車が揺れたので、大丈夫かと尋ねただけなんだ。それよりも、本当に顔色が悪いが、平気なのか?よければ、どこかで少し休憩を」
「い、いえ。本当に大丈夫ですので、このまま屋敷に向かってください」
「……わかった」
サイラスは頷き、元の席に戻りながら、コンコンと壁を叩いた。
ややあって、ゆっくりと馬車が動き出す。
リリーは内心で、大きく息を吐き出した。
ーーなんて、心臓に悪いのかしら。
サイラスに話しかけられることも、あんなに接近することも今までほとんどなかったので、完全に油断していた。
これからは、あんな失態は避けなければならない。
立派な淑女はいつも優雅で、決して取り乱してはいけないのだ。
その刹那、またガタガタと馬車が揺れる。
リリーには無理だと、そう嘲笑われているように感じてしまうのは、被害妄想だろうか。
ーーそれにしても、今日はやけに風が強いわね。これじゃあ、まるで……。
リリーは、表情を曇らせた。
七年前のあの夜を思い出して。
七年前の八月十日。
その日も、風が強い日だった。
リリーが帰宅したのは真夜中で、八月だというのに肌寒かったのを覚えている。
本当は、翌日に帰宅するつもりだったのだが、ジェイソンにめでたい報せを伝えたくて、予定を早めることにした。
リリーは妊娠したのだ。
あまりにも嬉しくて、友人には一足先に教えてしまったが、真っ先に伝えたかったのは夫であるジェイソンだった。
あなたは父親になるのよと告げたら、彼はどんな顔をするのだろうか。
それを早く見たい。
ただ、その一心で、リリーは屋敷に帰ってきた。
だが、なぜか玄関に足を踏み入れても、誰も出迎えてくれない。
遅い時間でも、普段であれば執事のハンクが出迎えてくれるのに。
不思議に思いつつ、リリーはジェイソンを探した。
暗い廊下に、書斎から灯りが漏れている。
ここだろうと当たりをつけたリリーは、書斎の扉を開け、そして、それを発見した。
書斎の絨毯に広がる大きな血だまり。
その中央に横たわるジェイソン。
傍らに捨て置かれた血まみれのペーパーナイフ。
あまりに陰惨な光景に、吐き気がこみ上げてくる。
それを押し留めたのは、おそらくジェイソンへの愛ゆえだ。
リリーは、とにかくジェイソンのことが心配だった。
足は震えながらも、愛する夫の元へと駆け寄るべく一歩踏み出した。
だが、それは叶わなかった。
背後で悲鳴があがり、リリーの真横を通り過ぎて、真っ先にジェイソンに駆け寄った人物がいたからだ。
フレデリックだった。
なぜ、彼がここにいるのだろうと、場違いにも考える。
視線が、フレデリックの指先をかすめたのは、まったくの偶然だったけれど、リリーは反射的に肩を揺らした。
あるものが目にとまったからだ。
キラリと光るそれを、リリーは以前から知っていた。
「ジェイソン!ジェイソン!!」
フレデリックは血まみれのジェイソンを抱き起こし、揺さぶり続けた。
しかし、ジェイソンからは一切反応がなく、患部から大量に流れる血と、その虚ろな瞳から、すでに彼がこと切れていることを、リリーは悟った。
「どうか、どうか……死なないでくれ!」
そう泣きながらジェイソンにすがりつくフレデリックは、ひどく取り乱していた。
リリーは、それをただぼんやりと見つめる他ない。
足は、床に張り付いたように動かなかった。
ジェイソンに駆け寄ろうとしていた気持ちも、すでに霧散している。
彼ら二人の右手の薬指に、同じペアリングがはめられていたからだ。
数日前、ジェイソンがそのペアリングを購入したことを、リリーは知っていた。
たまたまリリーの知り合いが、店先で購入する場面を目撃していたのだ。
だから、その知り合いからペアリングの話を聞いた時、リリーは思った。
きっと、ジェイソンは自分にプレゼントするつもりなのだろうと。
奇しくも、リリーの誕生日が差し迫っていたので、その考えは確信に変わった。
ジェイソンからなにかを送られるのは、詩集を貰って以来、二度目のこと。
リリーは、本当に嬉しかった。
高価なプレゼントだからではない。
ジェイソンがリリーの誕生日を覚えていてくれたからだ。
それなのに……。
どうして、指輪がフレデリックの指にはめられているのだろう。
どうして、妻である自分ではなく。
友人のフレデリックが、指輪を受け取っているのだろうか。
答えは簡単だった。
フレデリックの取り乱し様が、すべてを物語っていたからだ。
