3 (一)
涼やかな声が、やんわりと彼を引き止めた。
ためらった末、数磨は促される通りに座り直した。
「階段の踊り場で、倒れていらっしゃったのですよ。心配いたしましたが、こちらにお運びしたらすぐに目を覚まされて。
水野先生をお呼びしましょうか? それとも、静磨様を」
「いいえ! ……もう大丈夫です。一人で戻れます。
お構いなく」
そっと周囲をうかがった。普通教室のようだが、和風の内装で隠されている。窓には障子戸、戸口近くには、沈んだ色調の屏風が一艘。床はいい匂いの畳である。
他にも学校の調度には見えない、立派な品ばかりがある。
彼にかけられていた布を見て驚いた。布ではなく、上等な着物。それも舞台用の衣装の一枚である。
藤井は、一人だけ控える女生徒に衣装を任せて、用意された茶器の乗る盆を引き寄せた。しとやかな仕種に、どうしても数磨は視線が引き付けられてゆく。
「何か、僕は言っていませんでしたか?」
「いいえ。何も。
どうぞ、お召しになって」
差し出された茶碗を、じっと見下ろした。正座した膝に両手を乗せて体を堅くした。
「静磨様には、お話しいたしませんわ。
きっとご心配になるでしょうから」
「……すみません」
藤井は華やいだ笑顔をつくった。
「お祝いを申し上げなければいけませんわね。
数磨様は、ご本家の後継者になられるとか」
顔を曇らせて、数磨は否定した。
「まだ正式なものではありません。統磨様の一周忌がすぎるまでは、今のままなのです」
実の兄を兄と呼べない苦しさを、数磨は思い出した。
統磨が亡くなったことで、分家である数磨、静磨のどちらかが後継者に選ばれるのは時間の問題だった。が、内定は異例なまでに早かった。
公明正大で優秀な兄静磨を差し置いて、脆弱で無能な自分が選ばれたことは、数磨には辛く悲しいことだった。
微かに顔色を変えた静磨を、彼は目の隅で見てしまった。
以来、見えない亀裂が更に大きく広がったようで、毎晩のように悪夢にうなされる。
「あざみ様」
背後に控える女生徒が、藤井の尊称を告げて立ち上がった。藤井は唇に立てた指を当て、数磨を見た。
数磨は訳がわからず、藤井の瞳の色をうかがった。
「何か探し物か? 騎道」
部屋を出ていった女生徒の声。咎めるように高圧的だ。
なぜか震え始めた数磨の手に、上からしなやかな手が重なった。
「いつからこれはあったんですか?」
「30分ほど前に、業者が運んでいたようだが」
「舞台道具のようですね」
「白楼祭に使うものだ。そろそろ、あざみ様の立ち稽古が始まるのだ」
「見学しても構わないでしょうか?」
「……。あざみ様が許せば、お前もいいだろう」
藤井は手を伸ばし、数磨を抱えるように包んだ。
なぜだろう? 数磨は頬が熱くなった。艶やかな黒髪が間近を流れて、ほんのりと香の匂いが漂った。
「帰りましたか?」
「はい。愚かに、何を探っているつもりか」
「放っておきなさい。騎道には、本当のことは何一つ理解できぬ」
数磨はぼんやりと、藤井の顔を見上げた。
今までは自分の立場を弁えて、そっと盗み見ることしかできなかった。その人が、自分を庇ってくれている。親しみをこめて見返す目が、手の届く場所がある。
心が安らいで、数磨は藤井以外、何も見えなくなった。
廊下に出て見上げると、白楼会会頭室と札がかかっている。
「どうぞ、いつでもお出で下さいませ」
「はい。……あ、いえ、そうも……」
真っ赤になって否定したが、藤井は見透かしたように含み笑いを浮かべた。
「お兄様には内緒で」
「……白楼祭の舞を楽しみにしています。
それでは」
! ギョッと数磨は目を見張る。
廊下には、いくつもの火炎を描いた板が立て掛けてある。
「舞台に使う品ですの。これだけでも、飲み込まれるほど恐ろしいでしょう?」
騎道が注目していたのはこれだった。
恐ろしい炎。逆巻く紅い舌。正気の者でも怯む紅蓮。
数磨はまた、めまいを覚えた。
藤井香瑠に送られて、立ち去る秋津数磨。家同士が激しく対立する二人の、和やかな情景だった。
異様としか思えない。二つの家の確執は、駿河も十分に知り尽くしている。何よりもこの学園で、派手にぶつかりあった歴史があるのだ。
死んだ秋津統磨が三年生、藤井香瑠の姉、長女の沙織が一年生というたった一年間だが、学園を見事に二分して無意味に張り合い、血も流れた。
その弟妹たちが馴れ合うなど、目にしても理解不能だ。
何より見送った藤井の妖艶な笑み。誰に向けたのでもない仕種が、計り知れない彼女の知策をうかがわせる。
「まったく。騎道の通る後にはとんでもない画策しか残らないぜ……。
もっとも、奴が一番の悪巧みにしか見えないが……」
騎道がいまの光景を目撃していたら、どうするか。
落ち着いていられるかは疑問だ。
「数磨様は、素直なお方だこと」
