38
サイラスは、目を細めた。
久しぶりに目にする妻は、美しい庭を背景に、まるで一枚の絵画のようで。
頬を赤く染めた様は、少女のような可憐さを、サイラスに感じさせた。
リリーが元気であることに安堵するのも忘れ、サイラスは見入った。
五年ぶりに見るリリーは、決して美人ではなかったけれど、サイラスの記憶にある姿よりも、はるかに美しく輝いて見えた。
それは、サイラスといる時は決まって、耐え忍ぶように顔を強張らせていたリリーが、今は少女のような可憐さと柔らかな雰囲気をまとっているからだった。
雲泥の差ということばが、頭をよぎる。
サイラスの数々の仕打ちを思えば当然だが、そうとわかっていても、胸がざわついてならない。
それは、よくわからない感情だった。
胸にさざ波の波紋が走り、少しずつ飲み込んでいくような奇妙な感覚。
かと思えば、チクリと刺す痛みが、ジワジワとこみ上げてくるのだ。
今までにない名前のわからぬ感情に戸惑いながら、しかし、サイラスはそれを振りきるように首を振った。
ーーーそれよりも、今はリリーだ。
じっとリリーを見つめる。
元気そうな様子に、心底、安堵した。
少なくとも、彼女になにか身の危険が迫っているようには見えない。
サイラスの勘違いだった。
それだけで、こんなにも安心できる。
もちろん、一緒にいる男性は誰なのかという疑問はあったが、リリーがあれほど無防備なのだから、きっと気心のしれた相手なのだろう。
……それにしては、距離が近過ぎる気はするが。
しかし、サイラスに、それを責める権利はなかった。
たとえ背後から抱きしめられているように見えたとしても、だ。
ーーーそれにしても、あの男性、どこかで見たことがあるような……。
身なりがいいし、顔に見覚えがあるので、貴族だろうと思われた。
もしかすると、リリーといい仲の男性なのかもしれない。
恋人ではないかというのが、サイラスの考えだった。
であれば、気になるのは、あの男性がどれほどリリーを真剣に想っているかということだ。
サイラスと離婚して悪評がたっても、彼がリリーと再婚する気はあるのか。
再婚後、リリーを充分養えるだけの財力が、果たして彼にあるのか。
見極める必要があるかもしれない。
そして、もし、リリーに相応しい相手だとわかったら、その時は……。
しかし、そこまで考えて、サイラスの胸はまたしてもざわついた。
再びやってきたよくわからない感覚に、サイラスは首を傾げざるを得ない。
だが、考察する前に、ふと、リリーと視線があった。
おそらくサイラスの足音に気がついたのだろう。
一気に、リリーの表情が青ざめるだろうと、サイラスは予想していた。
そして、実際にそうなった。
だが、その様を目の当たりにすると、思いのほか傷ついている自分に、サイラスは驚いた。
先ほどのよくわからない感情と合わせて、合点がいかない。
しかも、サイラスはリリーの顔を見るや、彼女に呼びかけたくてたまらなくなった。
自分で自分のことが、よくわからない。
それは、今までにない経験だった。
サイラスは不思議に思いながらも、リリーに声をかけた。
視線があった以上、無視することはできない。
せめて、これ以上、リリーを怖がらせないように細心の注意を払いながら話しかけようと思った。
「リリー」
だが、思っていたよりも、はるかに咎めるような声音になってしまったことを、サイラスはひどく後悔した。
しかも、リリーは肩を揺らして、怯えている。
ーーー声をかけなければよかった……。
サイラスの登場で、柔らかな雰囲気はすでに霧散していたものの、名を呼んだことで、リリーの表情はさらに青ざめ、今や血の気が失せている。
やはり、自分は帰ってくるべきではなかったのだ。
いくらリリーの安全を確保することを免罪符にしても、サイラスの存在そのものが、リリーにとっての害になるのであれば。
リリーの幸せを邪魔してしまうくらいならば、いっそ、と。
ただでさえ、嫌な思いばかりさせている彼女を、これ以上、傷つけたくなかった。
ーーー立ち去ろう。
サイラスは、そう決心した。
逃げるような形になるのは本意でなかったけれど、構わない。
リリーの怯えた顔をこれ以上、見ていられなかった。
だが、踵を返しかけたその時、サイラスとは違う方向からリリーに呼びかける声音が聞こえた。
思わず、サイラスの足は止まる。
見れば、大柄な男性が、固まっているリリーの顔を心配そうに覗き込みながら、声をかけているではないか。
それが、きっかけとなったのだろう。
リリーは、弾かれたように、背後を振り返った。
「あ、あの。子爵、は、離してください。その……夫が」
「え?」
