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帰ってきた夫  作者: 西子
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五年の歳月が流れた。


リリーは傍らで刺繍にいそしむ少女を見やり、思わず笑みが漏れた。

リリーの娘……では、もちろんない。

五年前から、リリーが家庭教師を勤めているジニーという女の子だ。

奇しくも、リリーの亡くなった祖母の名もジニーというのだが、リリーは、もし娘が産まれたら、大好きだった祖母と同じ名前を付けたいと、周囲に漏らしていた時期があった。

前夫であるジェイソンは、あまり興味なさそうに聞いていたけれど。

ふと、これもなにかの縁のように感じて、リリーは刺繍に悪戦苦闘しているジニーの横顔を見つめた。

赤毛に、鼻の上のそばかすが、まだ幼さを主張しているものの、五年前と比べて、ジニーも随分と成長したなと、感慨深く思う。

気付けば、彼女は今年、社交界デビューする年齢だ。

時が経つ早さの、なんと目まぐるしいことか。


ーーーでも、刺繍はあいかわらず苦手なのよね。


ジニーは、いつも眉を下げて、自信なさそうに、針と糸を動かしている。

そんな姿も微笑ましくて可愛いなと思いながら、リリーは口を開いた。


「ジニー、上手よ。針の間隔をもう少し狭めると、やり易いかもしれないわ」


優しくアドバイスすると、ジニーは頷いて、はにかむように小さく笑った。

ジニーは、大人しい性格だ。

リリーと同じで、あまり社交界には興味がないらしく、いつも本を読んだり、絵を描いたりするのを好むような少女だった。

ジニーの父親であるダレンは、そんな内向的なジニーを心配し、遠方の寄宿制学校に通わせるよりも、手元におくことを選んだ。

読み・書き・算盤を教えてくれる女性の家庭教師ガヴァネスを雇うことにしたのである。

だが、引っ込み思案なジニーに寄り添えるような人がなかなか見つからず、困っていたところ、時期を同じくして、仕事を探していたリリーに白羽の矢が立ったのが、ちょうど五年前のことである。


