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帰ってきた夫  作者: 西子
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39

リリーはサイラスの逆鱗に触れ、隣国から戻ってきて間もない頃のことを振り返っていた。

離婚を想定し、自立のために仕事に就こうと決意した時、内心でどれほど不安だったか。

両親が亡くなり、実家を頼れなくなった心細さ。

仕事の面接に行っても、もともとの評判の悪さから眉をひそめられて追い払われる惨めさ。

なかなか仕事が見つからずに苦労した日々のすべてが、脳裏をかすめる。

それは、女性の身では辛い体験の連続だった。

だからこそ、ダレンが家庭教師として雇ってくれると言った時、リリーは思わず涙が出そうになった。

ただ嬉しかったからではない。

リリーの評判を知っていてなお、大切な娘の家庭教師に抜擢してくれたダレンの懐の深さに感動したからだ。

精一杯、働こうと思った。

その恩に報いるために。

相場よりも高い給料を払ってくれていたことを知ったのは、だいぶ後になってからだが、申し訳なくて給料を返そうとするリリーに、ダレンはやんわりとだが首を振り、決して受け取ろうとしなかった。

リリーには、その価値があるのだと言ってくれているようで、胸が熱くなったのを今でも覚えている。

サイラスと結婚してから、存在を否定されるように感じることが多かった中で、それは新しい驚きだった。

誰かに必要とされること。

正当に評価されること。

今の時代、女性の身でこれほど公平に扱ってくれる境遇はまれである。

だからこそ、こんなにもやり甲斐を感じるのだと、リリーは思った。

心から嬉しかった。

分不相応なほどに。

それに応えるために、努力を惜しまず、がむしゃらに働いた。

まっすぐに慕ってくれるジニー。

自分をきちんと理解してくれるダレン。

二人の存在があったからこそ、リリーは頑張ることができた。

充実していたと思う。

当初、予定していた以上に。

なんという幸運に恵まれたのだろうと、リリーは天に感謝していた。


もちろん、"離婚"の二文字は常にリリーの頭の中にあった。

働き始めてからの一年間、リリーはいつサイラスが戻ってきて、離縁を言い渡されるのか戦々恐々としていたのだが、予想に反し、二年が経ち三、四年が過ぎても、サイラスからは一切音沙汰がなく、リリーは肩透かしをくらった気分だった。