大柄な男性は、そこでようやくサイラスの方を見た。
その瞬間、リリー同様、ハッとした表情をみせる。
「も、申し訳ない」
男性は、そっとリリーから体を離した。
リリーは一度大きく深呼吸をし、恐々といったていで、サイラスに近づいてきた。
男性も、その後に続く。
少なくとも、サイラスのように、この場から逃げ去るつもりはないようだった。
「さ、サイラス……お帰りなさい」
久しぶりに、リリーの声を面と向かって聞いた。
緊張のためか、声がくぐもって聞こえる。
そういえば、初めて会った夜会でも、リリーの声は小さくて聞きとり辛かったことを、サイラスは思い出した。
「あ、あの、今のこの状況だけれど……」
「ただいま」
リリーを遮るような形になってしまったけれど、それは自然と出たことばだった。
サイラスの声音も柔らかい。
それが、功を奏したのかは、よくわからなかったけれど、リリーは両手をギュッと握りしめながら、懸命に口角をあげた。
サイラスは、それをじっと見つめる。
「……お出迎えできずに、ごめんなさい。いつ戻られたの?」
「一時間ほど前だ。だが、出迎えはいい。知らせないわたしが悪かった」
リリーは何度も目を瞬かせた。
彼女が驚くのも無理はない。
サイラスが自分から謝ったのは、リリーと出会って以来、初めてのことだったのだから。
「え、えーと……」
リリーは戸惑い気味に視線を彷徨わせ、傍に立つ大柄な男性を見とめた。
「そ、そうだわ。ご紹介が遅くなってしまってごめんなさい。こちらは、キャッスル子爵よ。以前から、お世話になっている方なの。そして、子爵。彼がわたしの夫のサイラスです」
「はじめまして」
サイラスは、シンプルに言った。
対して、ダレンは丁寧に挨拶を返す。
「こうして面と向かってお話するのは、はじめてですね。ダレン・アルバーンです。あなたのことは、母を通じて存じあげていました」
サイラスは頷いた。
もちろん、サイラスもダレンのことは知っていた。
キャッスル子爵ダレン・アルバーンといえば後々、ブラッドフォード公爵を継ぐ人物である。
社交界でも有名な彼は、貴族の中でも評判がよく、公正な人格者として人気があった。
先ほど、見覚えがあると感じたのは、間違いではなかったようだ。
直接、面識はなかったものの、母親同士交流があるので、サイラスも母親のマリーからダレンの話を聞いたことがある。
だから、お互いに、名前だけは知っているのだ。
ーーー彼ならば、リリーのことを大事にしてくれるだろう。
ダレンであれば、家柄も人柄も申し分ない。
二人がどういう関係なのかは、実際に本人たちの口から聞いていないので、まだわからないが、少なくともダレンの方はリリーを意識しているような気がした。
リリーと密着している時のダレンの表情が、すべてを物語っていたからだ。
「こちらこそ、いつも母がお世話になっています。子爵がリリーとも懇意にされているとは存じあげませんでしたが、あなたほどの方と家族ぐるみで懇意にさせていただけるとは、光栄です」
「それは、わたしも同じですよ。マクファーレン伯爵といえば、陛下からの信頼も厚い大変優秀な方だ。レディ・リリーも妻として鼻が高いのではありませんか?」
「え?」
もちろん、そう呟いたのは、リリーではなかった。
リリーとダレンの背後から、その声はあがったのだ。
「ジニー?」
振り向きざま、リリーたちは目を丸くしていた。
彼らの視線の先。
そこには、顔面蒼白で震えている赤毛の少女がいた。
実は、先ほどから、サイラスだけはリリーたちの後方から、こちらを伺っている少女の存在に気がついていた。
誰も紹介してくれないので、一体誰だろうとは思っていたのだが。
ーーーそういえば、子爵には娘がいたな。
ダレンが心配そうに声をかけている様子から、赤毛の少女が彼の娘であることを結論付ける。
しかし、サイラスには疑問が残った。
なぜ、ダレンの娘であるジニーが、ひどくショックを受けたような表情で、サイラスを見つめているのだろうか、と。
ジニーとは、今日会ったばかりで面識がない。
にも関わらず、ジニーがサイラスを見る表情には、悲しげな色が見えた。
「ジニー、どうしたんだ?」
「顔色が悪いわよ?大丈夫?」
リリーとダレンが、ジニーを囲み、心配そうに顔を覗き込む。
ジニーは、それには応えず、ただ呟いた。
「そんな……レディ・リリーが結婚していたなんて……」
「え?」
よく聞こえず、リリーとダレンは顔を見合わせた。
「ジニー、今なんて……」
「お父様、わたし……もう、帰りたいです。気分がすぐれなくて……」
「!」
リリーとダレンは、ハッとしたようにジニーを見た。
二人の反応は早い。
「ジニー、お前、具合が悪かったのか!?」
