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4 (一)

「しまったな……」

 教室に人影はない。当然か。時刻は二時を過ぎている。

「あれじゃ、三橋、怒ってるんだろうな……」

 万に一つでも、三橋が待っているかもしれない。

 そんな思いで、彩子と別れてから全速で駆けて来たのだが。当たり前か、の感慨がポツンと胸に残る。

 額にうっすらと浮いた汗を拭うと、肌寒いものを感じた。

 秋も半ば。冬が近付いているのだ。

「いつまで、かな……?」

 刷毛で刷いたような絹雲に呟きかける。

 いつまで。いつまで。

 考え始めるときりがない。胸が塞がるほど、孤独になる。

 明るく賑やかな印象が残るこの部屋が、虚しく、自分とは無縁の世界のように思えてくる。

 足音に、騎道は振り返った。

「あざみ様がお呼びだ。ついてこい」

 松川蛍子だ。一瞥をくれると、すぐに背を向けて引き返す。騎道は弾かれたように追った。

「どうして、ここに居るとわかったんですか?」

「西門を入ってくる姿を見た」

「こんな時間まで、僕を待っていたんですか?」

 必要以上に執拗な問い掛けに、松川は眉を上げた。

「あざみ様は稽古の最中だ。

 貴様を待っていたなどと、自惚れるのはいい加減にしろ」

 すみません。騎道は殊勝に謝った。

 松川には敵視されている。それは松川の、主である藤井を思いやる強さと比例するものだ。藤井からの告白を、騎道が丁重に断ったことを主への侮辱ととり、騎道への態度は容赦がないのである。

