十五話
引手茶屋駿河屋の縁台に腰掛けて、雲路は煙管を吹かしていた。
約束していた客人は、まだ来ない。
目の前では相変わらず、俄の馬鹿騒ぎが続いている。
雲路からすると、こんな祭りで新規客を呼び込もうとする吉原の浅知恵など、噴飯ものだ。
往来を行き来する花魁道中や、なにを思って吉原を逢引場所に選んだのかわからぬ若い男と地女(素人女)の連れなどを眺めつつ、雲路は間夫のことを考えた。
幸吉というこの間夫は金払いも酒癖も悪いあげく、揚代だって自分が身揚がり(遊女が自分自身の揚代を払うこと)してやらないといけないろくでなしだが、ちょいとよさげななりと若く情熱的な床具合に、雲路はぞっこん惚れていた。
指折り数えて今日でふた月もご無沙汰している。遣手の目を盗んで、なんどか手紙も書いたのだがさっぱり梨のつぶて。そう何度も身揚がりはできないから、今度からこっそり布団部屋にでも隠れさせようかと考えていた。
雲路にももちろん、金払いのいい客は何人もついている。
だが、本心から好いた男に抱かれたいのは女の性だ。
「間夫がいなけりゃ、女郎は闇……ってね」
小さくつぶやいた雲路は、ふうっと煙を吐いた。
もともとたまにしか来られない幸吉のことを、最近特に待ちわびるようになったのは、朋輩のなよ竹にも間夫ができ、そのようすを見せつけられるからだろう。
あの小娘は、禿として讃岐屋に来たころから──そのころ雲路もまだ十四、五歳だったのだが──気に食わなかった。
いつだって、人を見下すような目で見てくるのだ。
あたかも『あたしはあんたたち女郎とは、住む世界が違うのよ』とでも言いたげな目は、ガキの時分から今でも変わらない。そのいけすかないガキに、あれよあれよという間にお職の座を奪われてしまったのが、悔しくてならなかった。
まだお職の座がなよ竹の実力でもぎ取った結果であれば、雲路も涙を呑んだだろう。
しかし、そうではない。
ちょっとばかり見てくれがいいというだけで、客は取っても帯は解かないという、まったく遊女の風上にも置けない態度なのだ。なぜか楼主はなよ竹を猫かわいがりし、客を無理強いしないのも、また腹が立つ。
今日は居つづけの客を相手にしているなよ竹の顔を思い浮かべ、雲路はいらいらと煙管を吹かした。
そんな姉女郎のようすに、新造や禿は心得顔で離れて座っている。機嫌の悪いときの姐さんがすぐ手を上げるのを、彼女たちは身をもって知っていた。
客はまだ来ない。別に会いたくもない爺だが、来れば床花を弾んでくれる金払いのよい客なので、そろそろ懐が厳しい今は来て欲しかった。
それにしても、と雲路はさいぜんまでの思いをふたたび巡らせた。
なにかとしゃくに障るなよ竹だが、最近すこしようすが変わってきたようだ。
というのも、このところ馴染み客の従者といい仲になり、かなりのぼせ上がっている。
先日も大立ち回りをやらかしたおかげで、吉原ではなよ竹がすっかり馴染み客に惚れこんでいることになっているが、実際は違うことを雲路は知っていた。
以前廊下で従者と話しているところを見かけたので、ためしにかまをかけたみたところ、面白いくらいに引っかかった。
取り澄ました顔を真っ赤にして、震えていた。畳を叩いて否定した。
そのときのようすを思い出すと、今でも雲路は口許が緩む。
あんないい男の馴染みがいるというのに、なんとも贅沢な小娘だ。
しかし、そのなよ竹の姿は、正直以前よりはずっとましに思えた。恋に悩む今のほうが、まだ可愛げがある。
だからこそ、ついさっき耳にした噂が気になった。
茶屋に来てすぐ、吉原雀がしゃべっていた内容を聞きつけたのだ。ここの内儀にたずねたところ、しかめっ面で教えてくれた。
あれほど、あの従者に惚れているはずのなよ竹が──。
雲路は煙管を吸うのも忘れ、物思いにふけった。
とそこに、茶屋へ上がろうとするふたり組みがやってきた。
面白いことに、今さっきまで考えていたあのなよ竹の馴染みだ。例の従者もついてきている。
「ま、これはこれは、九重屋さま。今日はまたずいぶんお早いお付きで……」
応対する茶屋の内儀は、明らかに困惑している。慎重に言葉を選んでいるようすだ。
しかし本人や従者は噂を知らぬのか、いつもどおりである。
間夫も来ないわ、約束していた客も遅いわで、くさくさしていた雲路にふといたずら心がわきあがった。声音に艶を含ませ、声をかけた。
「コレ、九重屋の若旦那さん。今日もなよ竹さんとこへ揚がりんすか?」
茶屋の内儀は飛び上がり、若旦那はいきなり話しかけられ驚いたのか目を丸くしている。
まったくこの若旦那ときたら、ふるいつきたくなるような美形である。
まだ歳若いがそのぶんあっちの欲求も強いだろうに、なよ竹なんぞに入れあげたせいで、清い身体で大門を出入りするはめになるわ、従者に敵娼を寝取られるわでさんざんだ。
自分を買っていたなら、それこそ腰が抜けるほど悦ばせてやるのに。
雲路は腹の底で笑いつつ、口許を袖でおおいつつわざと思わせぶりに言った。