五年目ともなれば、もはやサイラスのことは、どうすることもできない事柄だとわりきることにした。

あとは、ただひたすら家庭教師としての仕事に精を出す毎日だった。


家庭教師としてジニーにレディの教育をするのは、とにかく楽しかった。

ジニーは生徒として素直に励んだし、リリーもそれに応えたいと努力を重ねる。

それは、建設的な関係だった。

今までにないほどの安らぎと充実感に、リリーの表情にも自然と笑みが戻っていた。

もちろん、変な噂がたっては申し訳ないので、家庭教師としての領分は決して超えないよう配慮は怠らなかった。

ジニーは、数年後には社交界デビューを果たす大切な時期だったし、ダレンも独身なので、再婚話が何度となく舞いこんで来ていたからだ。

大切にしたかった。

家庭教師としての立場。

ジニーやダレンとの関係のすべてを。


だが、五年後、かけがえのないその安寧のひと時は、あえなく終わりを告げた。

いや、先延ばしにしていたことの順番が、ようやく回ってきて、向き合うことになったというべきか。

サイラスの帰国で、ずっと懸念していた"離婚"の二文字が、グッと現実味を帯びてくる。

庭先で、五年ぶりにサイラスと再会した時、リリーの表情が一気に青ざめたのは、離婚を恐れてか、ダレンと密着しているところを見られたからか。

はたまた、サイラスの存在そのものに怯えたからか。

リリーでさえ、よくわからなかったけれど。

ただ、もうこれで家庭教師という充実した日々からは別れを告げなければならないということだけはわかっていた。


「リリー」


だからだろうか。

サイラスの若干、咎めるようなその口調を聞いた時、結婚している身で仕事に就いているはしたなさを責められたような気がしたのは。

もちろん、サイラスにそんなつもりはなかっただろうし、家庭教師のことなど知らなかったはずだが、条件反射でリリーの肩は揺れる。

頭の中は真っ白で、思うように体が動かなかった。

ようやく思考が動き出したのは、ダレンの心配そうな声音を聞いたからだ。


ーーーいけない、ボーとしている場合じゃなかったわ。


サイラスがこちらを無言で見つめている様から、彼がなにか誤解していることは、なんとなくわかった。

ダレンは、ただ転びそうになったリリーを支えてくれていただけだが、既婚女性が独身男性と密着した状態でいることに変わりはない。

リリーが非難されるだけならいいが、ダレンまで巻き込みたくなかった。

リリーは、急いで背後のダレンを振り返った。


「あ、あの。子爵、は、離してください。その……夫が」


最後の"夫"という部分は、消え入るような呟きになってしまったが、ダレンの耳にはきちんと届いていたらしい。

ダレンはサイラスの方を見て、申し訳なさそうに体を離してくれた。


ーーー大丈夫。きちんと説明すれば、サイラスもわかってくれる……はずよ。


頭のどこかで、それはないだろうなと思ったが、ダレンのことを変に誤解されたくなかった。

特に、離婚の理由として、ダレンをやり玉にあげられたくない。

リリーのよき理解者として、いつもお世話になっている彼に、これ以上、迷惑をかけるわけにはいかなかった。

さすがに、サイラスも次期ブラッドリー公爵であるダレンを貶めるようなことはしないだろうが、なるべく穏便にことを収めたいというのが、リリーの本音であった。

体はまだ震えている。

意気地がない自分の素直な反応に、情けなさを感じた。

大きく深呼吸をして、心を落ち着かせようと試みる。


ーーー怯えていたって始まらないわ。頑張りなさい、リリー。


自分自身に叱咤し、勇気を振り絞って、リリーはサイラスに近づいた。


「さ、サイラス……お帰りなさい」


緊張で声がくぐもってしまった。

内心で、ひどく後悔する。

リリーのこの癖を、サイラスがあまりよく思っていないことを知っていたからだ。

だが、予想に反し、サイラスはなにも言わなかった。

むしろ、懐かしそうに目を細めている。

彼のその行動の意味はよくわからなかったけれど、とにかくリリーはことばを続けた。


「あ、あの、今のこの状況だけれど……」


なんとしても、ダレンとの誤解だけは解いておかなければならない。

リリーは必死だった。

だから、サイラスが「ただいま」と言ってことばを遮った時、リリーは思った。

サイラスは、リリーに言い訳をさせてくれる気がないのだと。

彼の声音が柔らかいのが、なお怖い。

リリーの体は自然とすくんだ。

サイラスが本気で怒った時の、あの嵐のような激烈さを知っていたからだ。

恐怖心はリリーの中で、すでに絶頂に達する勢いだった。


ーーーだ、だめよ、ここで諦めては。さあ、震えるのはやめて、なんでもないように笑うのよ。そして、会話を続けなければ。


リリーは、すべての神経を集中させて口角をあげた。

サイラスがじっと見つめてくるが、気にしてはいられない。

リリーは、なけなしの勇気を振り絞った。


「……お出迎えできずに、ごめんなさい。いつ戻られたの?」


上出来よ、とリリーは思った。

なんとかことばが出てきた。

このまま、なんでもない風を装って、ダレンとの誤解を解くところまでもっていきたい。

いきたいが、そのなんと果てしないことか。

冷や汗が出そうになる。

頑張ろうと決意を込めて、ギュッと両手を握りしめたその時、それは起こった。

最初は空耳かと思った。

あのサイラスが「悪かった」と言ったように聞こえたからだ。

あまりの緊張に、変な幻聴まで聞こえてきたのだろうか。

リリーは、戸惑いながら、視線を彷徨わせた。

その刹那、ダレンと視線がかち合う。