最初、ダレンは乗り気ではなかった。

リリーの評判ゆえに、ジニーの教育上よろしくないと思ったわけではなく、女性の家庭教師というのは社会的にみて"余りもの"というイメージがつきやすいからだ。

実際、ガヴァネスは微妙な立場であり、社会的な保障もない職業である。

既婚女性であるリリーが就く仕事ではないと、ダレンは思っていた。

だが、ダレンの母親であるブラッドリー公爵夫人からの強い勧めもあり、一度試しに会わせてみようということになった。

すると、どうだろう。

あの内向的なジニーが、リリーに懐いたのだ。

早くに亡くなった母親の代わりに、ジニーに理解と愛情を示してくれるリリーに、ジニーが心開かないわけがなかった。

二人の性格が似ていたので、気があったということもある。

もともと侯爵令嬢として申し分のない教養を身につけていたリリーは、外国語や楽器、絵画などの教養を教えるという点でも完璧だった。

リリーからの強い希望もあり、難色を示していたダレンも、最終的には雇うことを決め、今に至る。


リリーとしても、家庭教師の職はありがたかった。

特に、財政的な面で。

五年前、リリーの両親であるジョージとアリシアが亡くなった。

モンゴメリーの領地で、外出中だった二人を馬車がひき逃げしたのだ。

犯人はまだ捕まっていない。

目撃者が誰もいなかったからだ。

両親の死後、弟のピーターが若くして爵位を継いだものの、突然のことで、彼にはその心構えがなかった。

経験や勉強不足が浮き彫りとなり、領地経営はうまくいっていない。

五年経ってなお、洪水による被害から復興していないこともある。

さすがに、農地は元どおりになったが、橋はあいかわらず壊れたままだ。

もちろん、再建工事は行われている。

だが、どこかの野盗が、せっかく直しても、すぐに橋を壊したり、建設工事の材料を盗んだりするため、一向に復興できないのだ。

ピーターは、その対応に追われ、とてもでないが、リリーの面倒などみられる状況ではなかった。

それが、リリーが家庭教師として、自立せざるをえなくなった背景である。

だが、そのことをリリーは不幸だとは思っていない。

家庭教師の仕事は、やりがいがあって楽しいし、なによりジニーに出会えたからだ。

ダレンとは、家族ぐるみで何度か顔をあわせていたが、ジニーとは今回の件がなければ、ここまで親しくなれなかっただろう。

そのことを思えば、むしろ感謝したいくらいである。


「どうなさったの?」


ジニーは、不思議そうにこちらを見て言った。

どうやら、ジニーの顔を見つめ過ぎていたらしいと気づき、リリーは困ったように微笑んだ。


「なんでもないのよ。ごめんなさい、邪魔をしてしまったわね」

「いえ、いいんです。ただ、刺繍は難しくて、その、もしよろしければ……」

「お茶にしたいのね?いいわよ」


リリーは、ホッと安堵の息をはくジニーを、柔らかい笑みで見つめた。

かれこれ、刺繍を始めて、小一時間ほど経っている。

そろそろ休憩をはさんであげた方がいいだろう。

リリーは、そっと立ち上がった。


「あ。準備でしたら、使用人に……」

「いいのよ。わたし、お茶を入れるのは得意なの」

「でも……」

「わたしだって、あなたのお父様に雇われているのだから、使用人の一人よ。気にしないで」

「……はい」


ジニーは、俯いた。

いつもリリーが使用人としての立場をみせると、彼女は、そうやって寂しそうな表情をする。

優しいジニーらしい反応ではあるが、やはり、立場の違いというものは、しっかりと意識させなければならない。

もちろん、リリーにも伯爵夫人という立派な肩書きがあるのだが、リリーの中では、近い将来、離婚を言い渡される身だと思っている。

リリーも、四捨五入すれば三十歳だ。

三十路手前の離婚申請された独身女性など、二度と貰い手には恵まれない。

リリーも、再婚は望んでいなかった。

これからはガヴァネスとして生計を立てる他ないというのが、リリーの考えである。

というわけで、ジニーが時折見せるリリーへの貴族としての同等の扱いに、リリーは丁寧に辞する必要があった。

ジニーにも、早くそのことに気づいて、慣れていってほしいものである。

そんなことを考えながら、厨房へ足を踏み入れようとしたリリーは……。


「レディ・リリー」


名を呼ばれ、立ち止まる。

振り返る前から、声の主の正体には気づいていた。


「キャッスル子爵」


ゆっくりと振り返ると、はしばみ色の瞳とかち合った。

やはり、声の主はジニーの父親であるキャッスル子爵ダレン・アルバーンだった。


「お帰りなさいませ」


リリーが礼をとると、ダレンは「ただいま」と微笑んだ。

その笑みは、とても四十歳になったばかりとは思えぬほど、魅力的である。

とある社交界のパーティーで、貴族のご令嬢たちから隠れて回ったという逸話がある彼だが、それも頷けるというものだ。

ダレンは、家柄も人格も立派な紳士で、その公平な性格から、みなに尊敬されている。

背が高く、体格もいいので、貫禄があり、頼りがいがあるところも人気の理由だった。

ただ、本人は妻に先立たれてからというもの、再婚には乗り気でないらしい。

ダレンは、政治にも関わっているので、社交界シーズンはきっと忙しいのだろうと、リリーは思った。


「今日は、お早いお帰りですね」

「議会の招集が延期になったんだよ」

「まあ、そうでしたの。お疲れ様でございます。議会が延期だなんて、もしかして、今度、新しい法案が可決されることと関係があるのですか?」

「ああ。数年前から取り組んでいる法案なんだが、反対派が多くてね。発案者であるとある貴族が、五年前に突然隠居したのも痛かった。あんなに意欲的だったのに、急にどうしたというのか……」

「お家のご都合でしょうか?」

「そうかもしれない。彼も、家族のことで、いろいろあったようだから。だが、彼なしでも、なんとかここまでこぎつけられた。数日後には、議会が再招集されて、法案が可決されるだろう。かなり時間がかかってしまったがね」


「情けない」そう言って、不甲斐なさそうに苦笑するダレンを、リリーは仰ぎ見た。

小柄なリリーが、ダレンと対面すると、必ずリリーは首を精一杯持ちあげて、下から見上げなければならない。

最初の頃は、首が痛かったが、最近では、もう慣れてしまっている。

そんなところも、リリーに、月日の経過を感じさせた。


「情けなくなんて、ありませんわ」

「え?」

「新しい法案の内容は、確か、難病対策でしたわよね?反対派が多い中、国民のために、この五年という短期間で草案まで仕上げられた手腕は、さすがとしか言いようがありません。本当に、ご立派だと思いますわ」