 迷惑そうな怖い顔をされているが、松川の姿は一瞬で騎道の孤独を払拭してくれた。

 自分の居場所は今ここである。騎道は思い直して、未来に気持ちを振り分けた。彩子のこと。そして、先ほどの謎めいた襲撃。確かに、攻撃の狙いは彩子だった。



 稽古といっても本舞台の旧講堂ではなく、調度をよけて広々とさせた会頭室が使われていた。

 瑞々しい朱色の彼岸花と、枝を大きく広げた南天を盛った花器。それを仮の舞台正面に据えて、藤井は一人拍子を取りながら、舞を模索していた。

 藤井の身支度が整うのを、騎道はしばらく廊下で待たされた。部屋に入ると、熱いお茶が用意されている。

 茶碗のそばに、藤井は新聞の小さな切抜きを並べた。

 制服に着替え直したが、まだ髪は背中に緩く結わえたまま。それが藤井を巫女のように見せる。

「布陣が、完了しましたわ」

 記事は残酷な事実を彼に突き付けていた。

「…………」

 息が詰まった。身を乗り出して、膝に置いた右手が滑り落ちたのにも気付かなかった。

 目に入ったのは、『飛び降り自殺』『連城真梨』。

 秋津静磨と闘争した同じ日、ほぼ同じ時刻が、簡潔に記されている。それも、騎道を打ちのめす。

「……現場は、西ですか?」

 聞くまでもない。答えは真っ先に藤井が告げた。

 布陣は完了されたのだ。

 秋津統磨ではなく、他の何者かによって。

 身動きのできない騎道を見計らい、この一連の事件で最も傷付いていた連城を贄に選んだ、卑劣で狡猾極まりない敵。どこかで哄笑しているであろう、闇の番人。

 彼等、もしくは彼、彼女は、すでに怨執に満ちた暗闇を解き放っているだろう。

 陰の気に満ちた四方の布陣から力を得て、さらなる苦痛と苦悶を冥界から引き摺りだし、死と生の狭間でさまよう怨霊たちに、偽りの命を吹き込んでいるはずだ。

 それが望みなのだから。この街を、暗迷のただ中に堕落させることが、狂った布陣者の願いなのだから。

 でなければ、5人もの命を無残な方法で絶てはしない。

 白楼講に連綿と伝わった、禍々しい布陣術。陰に落ちた四方の陣の名は、陰気白楼陣。

 唯一最高の後継者である藤井も、騎道と同じ苦汁を抱いている。藤井が守り正しく継承しようとする技を、彼等は貶めたのである。

 騎道の落胆の激しさに、藤井は慰めるように告げる。

「陣を解く方法は困難を極めます」

「それ以外に、何か方法はありますか?」

 肩を落として、騎道は顔を上げずに返した。

「あるとも、ないとも言えません。

 手は尽くすつもりです。すべてはこれから探すことに」

 ですが、と藤井は言葉を継いだ。

「騎道様にはお別れを申した私です。もうあなたのお手はお借りいたしません。私なりの方法を選びます。

 敵に、回ることもありえるかもしれません」

 体を起こし、騎道は決意する藤井を見返した。

「それは残念です。とても……」

 客人としてのもてなしは、これが最初で最後かもしれない。すでに、藤井には招かれざる客なのだ。

 板に描かれた炎は、立ち止まる騎道の頬が熱くさせた。

 できるなら、この恐ろしい炎ですべてを、悪意の布陣や悪霊たちすら、焼き尽くしてはくれないだろうか。

 頼り無い自分の手の代わりに、浄化を渇望した。



 統磨の死と、二人で死闘を繰り返した時間は、無駄だったのだろうか。

 10月18日。日没を前にしたわずかな時間。ほんの一瞬で均衡が破れ、雌雄を決した。統磨は、騎道の『生きろ』という望みを受け入れた直後、暗殺者の銃弾を受けた。

 警察は転落死と発表したが間違いだ。

 歪めたのは秋津家。世間の非難を恐れ体面を守るため、異端者となった統磨を切り捨て、口を封じた。

 彼の動機に構いなく、最後に残る綺麗事だけを求めた。

 結果、統磨も秋津家も、真の悪魔の隠れ蓑にされたにすぎない。都合よく、詮索もせずに動いてくれる傘だ。

 真実の首謀者は秋津家ではない。

 白楼講の継承者である藤井一門を陥れるためにしては、派手に白楼陣を使い過ぎる。元は武家という秋津家なら、もっと狡猾で確実な方法をいくらでも考えられる。

 何より、この戦いは目に見える戦いではない。



 騎道は、制服のまま街を歩いている。時刻は三時前。

 途中、道を聞きながら、確実に近付いている。

 ある地点から、騎道は迷うことなく歩き出した。目的地の標が見えてきたのだ。とてもはっきりと、恐ろしい思念の火柱が、彼には見える。



「どこに向かってると思う?」

「さあ、私には……」

「ここだよ。間違いなくな」

 運転席の間瀬田に、システム手帳から取り出した切り抜き記事を渡した。騎道が握り締める大きな花束と、西を選んだ足取りが、駿河に行き先を教えるのだ。

