3 (二)
秋津は、相手を間違えた告白を放った。
顔色を変えてやる気も、三橋には起こらない。秋津の態度から薄々感づいていたことでもある。
元武家だというお高い家柄を、秋津家はこの現代でも厳格に守り通している。身分違いを考えれば、秋津が本気であると、百人の一人でも真に受けたりはしないだろう。
第一、彩子は甘ったるい言葉に乗ったりはしない。
「つべこべ言われても、あんたは俺の敵にはならない。
俺のライバルは賀嶋章浩だ。
あいつがここに帰ったら、ケリが付くぜ」
彩子の眠るベッドに向いて腰掛けたまま、三橋は秋津に向き直ろうとはしない。秋津に向き直ろうとはしない。秋津を近付けさせないつもりだ。
二人は声を落として、熾烈な会話を続けた。
「敵のいない間に、抜け駆けるわけにはいかないと?
それが甘いというんだよ。
だから飛鷹君は安らぐことができないんだ。こんなふうに不安定になる。
可哀相に……」
彩子に投げる視線の優しさが、三橋には苦痛を呼んだ。
「君にいい情報をあげるよ。くだらないフェアプレイ精神に敬意を表してね」
「何だよ。格好つけて」
気負いのない表情に、三橋は口を尖らせた。
「賀嶋君に電話をかけたよ。復学の意志があるのかどうか、確認する為に。その中で、個人的な質問をしたんだ。今、私が言った言葉を伝えた上で。
意外だったよ。彼の気持ちが。
賀嶋君は、すでに婚約解消を申し入れていたそうだ。彼女も承諾したらしい」
突然、秋津の声が耳を素通りしてゆく。
「今はただの幼馴染で、特別な関係ではないそうだ。
君の待っていた男は、そういう男に成り下がっていたんだ。もう気持ちを隠すことはないだろう?
お互い、死力を尽くして競おうじゃないか?」
競う……。まるで、勝ちの見えているゲームのような言い方をした。
「私は君に特別な敵意はもてないんだ。
丸一年、つまらない義理立てを通してきた君だ。今まで以上の一線をどうやって越えられるのか、見物だな」
外面を脱ぎ捨てた酷薄な表情で、秋津は三橋の横顔を眺めた。不快げに眉を寄せる。
「気にかかるのは、君の親友だ。彼は飛鷹君に近付き過ぎているとは思わないかい?」
知らぬ間に、三橋は拳を堅く握り締めた。肌に爪がギリギリと食い込む。
「……騎道だろうとあんただろうと、誰であっても。
彩子は傷付ける奴は、俺の敵だ……!」
秋津は鼻先で笑った。
それがひどく三橋を冷静にした。
「相変わらず自信満々だな。秋津会長。
情けないよな。賀嶋も。尻尾を振って逃げ出して、それっきりだぜ?
あの賀嶋でさえ背負い切れなかった女を、あんた庇えるのか? 本気で守れるって言えるのか?!」
「君には、できないんだろう?」
待ち構えて切り返してくる。
「手をこまねいて、回りでウロウロすることが精一杯で。
婚約破棄に気付かなかったことがいい証明だ。あれだけ側に居ながら、傷付いていた彼女を見過ごすとは。
それだけで君は問題外だ。僕は呆れたよ」
侮蔑の目がそこにある。まるで彩子の身代わりのように、三橋を責める。
「真っ先に身を引くべきだと思うがね」
「……!」
告げる秋津を凝視する。
腹の底から込み上げてくる。叫び声。
違う……!
「言ってくれた言葉をそっくり返すよ。
君には彼女を守れない。その上、何の力もない」
三橋の肩を、秋津が叩く。
「君には荷が重過ぎる。背伸びをするのは苦しいだろう?
十分、よくやってきたと思うよ。
友人としてね」
労い。哀れみ。そして、最後通告。
秋津の手とともに跳ね除けて、はっきりと言い放つ。
「それでも、俺は彩子が好きだ……!」
かろうじてドアを静かに開け放ち、三橋は出ていった。
見送った秋津は動揺もなく、三橋の血を吐くような言葉を忘れた。
ドアに手をかけ、思案するように彩子を振り返った。
丁寧に閉められたドアの音。しばし室内は静まり返り、思い出したように衣擦れが起きた。
ベッドの薄い布団が盛り上がり、中から深い深い、ひきつけたような溜め息が漏れた。
「……なんなのよ……、あれ……」
途方に暮れた声。
聞いてはいけないことを耳にした。眠っているふりをしている間中、耳が聞こえなければいいと願った。
目を堅く閉じても無駄。心を閉ざしても入ってきた。
「聞いていてもらえたのかな?」
「!!」
彩子は布団をさらに深く被り抱え込んだ。
「今言った言葉は本心だ。
忘れないでいてほしい。必ず……」
今は、力強い優しい声。
「……どうして、ですか……?
