十六話
すががきの音色が、ぬるい空気に乗って聞こえてきた。出格子のすきまから、柑子色の陽が差している。
昼に登楼した朔太郎は、夕刻になっても腰を上げようとはしなかった。張見世が始まり妓楼がもっとも忙しくなるこの時刻、ほとんどの者が階下で立ち働いているので、朔太郎以外の客がいない二階は閑散としていた。
先日、酔ったうえ菊之介たちに不調法な真似をした朔太郎だが、今日はそれほど酒も飲まず、なよ竹の文机に置いてあった書物をぱらぱらとめくっている。熱心に読むでもなし、ただ眺めているだけだ。
なよ竹は朔太郎に気づかれないよう、わずかに息を吐いた。
ひとつ吐くごとに、身体から確実に生気が抜けていくようだ。
今までは、ゆくゆくはこの朔太郎と夫婦になるということを教え込まれて育ち、ただその日が来るのをひたすら待ちながら遊女の務めを果たしてきた。それが当然だと思っていたし、また吉原から出るにはこの方法しかないことをよく知っていた。
しかしここにきてはじめて、しんそこ惚れたひとができた。
ともに笑ったり、泣いたり、喜び合えるひと。
はじめて、こころを見せたひと。
ついてゆきたいとさえ願った。
それなのに──。
ひとり相撲とは、まったくこんなざまを言うんだな。
なよ竹は乾いた唇をゆがめた。
もうどうでもいい。
彼は本気ではなかったのだ。
大店の若旦那となれば、縁談も引く手あまた。自分よりもふさわしい娘が居ながらにして手に入るのに、なんでわざわざ大金はたいて女郎なんぞを落籍せようか。揉めごとのもとにもなろう。
あちらはもう京へ帰る身。こうして逢わずにいれば、すぐに戯れごとの女郎のことなど忘れるに違いない。泣いて媚びて身請けを迫るなど、できやしない。そんなことをしてまでつなぎ止めるのは、みじめったらしくてごめんだ。
もう、どうにでもなればいい。
あたしは最後の一滴までこの楼で搾り取られたのち、この好いてもいない目の前の男に、質草同然にもらわれるのが運命なんだ。
「……夜。おい、小夜」
ふいに名前を呼ばれ、なよ竹は物思いの海から浮かび上がった。だるい頭をもたげると、朔太郎が書を投げ出してこちらを向いていた。
「源氏名じゃないとぴんとこねえか。おまえもいっぱしの女郎だな」
鼻で笑う朔太郎を見ても、腹も立たない。捨て鉢になったなよ竹はまつげを伏せた。
「あの間夫のことを考えてるんだろう?」
菊之介のことだ。
混乱の元になるので、いまだ世間では菊之介の方が若旦那ということになっている。本当のことは、三人だけの秘密だ。
なよ竹は力なく首を振り否定した。
「そんなことは……」
「嘘つくな。心ここにあらずって感じだぜ。お前が熱を上げるのも道理だな、男の俺でも惚れ惚れするような色男だ」
自分で酒を注ぎ、朔太郎は笑った。しばらく喉を鳴らしたのち、口を開く。
「……そんなに好きなら、沿わせてやろうか」
「え……?」
予想外の言葉に、なよ竹は絶句した。まじまじと朔太郎の顔を見る。
彼は盃を膳に置き、珍しく表情を引き締めた。
「本気で惚れてるんだろ? 情のこわいおまえがそこまで入れ込むってのは、よっぽどだ。俺も他の男にうつつを抜かしたっきりの女と無理やり縁組するのは気が進まん。どうだ、俺たちの婚約を解消する方法、知りたくないか?」
なよ竹は膝の上でこぶしを握りしめた。しっかり畳に座しているのに、そうしないと身体が崩れそうだ。
知りたい。知りたいに決まっている。
そんなこと、許されるのか。
もし上手くいけば、自分と龍次の間を阻むものは、少なくてもひとつは減ることになる。
だいたい、なぜ急にそんなことを教えてくれる気になったのだ。
なよ竹はせわしなく視線を揺らせ、懸命に落ち着こうとした。
そんななよ竹のようすを見ていた朔太郎は、おもむろに手招きした。
「もそっと近くへ来い。いい方法がある」
頭に霞がかかったようになったなよ竹は、ふらふらと耳打ちの体勢をとる朔太郎のもとへ膝を進めた。
すると突然手首をつかまれ、布団の上に投げ出された。
仰向けになったなよ竹の腹の上に、朔太郎がのしかかる。いつぞやも、同じ目にあった。
「いや、やめ……!」
「こんな単純な手に引っかかるなんざ、おまえも落ちたもんだな」
父親譲りの損得勘定が得意な朔太郎が、なんの見返りもなくうまい話を持ちかけることなど、あるわけがない。隙を見せたなよ竹が甘かった。
両足をばたつかせ抵抗するが、朔太郎はびくともしない。しばらくじたばたしてみたが、やがてあきらめた。
さっきこの男にもらわれる覚悟を決めたばかりではないか。ならば今すぐであっても同じこと。どうせ、しんそこ惚れた男に捧げることはかなわぬのだ。
なよ竹は四肢の力を抜き、目を閉じた。
「どうした、もう終いか? それとも間夫以外の男の味も試したくなったか?」
朔太郎の手で、合わせをくつろげられる。むき出しになった襟元に指先が這わされ、唇が押し付けられる。ぬるりとした生暖かい感触に、なよ竹は総毛立った。
しかし、予想を裏切り朔太郎はすぐに上体を起こした。舌打ちし、
「ちっ、せっかくだってのにもったいねえな」
と、ぼやいた。
不審に思ったなよ竹は身を起こしかけるが、肩をつかまれ布団に押し戻された。