「先回りしよう。感付かれるのは癪だ」

 駿河は不審な目で、騎道の背中を追った。

 母親の経営している探偵事務所のメンバーに、騎道を街で見かけたら報告するよう、勝手に連絡を回しておいた。

 その大雑把な網に、騎道は引っかかってくれたのだ。



 立ち入り禁止のビニールロープを外して、騎道はドアノブに手をかけた。錆び付いた甲高い音が鳴った。

 長方形の屋上の一ヶ所に、花が積まれている。

 地上でも同じ場所に、それ以上の花束が捧げられていた。騎道は顔をしかめ、花束までの残り数歩をためらった。

 手にした花束が風にあおられる。瘴気を伴う風。風の道筋が見えるなら、花が積まれた先の空中で、巨大なねじれた柱を目にできるだろう。

 悪意と悲しみを糧にして、さらなる憎悪を吐き出す念波の嵐。離れていても、感じられる狂気。

 足元に花束をおいて、騎道は手を伸ばした。

 瞼も閉じる。自分を委ねてゆく。

 過去に、生きて聞いた声が、小波のように迫る。

 彼の意志ではなく、騎道の声帯が震え出す。

「なぜ……。違うわ。どうしてなの?」

 彼女が問い掛ける。苦しい息の下で、冥府にさらわれる寸前の意識で、騎道ではない人物に懇願する。

 骨を砕かれる痛みが騎道の全身を走る。肺が空気を欲しがり喘ぐ。声を出しながら喉で咳き込む。血液が命じられたように引いてゆく。どこからともなく、無情なまでに。

 死に近付いてゆく道程を、騎道は味わった。

「目を覚まして……、こんなことは、もう終わりに……!」

 全身で騎道はすすり泣く。痛い、苦しい、怖い、悲しい。

 永遠に逃れられない痛苦は、連城が受けている煉獄の苦しみだ。火柱の中心に据えられて、怨念の臭いに誘われた怨霊たちになぶられ吹き込まれ、悶え続ける彼女の魂。

 数多の呪いを吸い込んだ柱は、魅惑的な魔性を毒々しい血の色で見せてくれる。

 ここに居ておいで……。ささやきが、騎道の肉体も絡めとる。憑依した連城のわずかな正常な魂ごと、ずるりと手繰り寄せる。

 その中で騎道は、一度会った覚えのある魂を察知した。

 ひどく遠く、ほんの一時残留しただけの気配であるが、その人が妖然と微笑む様に、全身が戦慄した。



 駿河に感じられる異変といえば、奇妙に屋上のそこここで渦巻いて唸る、風の音程度だ。

 変様したのは、騎道だけ、に見えるが。

「おいっ!! どうした? しっかりしろっ!」

 力一杯頬を叩いてやると、騎道はカッと目を見開いた。

 襟首を掴んで、手荒く引き起こしてやる。振り回されて、やっと目の焦点が合った。ずれた眼鏡に騎道は手をやった。

 何が起きたのか確かめるように、騎道はそろりと振り返る。視線の先に、散乱する花束の残骸。生気を抜き取られ、枯れ果てた花弁が風にさらわれる。

「夢でも見てたのか? 一人でわめいて。他の人間が見たら即警官を呼ばれるぞ」

「僕が何か言っていたんですか? 何を?」

「……。お前、頭がいかれたのか?」

 わざとはぐらかした。騎道はまだ肩で息をしているのに、身を乗り出し強い眼光で駿河を見た。

「教えて下さい。何と」

 見て聞いたままを、駿河は告げた。自分が泣いたことも知らないのか、涙の跡を拭おうとも騎道はしない。

「それで? 誰かの、名前を言いませんでしたか?」

 不機嫌に駿河は返した。

「覚えているなら聞くな……」

「そう感じただけです……。彼女は、誰かに必死で問い掛けていた……」

 途方に暮れた目。それを聞かない限り、騎道はここから立ち上がれないような後悔の顔をする。

「『なぜあんなことを、数磨さん……』」

「!」

「どういうことなんだ?」

 聞く権利は駿河にもある。隠すようなら、力づくでも口を割らせる。秋津数磨が一体、何をしたのか?

 騎道は、髪をかきむしるように額を押さえた。

「……彼が動いたのか……、彼が……!」

「騎道! 話せ!」

 怒鳴り声に、騎道はびくんと肩を跳ね上げた。

 一瞬、駿河の存在を失念するほど、憤りを覚えたのだ。

「その前に、ここを離れましょう。ひどく強くなっている。

 彼女の残留思念が力をつけて、取り込まれたら、僕と同じ目に合いますよ。とても危険な所だ……」

 口調は冷静さを装っているが、あたりに投げる視線は野獣のように鋭い。貧欲で獰猛、見境のない敵には、そうすることでしか対抗できないと全身で語っているようだった。

 実体のない敵に、駿河も背筋に冷たいものを覚えた。

 体はまだ完全に取り返せないのか、騎道は立ち上がろうとしてよろめいた。仕方なく、駿河は手を貸した。

 とんでもない野郎だ。低く舌打ちをした。



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