「大変だわ。急いで、馬車を用意させます」
「リリー、申し訳ないが頼めるだろうか」
「もちろんです」
両手を握りしめて俯くジニーに、ダレンは労わるように背中をさすり、リリーはいつの間にやら背後に控えていたハンクに、馬車の用意を頼んでいる。
そんな彼らの様子を、サイラスはじっと見つめていた。
ハンクには、先ほど押し入った形になってしまったことを謝ろうかとも思ったが、視線が合うなり、ハンクには睨まれてしまったので、とりあえず今は諦めて、落ち着いてからにしようと決めた。
それよりも、サイラスが気になったのは、別のことだった。
リリーとダレンの息のあった連携もさることながら、ダレンの口調が変わっていたことに気づいてしまったのだ。
ーーー子爵は、リリーのことを、名前で呼ぶんだな。
サイラスとの会話では、"レディ・リリー"と呼び、敬語をつかっていたダレンが、今ではくだけた口調になっている。
おそらく、ジニーの体調不良で動転し、咄嗟に普段のことばがでたのだろうが。
なんとなく、二人の親密さを垣間見たような気がして、またしても胸がざわついた。
ーーー疎外感?とは、また違うような……。
この感情の正体に、とうとう思い至らぬまま、事態は慌ただしく動きだした。
馬車の用意が整い、玄関先までダレンたちを見送る。
ダレンは一刻も早く出発したいだろうに、ジニーを馬車に乗せた後、サイラスたちに挨拶をするために足を止めた。
「せっかくのご招待だったのに、こんな形でお暇することになって申し訳ない」
「構いません。それよりもジニーが心配です。急いで出発なさってください」
「ありがとう」
「ジニーも、お大事にね」
「はい……」
ダレンが、今度はこちらのほうを見て「伯爵」と呼びかけたので、サイラスは首を振った。
ダレンは律儀に挨拶しようとしてくれているようだが、ジニーの様子を鑑みるに、リリーが言ったとおり急いで帰った方がいいだろう。
だから、サイラスは「早くご出立を」とだけ述べた。
ダレンは一つ頷いて、馬車に乗り込む。
予定外のことだったので、リリーの家の馬車をダレンたちには使ってもらい、ハンクが屋敷まで送り届けるのだ。
「ハンク、よろしくお願いしますね」
「はい、奥様」
こうして、ハンクが操る馬車は、慌ただしく出発した。
そのままリリーと二人、馬車の後ろ姿を見送る。
リリーは馬車が見えなくなるまで、心配そうに見つめていた。
ややあって、この場には、不気味なほどの静寂が訪れる。
サイラスとリリーだけが残された形となり、なんとなく気まずい雰囲気が流れた。
「と、とりあえず、中にお入りになって。長旅でお疲れでしょう?」
「ああ」
リリーに促されるまま、屋敷に入る。
応接室に通されたサイラスは、勧められてソファーに腰をかけた。
室内を見渡す間もなく、リリーはお茶の準備のために席を外すことになった。
一応断ったのだが、彼女は「そうおっしゃらずに」とやんわり言って、そそくさと退室してしまったのだ。
というわけで、サイラスは今、応接室に一人でいる。
表情にこそ現れていなかったが、サイラスは緊張していた。
これからリリーに、今までのことをすべて謝らなければならないからだ。
どう切り出そう。
どんなことばを紡げば、謝罪の気持ちが伝わるだろうか。
帰国するまでの三ヶ月間、考えていたことを、再び頭の中で巡らす。
しばらくして、茶器を携えたリリーが戻ってきた。
「お待たせいたしました」
サイラスは席を立ち、リリーを迎える。
しかし、手伝おうと手を伸ばすと、彼女は首を振った。
サイラスは黙って、引くしかない。
だから、ソファーに座りなおし、リリーが淹れてくれる紅茶のカップを見つめ続けた。
そして、気づいてしまった。
リリーの手が若干、震えていることに。
サイラスは急いで、視線を外した。
サイラスが見つめているから、リリーは怯えているのだ。
別に、彼女を怖がらせたいわけではない。
今までのサイラスの言動を思えば、彼女の反応は当然の結果だったが、そんなことにさえ思い至れない自分に、内心で舌打ちした。
「……どうぞ。お口に合うといいのだけれど」
「ありがとう」
なんとか紅茶を淹れ終わったらしいリリーから、カップを受け取り、口をつける。
その瞬間、口の中で、バラの香りがほのかに広がった。
優しい味だ。
まるで、淹れてくれた人物そのままに。
サイラスは思わず微笑んだ。
「美味しいよ」
そう言おうとして、顔をあげる。
そこには、狐につままれたような表情のリリーがいた。
なぜ、その反応?と首を傾げ、サイラスは瞬時に納得した。
サイラスがリリーに対し、お礼を言ったり微笑んだりしたことなど、結婚以来、初めてのことだったと。
