第三十二話:名前を呼ぶ
「これ食べていいの?」
「多分大丈夫じゃないですか〜?」
食事中とは思えない、不穏な会話が響く。菜摘は相変わらずの直哉のダル絡みに耐え、隼人はソースだのケチャップだのマヨネーズだの、大量の調味料をかけ始める硝子を必死に止めていた。だから、ひよりと奏人を見ている人間は、ただ一人を除いて誰もいなかった。
和哉以外は——。
「だめ!!だめですよ!!それアルミホイル!魔女様、ペッてしてください!!」
パニック寸前の叫び声が響く。普通ならすぐ気づくはずだ。けれど——普通じゃないのがひよりと奏人である。
「僕、食べちゃいました!」
「吐け!!」
和哉の悲鳴がこだまする。この瞬間、彼は心に刻んだ。手の込んだ料理や洒落たメニューは二度と作るまい、と。ひよりと奏人の暴走で、自分の食事すらままならないことを学んだからだ。結論は一つ——シンプル・イズ・ベスト。
先ほどまでの張り詰めた空気はすっかり消え、賑やかすぎる食卓が続いた。やがて、騒がしい食事がひと段落する。和哉は一足先に厨房へ戻り、黙々と洗い物を始めていた。
「持ってきたよ。これでいいの?」
一番乗りで食事を終えたひよりが、皿を抱えて厨房に入ってくる。
「はい!偉いですね、魔女様!」
和哉が笑顔で褒めると、ひよりはくすぐったそうに頬を緩めた。その幼い笑顔に、和哉の胸に温かいものが広がる。もし妹がいたなら、きっとこんなに可愛らしかったのだろう、とふと思う。
「手伝いする」
得意げに言うひよりに、昼間割れた皿の記憶が一瞬脳裏をよぎったが——これも自主性を育てるためだ、とスポンジを渡す。
「和哉は、どう思った?」
皿を洗うひよりの横で、明日の仕込みをしていた和哉の手が止まる。
「……初めて私の名前を呼んで頂けましたね」
どこか照れを含んだ笑み。その表情に、ひよりはなぜか直哉のゲラゲラ笑う顔を重ねていた。兄弟だな、と妙に納得してしまう。
「父は、小さな病院を母と二人で経営していました。魔法が使える人たちではなかったので、兄や私に魔法の才能があると分かったときには、腰を抜かすほど驚いていました」
和哉は懐かしむように語る。その穏やかな声は、とても兄を嫌っている人間のものには聞こえなかった。
「兄は努力の天才です。やろうと思ったことは、すべて努力で叶えてしまう。でも私は……何か努力したいと思ったことがない怠け者で、勝手に兄に劣等感を抱いていました」
ひよりは意外そうに目を瞬く。何でも器用にこなす和哉からは想像もつかない言葉だった。
「でも、10歳のときに街で見かけたひより様が、すごくかっこよかった。だから家を飛び出して、この教団で雑用として置いてもらったんです。私が人生で初めて『努力したい』と思ったのは、ひより様のそばにいるための努力でした」
「おかしいですよね。見ただけなのに」
自嘲気味に笑うその顔は、どこか寂しげで。ひよりは、和哉が街で見た自分の姿——血に濡れた恐ろしい姿——を思い出し、複雑な気持ちを覚えた。
「初めて名前呼んだね」
難しい感情はひとまず胸の奥に押し込める。同じように笑顔で返せば、二人同時に小さく笑った。
「私も同じですよ。私は、ひより様のために努力します。これから先もずっと。兄に負けないくらいの努力を。例え、道半ばで倒れても……後悔はありません。だから——これからもよろしくお願いしますね、ひより様」
その真っ直ぐな瞳に、ひよりは胸が熱くなるのを感じた。
「よろしくね」
奏人のように、柔らかで陽だまりのような笑顔が自然にこぼれる。和哉はその笑顔を見ながら、ふと歩き出す。
その瞬間——
パリーン、と乾いた音を立てて皿が砕けた。
だが、不思議と気にならなかった。穏やかな気持ちが胸に残ったままだったからだ。和哉は箒とちりとりを手に取り、割れた皿を見下ろしながら、小さく息をついた。