そういえば、サイラスにもダレンにも、お互いのことをまったく紹介していない。

二人に面識があるのかどうかはわからないが、この場合、当然の礼儀として、リリーが二人を紹介しなければならなかった。

リリーは慌てて、二人を引き合わせる。

リリーとしては、サイラスがダレンとのことを変に誤解して、失礼なことを言わないかどうかだけが気がかりだったけれど。

予想に反し、二人の挨拶はスムーズだった。

どうやら直接的な面識はなかったものの、母親同士の繋がりはあったようだ。

サイラスの母親であるマリーは厳格な人で、あまり社交界に顔を出さないことで有名だが、ブラッドリー公爵夫人とは知己らしい。

公爵夫人の顔の広さゆえだろうと思われた。

ということは、少なくとも表面上は穏やかに挨拶を終えることができる。

リリーは、安堵した。

あとは、ダレンとの誤解を自然な会話の流れで解けばいい。

そう思った時だ。

背後から声があがったのは。

驚いて振り向くと、そこにはジニーが棒立ちになっていて。

しかも、その可愛らしい表情に翳りが見えた。

なにかにひどくショックを受けた。

そんな感じだった。


「顔色が悪いわよ?大丈夫?」


ダレンと二人、ジニーを囲んで顔を覗き込む。

ジニーがなにか呟いたように思ったが、気が動転していてうまく聞き取れなかった。

ダレンと顔を見合わせる。

彼も、ジニーの呟きを聞きこぼしたらしい。

だから、ジニーが泣きそうな声音で「もう、帰りたい」と訴えた時、ジニーの体調の悪さに気づかなかった自分がひどく腹立たしかった。

それはおそらくダレンも同様だろう。


それからは、慌ただしく事態が動いた。

リリーは、ダレンとジニーを乗せた馬車を見えなくなるまで見送った。

だが、しばらくの後悔の後で、はたと気づく。

今や、この場にはリリーとサイラスしかいなかった。

なんとも気まずい空気が流れる。

とはいうものの、いつまでもこうしているわけにはいかない。

リリーが恐る恐る屋敷に入らないかと提案すると、サイラスは案外素直に従った。

そのまま応接室に通し、お茶の支度のために、リリーだけがその場を離れたのだが……。


「どうしよう、困ったわ」


今、この屋敷にはローズティーしかない。

どう考えても、サイラスが気に入ってくれるような類いのお茶ではなかった。

ダレンは喜んでくれたが、もともとローズティーは女性好みの味なので、男性であるサイラスは嫌がるかもしれない。

普通の紅茶もあるにはあるのだが、サイラスは紅茶が好きではないと、執事のエルバートに聞いたことがあったので、とてもではないが提供する勇気がない。

もちろん、今から買いに行くこともできなかった。

そもそも、これ以上サイラスを待たせるのは、よろしくない。


「とりあえず、ローズティーを出してみるしかないわね」


リリーは不安を抱えたまま、応接室に茶器を運んだ。

すると、どうだろう。

サイラスが立ち上がって出迎えてくれるではないか。

結婚以来、サイラスがそんなことをしてくれたことはない。

もちろん、女性に対する礼儀としては正しいのだが、いまだかつてないサイラスのその行動は、リリーの戸惑いと不安を助長させるだけだった。

しかも、サイラスはお茶をいれている間、ずっとリリーの手元を見つめている。

あら探しをされているようで居心地が悪かった。

不安と緊張で、胸のむかつきが止まらない。

途中で興味が失せたのか、サイラスが視線を逸らしてくれた時は、本当に安堵したが、まだ不安はついて回った。

問題は、この後だからだ。

どうかサイラスの口に合いますように。

そう願いながら、カップを手渡したリリーは……。


「ありがとう」


またしても、幻聴が聞こえたと思った。


ーーー今、お礼を言った?サイラスが?


そう自問自答し、いや、まさかと首を振る。

サイラスには、ずっと蛇蝎のごとく嫌われていた。

お礼を言われたことなど皆無である。

リリーは自嘲気味に肩をすくめた。

おそらく、あまりに緊張して、自分に都合がいいようにサイラスのことばを捻じ曲げているのかもしれない。

現実を見なければならないと顔をあげ、そして、リリーは固まった。

サイラスがお茶に口をつけ、微笑んだからだ。

結婚以来、リリーの前で彼がそんな表情をしている姿は見たことがない。

これは、夢なのだろうか。

あのサイラスが笑っているなんて。

リリーは、狐につままれたような感覚に襲われた。

謝罪や礼のことばを口にしたり、微笑んだりするサイラスなど、リリーは知らない。


ーーーこの人は、いったい誰なの?


サイラスのそっくりさんだと言われた方が、まだ納得できる。

昔、父にドッペルゲンガーの話を聞いたことがあったので、真っ先にそのことが思い浮かんだのだが、同じタイミングで、サイラスが両親のことを持ち出したものだから、リリーはかなり驚いた。

リリーの両親が亡くなったことを、彼が知っているとは思わなかったからだ。

今まで、サイラスはリリーに関することに興味を示した試しがない。

その彼が、なぜか両親の死を知っていて、葬儀に参列できなかったことを詫びている。

サイラスのその変化の理由がさっぱりわからなかった。

しかも、サイラスはリリーに、今までのことを畳み掛けるように謝罪し続けた。

結婚に至った経緯の食い違い、それに伴うサイラスの言動、ヴェロニカのハンカチを破ったことへの八つ当たり。

果ては、マリーに屋敷を追い出されたことまで知っていて、サイラスは殊勝に頭を下げた。

リリーは、その様子をただ見つめているほかない。

正直、驚きよりも戸惑いのほうが強かった。


ーーーこの五年で、彼にいったいなにがあったというの?


