静かな夜
領地の管理を始めて一ヶ月が経った。
ノルデン城の空気は、以前の刺すような冷たさから、どこか落ち着いた温かみのあるものに変わりつつあった。
あの日、父からの手紙を暖炉で燃やしてから、私はただ前だけを見ていた。
城の修繕計画、魔獣討伐の兵士たちの食料備蓄、そして地元の商人との取引条件の見直し。一つひとつ、丁寧に紐解いていく作業は、私にとって苦痛ではなく、むしろ喜びだった。
夜、執務室には二人だけの時間が流れていた。
私は計算機を弾き、アシュレイは地図と報告書を睨んでいる。
以前のような張り詰めた緊張感はなく、静かに羽ペンを走らせる音と、時折聞こえる薪が爆ぜる音だけが室内に満ちている。
「……また、計算が合わなかったのか」
ふと、アシュレイが私の手元を覗き込み、低く呟いた。
私が少しだけ肩を落とすと、彼はわざとらしくため息をつき、私の手元にある書類を奪い取った。
「貸せ。ここは、収益率を単年度で見ず、三か年計画の減価償却で計算すべきだ。そうすれば辻褄が合う」
サラサラと彼がペンを動かす。彼の指摘は的確で、鋭い。
今まで「独りで背負っていた」と言っていたのも納得だ。彼は、事務処理の適性も極めて高い。
「……さすがですね。アシュレイ様は、領地のことなら何でもお分かりなのですね」
私が感心して言うと、アシュレイは少し気まずそうに視線を逸らした。
「……防衛の指揮と、兵たちの生活を守るためには、数字の裏付けが必要なだけだ。……貴様が来る前は、魔獣の侵攻以上に、この予算管理が最大の敵だった」
彼はコーヒーカップを手に取り、窓の外の雪景色を眺めた。
「俺は冷酷な辺境伯だと言われている。領民たちを無駄に働かせ、魔獣との戦いに駆り出しているとな。……だが、俺がいなければ、この領地は五年も持たなかったはずだ」
その言葉には、強がりではなく、深い孤独と責任感が混ざっていた。
彼は、誰にも理解されない戦いを、ずっと一人で続けてきたのだ。
「私はそうは思いません」
私は、彼が置いていったコーヒーを少しだけ温め直し、彼の手元に差し出した。
「少なくとも、この一ヶ月で、兵士たちの士気は上がっています。食料の配給が安定し、無駄な備品購入が減ったことで、余剰資金が給与に回せるようになりましたから。領民は、誰が自分たちを守り、生活を支えてくれているか、ちゃんと見ていますよ」
私の言葉に、アシュレイは驚いたように目を見開いた。
そして、わずかに頬を緩め、カップを受け取った。
「……礼を言う。ベルノー伯爵家の長女、か。噂とは随分違うものだな」
「ええ。以前の私は、ただ『言われるままに動く駒』でしたから。ここに来て、初めて『自分の頭で考えて動くこと』の面白さを知ったのです」
アシュレイは黙ってコーヒーを一口飲み、小さく笑った。
「俺も、同じかもしれないな。……俺も、ずっと『辺境伯』という役割を演じていただけだったのかもしれない」
静かな夜の中で、二人の間に微かな共感が生まれた気がした。
私たちは二人とも、自分に課せられた重すぎる役割の中で、息を潜めて生きてきた。
でも、今は違う。
窓の外では、吹雪が止み、月が雲間から顔を覗かせている。
氷の城の中には、もう孤独ではない、確かな温かさが宿り始めていた。