ーーーそうか。わたしは感謝したり笑ったりすることさえしていなかったのだな。
サイラスは、思わず俯いた。
リリーからというより、自分の過去の言動から目をそらしたかったのかもしれない。
だが、それではいけないと思いなおした。
帰ってきた理由を忘れてはならない。
サイラスは視線をあげた。
ふと、壁にかけられた家族の肖像画が視界に入り、居住まいを正す。
「ご両親のことだけれど」
「え?」
「残念だったね。葬儀に参列できなくて申し訳なかった。本来であれば、わたしが君の隣で支えなければならない立場だったのに」
リリーは、サイラスが自分の両親が亡くなったことを知っているとは思わなかったようで、一瞬、ポカンとしたが、慌てて取り繕った。
「い、いえ。お気になさらないで。その、あなただって大変な時期だったんですもの」
「いや、わたしが悪かった」
サイラスは首を横に振った。
確かに、ヴェロニカのことを想うと、いまだに胸は痛むし、彼女の死はサイラスにとって、大きな苦しみだった。
しかし、それはリリーには関係がないことなのだ。
そもそも、他の女性で頭がいっぱいだったことが、妻であるリリーをさしおいて、彼女の両親の葬儀に参列しない理由にはならない。
リリーだって、両親を亡くし、辛く悲しい思いをした。
サイラスだけが苦しんだわけではない。
リリーに甘え過ぎた自分が悪いのだ。
「君には、今までのことをすべて謝らなければならない。葬式のこともそうだが、それ以前に、君に対する仕打ちは、到底許されるものではなかった。ずっと辛くあたってしまったこと、本当に申し訳なかったと思っている」
頭をさげるサイラスに、リリーは固まった。
その表情には、ありありと戸惑いの色が見える。
どう受け止めていいかわからない。
そんな感じだった。
「結婚のことだって、君が仕向けたわけじゃなかったのに、すべて君のせいにして責めてしまった。君は信じてくれと言ったのに、耳を傾けずにはねのけた。その後も、君に八つ当たりのようにひどい態度をとり続けたこと、心から謝罪したい」
リリーは何も言わなかった。
ただ、じっとサイラスを見つめている。
サイラスは、その琥珀色の瞳を受け止めた。
「ヴェロニカのハンカチのこともそうだ。君の優しさに気づかず、ただ罵倒してしまった自分が恥ずかしい。君は、ヴェロニカの本当の気持ちを知っていたんだね。だから、わたしが真実に気づいて傷つかないように、ハンカチを破ったんだ。それなのに、わたしは君を責めた。本当に申し訳なかったと思っている。そして、ありがとう。君が、わたしの気持ちを慮ってくれたこと、本当に嬉しかった。そのことに気づくのに、こんなに時間がかかってしまった自分が許せないよ」
「………」
「母上とのことも申し訳なかった。まさか、君が屋敷を追い出されているとは思わなかった。だが、そんなこと言い訳にはならないね。本来であれば、わたしが君を擁護しなければならなかったのだから。そもそも君に非はなかったはずだ。母上とは近々にわたしから話をして、誤解を解くよ。わたしのせいで、君には五年間も迷惑をかけた。今までの苦労を思うと、ただただ頭をさげるしかない。もちろん、謝ってすむ問題ではないが……」
サイラスは一度ことばを切り、息を吐いてから、リリーを見つめた。
「……償わせてくれないか」
「え?」
そこで、初めてリリーから反応があった。
黙ってサイラスを見つめていた琥珀色の瞳から、戸惑い以外の感情が覗く。
それは、きっと驚愕。そして……。
「君に、償いたいんだ。今までのことを。これからのわたしで」
そう。君の安全が確保できるその日まで。
「やり直そう」
君が将来、別の誰かと幸せを掴めるように。
全力で支えるから。
だから、どうか頷いてほしい。
今だけは、君の傍にいさせてほしいんだ。
「わたしの今までの言動を許してくれとは言わない。それは、これからわたしのすべてをかけて償っていくことだからだ。だから、君の夫として、やりなおす機会を与えてほしい。どうだろうか?」
「………」
頷いてくれ。
許してくれなくていいから。
ただ君の傍にいて、守らせてほしいだけなんだ。
サイラスは祈るような気持ちで、リリーの答えを待った。
どれくらいの時間が経っただろう。
数秒だったのか、数時間だったのか、サイラスにはよくわからなかったけれど、ややあって、リリーは控えめに反応してくれた。
「……はい」
リリーがコクリと小さく頷くのを、サイラスはじっと見つめた。
リリーの表情は複雑そうで、それ以上なにもことばを発しはしなかったけれど。
その応えに、サイラスは充分、満足したのだった。