どういう経験を経れば、ここまで態度が豹変するのだろうか。

これでは、まるで別人ではないか。

リリーが知るサイラス・マクファーレンという人物は、もうこの世には存在しないのではないか。

そんな奇妙な感覚に陥るほどに、サイラスの態度は軟化していて、リリーの頭は混乱するばかりだ。

しかも、サイラスは言った。

「やり直そう」と。


ーーーなにを?


思わず、リリーは内心で、そう呟いていた。

サイラスは、いったい"なに"をやり直そうというのだろうか。

結婚生活だろうか。

お互いの関係性だろうか。

それとも、出会ってからのすべてだろうか。

リリーには、よくわからなかった。


ーーーだって、わたしたちにはやり直せるようなものは、なにもないわ。


リリーにとっては、ただサイラスと結婚して、ただサイラスに嫌われていただけだし、サイラスにとっても、ただリリーと結婚して、ただリリーを嫌っていただけだろう。

結婚に至った経緯を鑑みれば当然だが、そこにやり直せるだけのものがあったとは到底、思えない。

だから、サイラスの提案は、リリーにとって不安と戸惑い以外のなにものでもなかった。

本能が、できることなら拒否したいと訴えている。

それを止めたのは、理性だ。

女の身で、夫を拒絶することはできない。

それは、はしたないこと。

淑女として、恥ずべき行為だった。

妻は夫に尽くし、黙って従うことを良しとする社会で、自分のわがままを通すことはできない。

それに、とリリーは思った。


ーーーわたしは、善良な人間でなければならないのだから……。


その思いは、七年前のあの日から、ずっとリリーを支配していた。

だから、サイラスの提案も受け入れなければならない。

それが、立派な妻として、良き人間として当然の行いだからだ。

だが、この戸惑いはなんなのだろう。

ただ、頷くだけでいいのに、胸に宿るモヤモヤが晴れない。

おそらく、サイラスの表情が必死に「頷いてくれ」と訴えているように見えたからだろう。

今までのことを、これからのすべてで償いたいというサイラスの瞳に、初めて会った夜会でのサイラスのそれが思わず重なって見えた。


ーーー懐かしいわ。もう七年も前のことなのね。


社交界デビューして間もないとはいえ、あの時リリーはすでに十七歳だった。

貴族令嬢は、基本的に陛下への謁見後に、一人前のレディーとして社交界への参加が認められるのだが、その前年に陛下がご病気で体調を崩し、一年後にお隠れになったため、なかなか謁見が叶わなかった。

結局、リリーが社交界デビューできるようになったのは、二年後。

リリーが早生まれだったこともあり、十八歳になるギリギリ直前に、なんとか社交界デビューを果たしたわけだが、あの時、リリーを助けてくれたサイラスは、おそらく十五、六歳だったはずだ。

歳下とは思えぬほど女性の扱いに慣れ、その整った顔立ちゆえに、ひどく大人っぽく落ち着いて見えたけれど、リリーが一番心に残っているのは、人を気遣うことができる彼の優しさだった。

恥をかいたリリーをさりげなくフォローしてくれた、夜会でのサイラスを知っているから。

この目が、あの時見た深海の青を思わせる彼の綺麗な瞳を覚えているから。


ーーーだからこそ、わたしはこんなにも戸惑っているんだわ。


もう二度と、あの美しい瞳が優しげに細められることはないと思っていた。

しかし、もしかしたら。

もしかしたら、今後は、と。

そう考えてしまった自分に、リリーは内心で苦笑した。

リリーが一番理解していた。

心の中では、誰かに愛され大切にされたいと願う愚かな自分がいることに。

そして、それが叶わないこともまた、わかっていた。

どんなに善人たろうと努力を重ねても。

どんなに良き妻として、淑女たらんと尽力したとしても。

自分は決して、人に愛されるような人間ではなかった。

人並みの幸せが訪れるような、良き人間ではないのだ。

あの日、ジェイソンの亡骸を前にして、窓ガラスに映る己自身の表情が、それをすべて物語っていたではないか。




リリーは、サイラスの提案に、諦めの感情とともに頷いた。

女性の身で夫たるサイラスを拒否できなかったということもあったけれど。

それ以上に、過去の自分がそれをさせなかったのだ。

幸せになれないのも。

人に愛されないのも。

すべては、さもしいリリー自身の責任だと、過去の幻影が嘲笑う声が聞こえた。


現在の愚かな自分。過去の邪な自分。

そのすべてが度しがたく、リリーにとって抗えない現実だった。

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