女の勘が働いたということもあったかもしれないが、リリーが彼らの関係を察するには十分だった。
「ああ……」と、声にならないことばが漏れる。
裏切られた、いや、ずっと裏切られていたのだとわかるから、リリーの瞳は悲しみで色を失った。
フレデリックを、友人として大切に想っていた。
ジェイソンのことを、夫として心から愛していた。
出会ってからずっと。
ただ、ひたむきに。
全身全霊で愛していた。
それなのにと、リリーは唇を噛んだ。
ーー二人は、わたしのことを同じように想ってはくれていなかったんだわ……。
リリーの中で、なにかが大きく崩れていく。
それは理性だったのか。
それとも、リリーの心そのものだったのか。
リリー自身でさえわからなかった。
叫び出しそうなほどの心の声も湧いてこなかったし、涙さえ出なかった。
胸を引き裂く痛みだけが去来し、リリーを蹂躙する。
悲しいはずなのに。
涙ひとつ流れず、リリーはただ呆然と立っていたように思う。
「ジェイソン!ああ、ジェイソン……!」
部屋中に、フレデリックの嗚咽混じりの叫びが響き渡るが、リリーの心は動かない。
ジェイソンにすがりつき、肩を大きく揺らすフレデリックと、糸が切れたマリオネットのようにぐったりとして動かないジェイソンを、感情のない瞳でしばらく見つめる。
どれほどの間、そうしていたのか。
ふと視線を感じたように思い、リリーは頭をあげた。
そして、見てしまった。
庭に面した大きな窓ガラスに映る自分の表情を。
それは、ひどく歪な笑みだった。
半笑いのような、泣き笑いのような。
そんな表情とともに、ジェイソンとフレデリックを見下ろしている一人の女。
その瞳の中に、リリーは確かに狂気を見たのだ。
これは、自分を裏切った報いだ。
もっと悲しめ。もっと苦しめ。もっと嘆け、と。
そう訴える狂った自分だった。
見なければよかった。
見たくなかったと思った。
しかし、あれはきっと嘘偽りざるリリーの本心だったのだ。
そのなんと醜いことか。
リリーは、初めて知った。
自分の中に眠る、汚く惨めで醜悪なもう一人の自身の存在を。
愛する夫を憎み、大切な友人を嘲る、そんな自分の心根の醜さを知ってしまったから。
だからこそ、リリーは急に怖くなった。
ジェイソンやフレデリックのことを罵りたくないのに、頭のどこかで自業自得だと嘲笑う自分がいることが、こんなにも恐ろしい。
素直にジェイソンの死を悼み、フレデリックに寄り添える優しさが欲しかった。
だが、自分には、それだけの強さがなかったのだ。
後日、敬虔なリリーは居ても立ってもいられず、教会で懺悔した。
夫と友人の裏切りを許せない心根の醜さを告白した時、神父は静かに言った。
過去を悔い改め、これからは立派な淑女、良き人間として励みなさい、と。
そのことばは、その後のリリーを縛り続けた。
常に、己を律し戒め、他人の非道に耐え忍び許す、そんな寛大な心について説く神父のことばは、心が弱ったリリーにとって、まさに神のそれだった。
それからというもの、リリーは必死に己を律し、善人たろうと努力を重ねた。
どんなに辛いことがあっても耐え、そのことで他人を責めない。
ただ、受け入れようと心に決めた。
これは償いだった。
ジェイソンを憎み、フレデリックを嘲笑った己への。
ジェイソンの死後、口さがない噂や冷たい視線に耐えられたのも、そのためだ。
フレデリックに対しては、特に負い目を感じていたので、彼がジェイソンの葬儀に参列したいと望めば叶えたし、毎年ジェイソンの命日に会いたいという無理難題も受け入れた。
周囲の人間の目には、さぞリリーがふしだらな女に映ったことだろう。
そして、亡き夫を顧みない冷酷な女として、記憶に残ったはずだ。
だが、リリーにそれを弁明する権利はないのだ。
むしろ、誰かに非難され罰せられることは当然の報いだった。
だからこそ、サイラスと望まぬ結婚を余儀なくされ憎まれても、リリーは耐え続けたし抵抗しなかった。
サイラスが「やり直そう」と言った時、頷いたのも同じ理由からだ。
果ては、ジェイソンや両親の死さえ、自分の責任ではないかと思うほどに、リリーの罪悪感は日に日に増していった。
その償いとして、誤解や非難という報われない不幸な現状と向き合う。
これが、おそらく自分に対する罰なのだと、その時のリリーは信じて疑わなかった。