そんなの……!」
くぐもった声に、応える気配はない。
恐る恐る布団の端を上げると、誰もいない。
開け放したままのドア。
咄嗟にベッドから起き上がり、堅く閉じた。
誰も、もう、入って来ないように。
コツン。窓ガラスの鳴る音。
もう一度。また。
彩子はベッドを飛び降りて、そっとカーテンをわけた。
「もう、起きてもいいんですか?」
ほっとしている眼鏡の似合わない顔、見上げる目。
頭だけしか窓枠の上に出てこないのは、床と外との落差が大きいからだ。素早く、彼は室内を見渡した。
「三橋は? 彩子さん、一人で……!」
「手を貸して、騎道」
窓を大きく押し開けて、彩子は身を乗り出した。
「危ない! どうかしたんですか?」
頭から落ちそうな彩子の肩を支えた。
「帰るの。ここには居たくないから……!」
「だったらカバンを」
不満そうに眉を寄せたが、彩子は引き返した。
ここには居たくない……。
頭の中が一杯に膨れ上がる。何も考えたくない。
キライ。イヤ。ホウッテオイテ。
カオモミタクナイ。チカヨラナイデ。
イヤナノ……。
「……嫌よ……。揃って、何バカなこと言ってるの……」
ぞっとした。全身が寒くなって、吐く息を抑えるのも苦しかった。あの時、感じたのは怖さだけだった。
いつか失ってしまうのに、どうして今は手に入れたがるの? 永遠なんて誰も約束できないのに。
永遠は欲しくないから、放っておいて。このまま。
一人で歩いてゆく。決めたの。枯れるほど泣いた日。
秋の陽射しが眩しいくらい照り付ける。目の前は白い道。
どこに続くかわからない、遥か遠い道。
てくてくと歩き続ける。課せられた罰のように。
本当は一人ではなかった。彩子に手を引かれ、後をついて歩くのは騎道だ。どちらかというと、指導権を握るのは騎道。さりげなく、彩子の手を左右にとひっぱって、彼女が道路を外れないようにしている。
今はもう学園の校舎も見えなくなり、住宅街を二人は真っ直ぐ歩いている。
夢遊病者のように、白昼夢の仲を彷徨う彩子。傍目にはそう見える。だが、自分を取り戻しつつあることを、騎道は見取った。彩子は顎を上げ風を受け止める。手をかかげ陽射しを遮る。
「彩子さん。もう帰らなくてもいいんですか?
陸上部の練習が、あるんじゃありません?
もしかしたら、学園祭の打ち合わせがあったり……」
のんびりとした問いかけ。どうでもいいように、彩子も応える。
「実行委員は、三橋に補佐を指名してあるから、あたしはいいの。あたしは、白楼祭との調整だけで、……。
あーっ!」
初めて立ち止まる。
「あざみ姫と、打ち合わせっ!」
「ははは。忘れたの? どこの部屋?」
あーっ、あーっ! それしか出ない彩子。
「もしかすると、最初に彩子さんと会った校舎? その三階の一番奥の?」
「そう。よく知ってるわね。白楼会会頭室」
きょとんとする彩子。男子生徒で会頭室を知るのは、珍しい部類に入る。三階は男子禁制ですべて白楼会が使用している。どれが会頭室かは完全に伏せられているのだ。
「行かなくて、良かったかも……」
神妙な顔で漏らす騎道を、彩子は殴ってやりたいと切実に感じた。向こうは学園で一、二を争う権力者、すっぽかして喜ばれるはずがない。
「もうこんな時間ですから、たぶん藤井さんは居ませんよ」
わかりきったことをぬけぬけと言う。おとぼけナイトここに在りだ。
「……いーわよ。明日、謝りにいくわよ。
大体、なんで騎道がここに居るのよ。どうして、もっと早くちゃんと声をかけてくれないの!?」
「わわわ……」
後ずさる後ずさる。
「いいからカバン返してよ。
ほんとにっ、役に立たないんだから。さよならっ」
プイっと、背を向ける。
騎道は逆らわず、彩子を見送ろうとした。が、彩子はまたスカートの裾を翻した。
「ここ、どこ?」
目が据わっている。
「えっと、随分歩いてますよ。
たしか、こっちの道を突き当たってから左に出ると、彩子さんの通学路に出ます」
「よく知ってるのね」
「迷子はいつものことですから、覚えちゃって」
その都度、記憶するのだ。間違った道も正しい道も覚え込んで、次に正しくなる道を、今度は正確に選び出す。
そんなふうに、真っ直ぐ迷わず歩けたら……。
「……付き合ってくれて、ありがと」
どういたしましてと、騎道は言い返した