契約?
北門の補強材について指摘した直後、アシュレイは沈黙したまま私をじっと見つめていた。
青白い瞳には困惑の色が浮かんでいるが、同時に「何者か」を見極めようとする鋭い意志も宿っている。
「……ついてこい」
彼はそれだけ言い捨てて、足早に廊下を歩き始めた。私は静かにその後を追う。
案内された先は、城の最奥にある執務室だった。扉を開けた瞬間、私は思わず目を見開いた。
……ひどい有様だ。
机の上には書類の山。床には乱雑に投げ出された地図や報告書。部屋の空気は淀み、窓には埃が積もっている。
王都のベルノー伯爵家では、私が常に完璧な整理整頓を心がけていた。それだけに、この荒れ果てた事務環境は、効率を極端に下げていることが一目で分かった。
「これが、俺の『仕事』だ。領地の防衛、魔獣討伐の報告、領民の補償金、鉱山からの収益管理……すべて一人で回している」
アシュレイは自嘲気味に笑い、山積みの書類を指差した。
彼が疲弊しきっている理由が分かった。能力不足ではない。圧倒的な人手不足と、管理システムの欠如だ。
「これでは、辺境伯様が倒れるのも時間の問題ですね」
私は迷わず、執務机に歩み寄った。
「失礼します」
私は彼が止めるのも聞かず、散乱していた書類を手に取った。
鉱山の月次報告書、農作物の収穫量、防衛隊の食料調達リスト。バラバラに見えるそれらを、私は手際よく分類し始める。
時系列順に並べ、緊急度で分け、最後に「今すぐ処理すべき事項」と「後回しで良い事項」を仕分ける。
「……何をしている」
アシュレイの声には、戸惑いと警戒心が混ざっていた。だが、私は手を止めない。
「辺境伯様。まず、この鉱山の収益表と防衛隊の食費が別々に管理されていますが、これでは予算の二重計上が発生しかねません。それと、この報告書には計算ミスがあります。これでは赤字が拡大する一方です」
私は数枚の書類を抜き出し、彼の目の前に並べた。
わずか十分の作業。しかし、それだけで混沌としていた机の上は、すっきりと整理された。
「……貴様、一体何者だ」
アシュレイは息を呑んだ。
『社交界の隅で大人しくしているだけの、陰気で地味な令嬢』――それが、彼が聞き及んでいた彼女の評判だった。だが、目の前で鮮やかに整理されていく書類の山は、その前評判を根本から覆していた。
「ベルノー伯爵家で、十年間『帳簿』と『家計』を管理していました。お父様たちは興味がありませんでしたが、私はこの作業が一番の得意技なのです」
私は顔を上げ、彼と真っ直ぐに視線を合わせた。
「辺境伯様、もしよろしければ事務や管理の手間は、すべて私に任せてください。あなたが領主として本来なすべき役割に専念できるよう、私がその環境を整えてみせます」
アシュレイの瞳から、少しずつ警戒心が薄れていく。
彼は机の上に置かれた整理整頓された書類を、まるで宝物でも見るかのようにゆっくりと撫でた。
「……ずっと、欲しかったんだ。こういうことができる人間が」
彼の言葉は、小さく、しかし重く響いた。
氷の辺境伯の仮面の下で、一人の男が深く安堵しているのが分かった。
彼は深く息を吐き出し、私に向けて初めて、わずかに柔らかな表情を見せた。
「効率的な管理が必要なら、貴様の意見を優先する。……やってくれるか、クラリッサ」
「はい。精一杯務めさせていただきます。辺境伯様のお役に立てるよう、私にできる限りのことをいたします」
こうして、氷の辺境伯と不要な長女による、奇妙で合理的な契約が結ばれた。
ここには、誰の顔色を伺う必要も、不当に扱われる恐怖もない。
私が私の能力を、最大限に発揮できる場所。
ようやく、私の人生が始まったのだ。