藤井は機嫌良く、舞台衣装の改めを始めた。
「どうにも解せません。あの者が秋津の総領にいずれ据えられるなど、秋津のご老体は何を考えているのか」
茶器を下げながら、松川は漏らした。
「あなどってはなりませんよ。
見かけはあの通りでも、数磨様は強運の持ち主です。
ですが、盛運と衰運の落差がとても激しい。時を違えれば、秋津家には不幸の種にしかならぬ方」
藤井家は、遡れば公家に連なる血筋という名門旧家である。家風は女系重用という珍しいものだった。
この家には九星気学の亜流である方位学の一流派、白楼講が連綿と伝承されてきた。
藤井香瑠は、祖父に次ぐ有力な伝承者であり、優れた予見者である。藤井はこの街に起きようとしていた異変、何者かが白楼講の奥義の一つ、白楼陣を成そうとする計略を察知し、騎道や駿河たちを阻止の為に密かに操ったのだ。
藤井は手を止め、表情を引き締めた。
「数磨様を裏で操る者を突き止めるのです。
人か人外か定かではない影が、あの方の運命には見えます。恐らくそれが、すべての混乱の根源でしょう」
「数磨殿を見張れば、いずれ悪事に加担した愚かな布陣者にもつながるということでしょうか?」
藤井は深くうなずいた。
「なんとしても、その汚らわしい裏切り者をおびき出すのです。我が藤井家の一門となりながら、泥を塗った者。
それがどれほどの身の程知らずであったか、とっくりと教えてやらねばな」
秋津統磨をそそのかした布陣者の正体は、藤井であっても今だ何者であるか掴めてはいなかった。
「白楼陣だけで事が済むとは思えません。愚かしい者は更に更に、己の器以上の力を欲しがるもの。
門弟の中でもかなりの高弟であるなら、自身の力を試し、最強の奥義を駆使してみたいと望みたくもなるでしょう。
それがどれほど危険な陣かも知らずに」
恐れを知らぬ行為に、藤井はふと眉をひそめた。
「最終目的は『六角白楼陣』にあるはず……」
その意味を知る松川は顔色を変えた。何度耳にしても、体が戦慄する恐ろしい陣の名である。
『六角白楼陣』は三次元的な陣である。それは白楼陣の央点において、対照の位置に陰陽二つの標を打ち立てることで始まる布陣。
東西南北の四方に標を置いた白楼陣を平面として、天空に一つ、地中に一つの陣。この二つは、白楼陣を構成する標と性質は異なり、より想念的な布陣となる。
この布陣を造り上げることは、布陣者の能力の強さを誇示することになり、見事成せば、央点からは尽きることのない力が注がれ望みは思うがままとなる。
言い伝えでは、死者ですら蘇らせることが可能ともいう。
『六角白楼陣』は白楼陣以上の完成度をもつ、国や家、人の栄えを願った陣法である。二極の陰陽のバランスを移すことで、陽を選ぶならば豊穣と正義が導かれ、陰が選ばれたなら邪悪と衰退が繰り広げられるのだ。
よって布陣が完成されたなら、この街のすべての運命が、一人の狂った布陣者に握られることになる。
同時に、藤井は予見していた。悪意ある布陣者によって解き放たれる数多の怨念は、今年五黄の凶相の象意と相まって、天命を呼び覚まし『太破の合』を引き起こす。
天命、運命による歴史の盛衰は、白楼講においては、人が成したものではない『天意の六角白楼陣』の陰陽の振れによって起きるとされている。
今年悪意によって陰に傾けば『天意の六角白楼陣』を触発し、『太破の合』と呼ぶ愚かな人間を罰する天の采配が下り、徐々に人は破滅へ落ちてゆくだろうと。
「この身を贄としても必ず、おびきだしてやらねばな」
一人ごちる主の姿に、決意の堅さを松川は見た。
薄く藤井は微笑んだ。
「今年の白楼祭は楽しみなことよ。
そうは思わぬか、松川?」
藤井が天盤から読み取るのは、白楼祭の当日、月が満ち気が集中する宵となること。布陣者には、最後の陣を完了させる為には願ってもない好機であることだった。
「本気じゃないなら……、だと?」
あの二人の名前が、どうして上がるんだ?
二人とも、二ヶ月前に会ったばかりじゃないか!?
「バカくさ。エセ学園長代行に担がれてなんかやるもんか……」
つい大きくなった声。口を押さえて三橋はそっと背伸びをした。寝返りを打って壁に向いている彩子は、規則正しく肩を上下させている。
近寄り過ぎないように体を引いた。椅子の位置はベッドから50センチは離してある。
相手は女性だ。寝顔をしげしげと眺めるわけにはいかない。たとえ、完全に眠っていてもだ。さすがに長い長い沈黙と、保とうとする男女の均衡は身に堪える。
凄雀の忠告が苛んでくる。
微妙な心の揺れに、土足で入り込んできたのは、秋津。
秋津静磨。辣腕高潔で通る学園の貴公子、現生徒会長だ。
「なんか、用ですか? 生憎彩子は眠ってるんです。
明日にして下さいよ」
「では、君と話しがしたい。飛鷹君のことで」