「相変わらずまめだこと。これほど通うてくれる旦那さんがありながら……。わっちなら顔向けできんす。なよ竹さんがいっそいまいましい」
果たして相手は乗ってきた。
若旦那と従者は顔を見合わせている。対する内儀は今や泡を吹かんばかりだ。
噂が耳に入ったらと思うと、生きた心地もしないのだろう。
「ありながら、なんだ? どういう意味だ?」
と、従者がたずねてきた。
この従者も優男ふうの若旦那とは対照的だが、なかなかどうしていい男じゃないか。
彫ったような凛々しい顔立ち、ぞくぞくすること。
金持ちのお大尽や道楽息子といった、ひ弱なもやしばかり見てきたなよ竹が、この手にあっさりいかれたのも無理はなかろうて。
従者のきつい視線を余裕で受け流しつつ、雲路はとぼけた。
「アレ、これはわっちの口から言うことじゃおざんせん。なよ竹さんにじかに聞かれるがいいんすよ」
海千山千の遊女である雲路にとって、こんな若造の恫喝なんぞ蚊が刺したようにしか感じない。知らん顔して煙管をくわえる。
「おい、どういうことだ。知ってるか?」
押しても動じない雲路に焦れたのか、従者はそばにいた茶屋の女房をつかまえ詰問した。若旦那はなぜか、いきりたつ従者をなだめている。妙な光景だ。
あまりに問い詰められた内儀は、しぶしぶ口を開いた。
「いやまあ、吉原雀のつまらない噂話なんですがね。なんでもさるお方がなよ竹おいらんを身請けするとかしないとか……。いえいえ、もちろん若旦那さんのようないい方がいらっしゃるんですから、ただの噂でしょうし。おいらんも若旦那ひとすじだってお聞きしておりますし……」
しどろもどろで要領の悪い内儀の話に、従者はいらいらが募ったらしい。つかみかからんばかりの彼を後ろへ押しやり、若旦那はあくまで冷静にたずねた。
「お内儀どの。歯に衣着せた物言いはなしで、この際はっきり教えて下さい。さるお方とは、いったい誰なのですか?」
やがて茶屋の周りに、人が集まりだした。
それはそうだ、花魁と茶屋女房を問い詰めているのは、ほかでもない噂の中心人物なのだから。
野次馬たちはあの噂を知っているのだ。
だからこうして、成り行きを見守っているのだろう。
内儀はこちらへしきりに流し目をよこす。なんとか雲路にとりなしてもらいたいのだろう。しかしその視線にも気づかぬふりで、雲路は禿に煙草を取り替えさせる。
期待した加勢もなくいよいよ四面楚歌となった内儀は、腹をくくったのか口を開いた。
「おいらんに振られっぱなしの、札差の若旦那だそうで……」
雲路は噂の張本人の顔を思い描いた。
そう、あの月野屋のどら息子が、なよ竹が花魁になる前から足しげく通っているわりに、いっこうになびかない客のひとりの彼が、なよ竹を身請けするという噂で、いまや吉原五丁町は持ちきりなのだ。
この間夫が来るまではしょっちゅう登楼しては、派手に騒いでいたっけ。なよ竹は彼が来るたび、闇夜で提灯が消えた面をしていたものだ。遊びかたが垢抜けない半可通なので、雲路も内心ばかにしていた。
そんな男がなよ竹を落籍せるというのだ。
なよ竹が承知するはずもないし、讃岐屋でもそんな話はちらとも出たことはない。
ということは、楼主に正式にかけあっての話ではなく、すべては口さがない遊客の間での噂話に過ぎないのだった。
九重屋のふたりは再び顔を見合わせた。
どうやら、月野屋の息子のことは知っているらしい。
すかさず雲路は、
「あのしつぶかの客だあね。あれならこっちの言い分も聞かずに小判で面ァはたくような真似もするわいな。今日だって昼から居つづけで、なよ竹さんがつきっきりでありんすよ。この噂、はたしてご存知なんすかねエ」
と、あおってやった。
すると、従者が無言でいきなり茶屋を出て、足早に江戸一の方へ歩いていった。その後を若旦那が追いかける。
「あれ、若旦那さん。ちょっとお待ちを……。誰か、誰か来とくれ!」
茶屋を経ないで花魁を買うのはご法度なので、あわてふためいた内儀が必死に止めるが、ふたりは野次馬をかき分けるように進んでいった。
雲路はひとり笑いながらも、ある疑問を抱いた。
なんとも珍妙なふたりだ。
この場合、内儀を締め上げるのは若旦那のほうで、それを抑える役目こそが従者なのではないのか。
おっとりとした若旦那と血の気の多い従者とはいえ、異常とも言える。
たしかにあの従者はなよ竹と出来ている。今の態度でそれは明らかだ。
しかし、ここで感情をあらわにするのは、彼にとって得策ではない。
忍ぶ恋であるならば、そこはぐっとこらえるべきだ。
それなのに彼は、主人に隠そうともしなかった。
これでは自分が主人の敵娼と通じている、と宣言するも同然である。
なにより、若旦那が従者の越権を叱りもしない。どういうことだ。
まるで、あの従者のほうがぬしのようではないか。
雲路は煙管を投げ出し、首をひねった。
煙管の火は消えてしまったが、彼女が焚きつけた男の悋気の炎は、讃岐屋へと燃えうつっていった。