「……ありがとう」


この手の世辞は、言われ慣れているだろうに、ダレンは少し照れたように、頬に手をやった。

だが、それも一瞬のことで、ダレンは咳払いをした後、話題を変えた。


「そういえば、ジニーは?」

「お部屋におられますわ。先ほどまで、刺繍の練習をされていたのですが、お茶にしようということになりまして。よろしければ、子爵もご一緒にいかがですか?」

「ああ。では、そうしよう」


リリーは頷き、お茶の準備のために、今度こそ厨房に入ろうとした。

だが、またしても、それは叶わなかった。

ダレンが、リリーより一歩早く厨房に入り、使用人にお茶の用意をするよう指示を出したからだ。


「さあ、行こう」


ダレンに促され、リリーは黙って従った。

本当は、自分でお茶の準備をするつもりだった。

ダレンが同席するのであれば、リリーが給仕するのが妥当だろうとも。

しかし、ダレンはリリーにそれをさせなかった。

彼の中では、リリーは家庭教師というよりも知り合いのお嬢さんという認識で、どちらかというと客人の扱いなのかもしれない。

いや、貴族であることに変わりはないので、それも間違いではないのだが、リリーとしては、やはり申し訳ない気持ちになるのだった。


「レディ・リリー?どうしたんだ?」

「いえ、なんでもありませんわ。それよりも、ジニーを待たせてはいけませんわね。行きましょう」

「ああ、そうだな」


そのままダレンと連れだって、ジニーの元へ戻る。

ダレンの顔をみとめたジニーは、満面の笑みで、父親を迎えた。


「お父様!お戻りになっていたのね。お帰りなさい」

「ただいま。先ほど聞いたが、今日は刺繍をしていたそうだね」

「ええ、そうなの。難しいけれど、昔に比べたら、上達したと思うわ」

「そうか、じゃあ、出来上がったら見せておくれ」

「わかったわ」


そんな二人を、リリーは微笑ましく見つめていた。

ジニーの母親が亡くなってからというもの、ダレンとジニーは、二人で支えあって生きてきたのだろう。

大変、仲睦まじい様子だった。

お互いに、大切に想っているのが、手に取るようにわかる。


ーーーまるで、かつてのお父様たちとわたしを見ているようだわ。


今は亡き両親のジョージとアリシアを思い出し、リリーは、知らず、俯いた。

もう二度と笑いかけてはくれない両親のことを思う。


ーーーあまりにも突然で、早すぎる死だったわ……。


たまたま実家に帰ろうとしていたのが幸いし、葬儀には間に合ったけれど、両親の最期を看取ることはできなかった。

看取ったのは、弟のピーターだった。

リリーが実家に到着した時、ピーターは両親が眠る棺桶の隣で、ただ俯いていた。

リリーが近づくと、堰を切ったように嗚咽を漏らし始めたピーターは、きっとずっと泣くのを我慢していたのだろう。

リリーは、そんな彼をただ抱きしめてあげることしかできなかった。

だから、隣で泣き崩れるピーターの代わりに、葬儀を取り仕切ったのは、リリーだった。

事務的に葬儀の手続きを行い、参列者の対応をする。

それは、ジェイソンの時と変わりなかった。


ーーーどうして、みんな、わたしを置いていくのかしら……。


ふと、そんな疑問が頭をよぎる。

まるで、春になっても溶けずに残る木陰の積雪のように感じた。


「レディ・リリー?」


名を呼ばれ、リリーは慌てて顔をあげた。


「どうされたの?早くお座りになって」

「え、ええ」


ジニーは、リリーに、ダレンとの間に座るよう身振りで示した。

ダレンは黙って椅子を引いて、待っている。

ジニーは、リリーにただ自分の隣に座ってほしかっただけだろうが、ダレンはきっと違う。

リリーが俯いていた理由を、彼がきちんと理解していただろうことは、その気遣うような表情で、すぐにわかった。


「……ありがとうございます」


ジニーの無邪気さと、ダレンの心遣いに感謝しながら、席につく。

一時でも、家族の輪の中に入れてもらえたように感じて、リリーは自然、微笑んだ。


「どうぞ。ローズティーです。わたしのお気に入りなんですよ」


ジニーにカップを手渡され、それを口につけながら、リリーはこの湧き上がる胸の暖かさが、このお茶のせいだけでは決してないだろうことを悟った。

彼らの優しさに報いるためにも必死に働かなければならない。

リリーは、そう決意をあらたにするのだった。

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