5話 登山マナーを普及させます!
「うーん……」
侯爵家の事業拠点、秘密基地で私は椅子の上でペンを回していた。
目の前には、かねてから書き続けている書類が、机の上に広がっている。
「どうしたんだ、シャイラ?」
「ちょっと、登山のことで悩んでいて……」
「登山装備の制作も順調で、すでに問い合わせも相次いでる。何も心配することなどないと思うのだが」
「実はね、登山装備を販売する前にやっておきたいことがあるの」
私は書類に手を置き、眉間にしわを寄せながらつぶやいた。
「登山マナーについての普及よ! ただ自分勝手に山を登れば、命を落とす人が出てしまうわ……!」
「マナーか……。確かに登山の作法というものは、特にこの国にはないな」
「そのために、登山マナーをまとめた書類を作ってみたの。見てもらえる?」
私は手元にまとめていた書類を、椅子の横に立っていたエベルに渡した。
彼はそれを受け取ると、蒼色の瞳を文字へと走らせる。
「すれ違う時は必ず挨拶をする、か」
「挨拶をすれば、『そこにいた』という情報を残せるわ。もし遭難しても、それが情報源になる。それに、会話に発展すれば、登山情報の交換もできるわ」
「基本的なことだが、登山では安全性向上に繋がるのだな」
「それに挨拶をすれば、初対面でも安心感があるし、励まし合いにもなるしね。……まあ、リオ山くらい人が多いところは、挨拶はしなくても大丈夫だけれど」
あの山は、今では世界で一番登られている山と言っていいくらいの人気だ。
あそこですれ違う人全員に挨拶するのは現実的ではない。
「すれ違い時のマナーはまだあるな。『基本的に登りが優先』、『狭い道ですれ違う時は、山側で立ち止まる』か」
「登りのほうが体力的に大変で、危険性が高いと言われているわ。だから、すれ違う時は登りの人のペースで行ってもらうの。……まあ、登山道の状況次第だから、必ずしも登り優先とか限らないけれど」
私はそこまで体力がある方ではないので、下山している人に道を譲られると、待たせていることに焦って体力を消耗することもあった。
悩ましいマナーではあるが、安全性を考えられたものだから周知すべきだ。
「山側で立ち止まるのは、谷側で待つ方が危険性が高いからか」
「万が一すれ違う人に接触したら、そのまま滑落しちゃうもの。だから、待つ人は山側……すれ違いやすい場所を見つけて、あらかじめ立ち止まっておくといいわ」
当たり前のようでいて、実は見落としがちなマナーである。
これでベテランが命を落とすこともあるから、油断は禁物だ。
「あとは……『山にゴミを捨てない』、『山にあるものを持って帰らない』。これは環境保全のためか?」
「その通りよ。あまりにも基本的なことだけれど……山だと忘れられがちになるのよね」
「どれも注意喚起した方が良さそうだな。リオ山の商店にも協力してもらって、登山者に広めてもらおう」
「え、商店……?」
「あそこはもはや一大観光地になったからな。登山口や頂上には、食事ができる露天、お土産を売る屋台まである」
「い、いつの間にそんなことに……!?」
人気のある山なら自然な流れではあるが、それにしても凄いスピード感だ。
しかし、これは登山ブームを起こすチャンスでもある。
「リオ山周辺はなだらかな山塊で、アクセスもしやすいものね。メインの石畳ルート以外も整備してみましょうか」
「本格的な山道を歩けるところも作るということか」
「初心者がステップアップできる山域として広まれば、もっと賑やかになると思うわ。でも登山道の整備……公共事業として、王宮にも協力してもらえないかしら……」
「それなら、騎士団経由で俺が聞いておこう。個人でやるよりも、王宮が関わっていたほうが保守がしやすいだろうしな」
「ありがとう、エベル! 本当に、あなたに出会えてよかった……!」
私は彼を見上げて微笑むと、彼は穏やかな笑みを返してくれた。
「俺もあの日、シャイラに巡り会えて……こうやって協力しあえる日々が送れて幸せだ」
エベルはマナーの書類を机の上に置くと、私の顔を覗き見るように視線を落とした。
「シャイラ、新たな登山道が整備できたら……一緒に登らないか?」
「いいわね! パーティー登山……私、ソロ登山ばかりだったから新鮮だわ!」
「頂上に着いたら、君に伝えたいことがある」
「え……?」
彼は一房、私の髪をすくい上げ、指先で愛おしげに撫でる。
その仕草があまりにも甘すぎて、私は部屋の中だというのに意識が遭難しかけてしまった。




