十四話
吉原に来てはじめて、ゆっくりと夕食を取ることができた。
いつもは芸者やら幇間やらで座敷が賑々しく、内心うんざりしていたのだ。
台の物を下げてもらい、主人とふたり盃を差しつ差されつしていると、長いこと座敷の隅でじっと座っていたなよ竹が舟をこいでいるのに気づいた。
そういえば、さっき中引けの拍子木が鳴っていた。すっかり夜も更けたようだ。
菊之介は小声でなよ竹に声をかけた。
「なよ竹どの。おやすみなら床へお入り下さい」
かくん、と頭が傾ぐ。べっ甲の簪が畳に落ちて、ようやくなよ竹は目をこすった。
少女のようなしぐさで仕掛を脱ぐと、寝間着にも着替えずのろのろと布団へもぐり込んだ。
なよ竹が床入りするのをはじめて見るだろう龍次は、苦笑した。
「あんなに簪挿したまま寝て、頭に刺さらねえのかな」
「いつもはちゃんと抜いてますよ。廊下で会ったとき数が減っていたでしょう」
何気なく言うと、龍次はこちらをしばし見たのち、にやりと笑った。
主人がこの笑い方をするときは、たいていろくでもないことを考えているときだ。さしずめ今は『さすがに何度も床をともにしてねえな、助平め』とでも言いたげである。
盃を置くと、龍次は床に近づいた。髷を崩さぬよう器用に頭を枕に乗せているなよ竹の髪から、一本ずつ簪を引き抜いてやる。
半分くらい抜いたのち、彼はその寝顔をしげしげと見つめた。
「……やっぱり、別嬪だな。雛人形みたいだ」
小さくため息をつく龍次の言葉に、菊之介も顔には出さず胸のうちでうなずく。
すべらかな頬は雪をも欺くほど白く、なだらかな稜線を描く柳眉と長いまつげがくっきりと描かれ、紅の取れた己の朱さのみの唇は、小さく開かれ寝息を立てていた。すらりとした首筋の先の、ほんのわずか開いた合わせからのぞいた鎖骨の隆起が、その奥に秘められた肉体への想像をいやおうなしにかき立てた。
生娘の純を持ちながらも、どうかすると男を狂わせる艶をもにじませる。
それは、歳よりも大人びて見えるなどという陳腐なものではない。
まことの傾城とは、かような美を言うのだろうか。
じっとなよ竹の寝顔に見入っていた龍次は、笑みを含んだ口調で言った。
「おまえ、閨でこんな寝顔をいつも見てたのか。よく我慢できたな、俺には無理だ」
菊之介は面食らう。直截的な問いになんと答えてよいかわからず、
「じゃあご自分で買ってください。寝たふりするのは疲れるんですから」
と、苦しげに矛先を転じた。
龍次は相変わらず笑ったまま、抜いた簪をひとまとめにして煙草盆の横に置いた。
静かな座敷に、なよ竹の立てる音にならぬ寝息だけがひろがる。
やがて菊之介は、ずっと思っていたことを口にした。
「……本当のことを言わなくてよろしいんですか?」
龍次は再び杯を傾け、ぶっきらぼうに言った。
「ああ、言う必要もないだろ。身請けしてやれるわけでもなし、このまま京に帰ったほうがお互いのためだ」
菊之介は唇を噛んだ。
主人の本心が手に取るようにわかるからだ。
やがて手水に立つと言い残し、菊之介は座敷を出た。
広々とした廊下には、誰もいない。今宵は月もだいぶ欠けているので、足許も照らす光も頼りない。
足音を立てず歩き、途中にある出格子に腰を下ろした。
この出格子で、ふたりが夜中逢引をしているのを、菊之介はちゃんと知っていた。
むしろ、そう仕向けることが彼の役目だったのである。
格子に頬を押し付けるようにして、中庭を見下ろす。手入れの行き届いた松が、淡い月光を浴びていた。
因果なことだ、と菊之介は思った。
本来であれば、九重屋のご隠居や旦那さまを言いくるめるだけですむようなことだ。
遊女を、しかも江戸から落籍せて連れてくるなどたしかに難題である。
孫に甘い大旦那さまはともかく、頭の固い旦那さまを説得するのはたいそう時間がかかるだろう。
例がないわけではない。大店の跡取りと身請けされた遊女の内儀、なんて戯作に取り上げられるくらいでもあり、そんな組み合わせは数えればいくらでもでいるだろう。
時間をかけ、なよ竹が龍次にふさわしいと納得させることができたなら、けっして不可能ではないのだ。
だがそれは、『本来であれば』だ。
今では、もはや詮無きこと。
なぜ、この世はうまくいかないのだろう。
龍次はこの上なくなよ竹を想っているし、なよ竹もまた彼に惹かれているのだ。
それが分かるからこそ、いま龍次が置かれた状況が辛く、恨めしかった。
だが、一方では相反する気持ちもあった。
菊之介は格子にもたれ、腕を組んだ。
先ほど見たなよ竹の寝顔が、目の前にちらつく。
『おまえ、閨でこんな寝顔をいつも見てたのか。よく我慢できたな、俺には無理だ』
さきほど指摘され、ぎくりとした。
見透かされたかと、この暑いさなか鳥肌が立った。
龍次はあくまで冗談のつもりだったのだろう。 堅物の従者をからかうための。
しかし──。
そう、龍次の替え玉として揚げたときから、菊之介はなよ竹に惹かれていたのだ。
息を呑むような意志の強い美貌、酌をするしなやかな指、ふとした時に感じた熱。
そして、おのれの信念を曲げない強さ。
道中のときの啖呵も、つい自分のことだと思い込みそうになった。
──もし俺が、若旦那だったら……
なんど、そう思っただろう。
彼女は若の想い人だと、傍惚れなど愚かなことだと己に言い聞かせるも、もしなよ竹が自分のほうをぬしと勘違いしたままで心を許し、帯を解いてしまっていれば。
きっと、なよ竹の心を龍次に向けさせるという使命に背き、一線を超えていただろう。
昔から規律をまもる性質で融通も利かず、忠義にもしかと応えてきたせいか、どうも龍次は自分のことを『清廉潔白なできたやつ』だと買っているようだが、自分も男の端くれなのだから、抑えるのにかなりの理性を費やした。もし間違いがあったらどうするのだ、龍次はそのへんをまったく考慮に入れてないのだろうか。
それでも、龍次を恨む気はなかった。
幼いころからともにいて、九重屋で文字通り兄弟のように過ごした彼の、いまを知る菊之介には、とうてい恨んだりはできなかった。
こうして江戸まで来て、想う女性と引き合わせたというのに、けっきょくふたりは結ばれることはないのだ。
そしてそれを不憫に思いながらも、心のどこかで密かに胸すく思いをしてしまう心の狭い自分に、我ながらいやになってしまう。
菊之介は自嘲ぎみの笑いを浮かべ、
「……やってらんねえな、ちきしょう……」
と、誰に言うともなしにつぶやいた。




