決別
ベルノー伯爵家の日常は、私が去ってからわずか数週間で、音を立てて崩れ始めていた。
王都の屋敷では、毎日のように父の怒鳴り声と、母の喚き声が響いている。
彼らは理解していなかったのだ。私が毎日こなしていた「雑務」が、どれほど複雑で、どれほど家の運営に直結していたかを。
「おい!先月の領地の収支報告書はどこだ!商人たちからの支払いが滞っているという通知が来ているんだぞ!」
「そんなこと、私に聞かないでください!クラリッサがいなくなってから、帳簿の場所すら分からなくなったのですから!」
書斎では、父と母が真っ白な領収書の束を前に、頭を抱えていた。
私が管理していた帳簿は、実は非常に高度な運用がなされていた。複雑な取引先との調整、季節ごとの仕入れのタイミング、そして税務署への完璧な対応。
彼らはそれを「地味な事務作業」と切り捨てていたが、実際にはベルノー家の家計を支える要だったのだ。
そしてリリアーヌの部屋も、かつての華やかさを失いつつあった。
「お姉さま! の社交界デビューの招待状、誰が返信を書くのよ!セドリック様に送る手紙の清書もまだじゃない!」
「リリアーヌ、それくらい自分で書きなさい!今、お母様は家の金策で手一杯なのよ!」
リリアーヌはドレスを床に投げ出し、泣き喚く。
彼女にとっての「姉」は、自分の身の回りを完璧に整えてくれる「便利な存在」でしかなかった。その存在が消えた今、彼女は「自分でドレスも着られない」「手紙の作法も知らない」無能な箱入り娘に戻ってしまったのだ。
混乱の極みに達した父は、ある結論を出した。
――クラリッサを呼び戻せばいい。そうすれば、また元通りの生活に戻る。
彼は深く考えもせず、事務的な調子で一通の手紙を書き上げた。辺境伯家への配慮など微塵もない、ただの「命令書」だ。
『クラリッサへ。
急ぎ帰宅せよ。今すぐ家計を立て直し、リリアーヌの社交の準備を整えるのだ。辺境伯家には、こちらの不手際で戻ることになったと適当に説明しておけ。家の崩壊をこれ以上放置するな。長女としての義務を果たせ』
その手紙は、王都を出て北方へと送られた。
数日後。
私は、ノルデン城の執務室でその手紙を受け取った。
封を切る。そこには、私の安否を気遣う言葉など一言もなく、ただ身勝手な要求だけが並んでいた。
かつての私なら、この手紙を読んだだけで震え、申し訳なさに押し潰されていたかもしれない。
しかし、今の私には、何一つ感じることはなかった。
怒りすら湧かない。ただ「ああ、この人たちは本当に何も分かっていないんだな」という、ひどく冷めた事実だけが胸に残った。
「クラリッサ、顔色が悪いようだが。体調でも悪いのか?」
隣で地図を広げていたアシュレイが、不思議そうに私を覗き込む。
私は手紙を軽く折りたたみ、何の迷いもなく暖炉の火の中へと放り込んだ。手紙は一瞬で燃え上がり、灰となって消えていく。
「いえ、何でもありません。少し……片付けをしていただけです」
私は顔を上げ、彼に微笑みかけた。
家族の支配は、もうここにはない。
この手紙は、彼らが「私という道具」を失い、右往左往している証拠に過ぎない。
私は暖炉の火を見つめながら、静かに思った。
彼らがこれからどうなろうと、私の知ったことではない。
私が守るべき場所は、もうここにあるのだから。




