最後の日
嫁入り前夜の屋敷は、どこか慌ただしい雰囲気に包まれていた。
だが、その忙しさは私を送り出すための準備ではない。すべては、私の抜けた穴をいかにして埋めるか、あるいは明日からの生活をどう維持するかという、自分たちの都合のための慌ただしさだ。
「クラリッサ、金庫の鍵と暗証番号の控えをちょうだい。あと、取引先の支払日一覧と、領地から届く納品書の管理方法をもう一度書き出しなさい」
母の言葉は、まるで退職する使用人に引き継ぎを命じるような響きだった。
明日の早朝には、辺境への馬車が出る。それなのに、母は夜の更けるまで私を書斎に閉じ込め、帳簿と格闘させている。
母にとって、私は娘ではなく「有能な召使」に過ぎないのだと、改めて思い知らされる。
「ねえ、お姉さまがいなくなったら、私の髪のセットやドレスの手配は誰がやるのかしら?今までお姉さまがやっていたこと、全部誰かにお任せしなきゃいけないなんて、本当に面倒ね」
傍らではリリアーヌが、不満げな様子でドレスの生地サンプルを広げていた。
彼女にとって、姉という存在は「家事」を担い、自分の髪を整え、ドレスを選び、彼女の生活を心地よくするための「便利な備品」だ。
自分に不便が生じない限り、姉が辺境でどうなろうと知ったことではない。自分の生活の質が少しでも下がることを危惧しているだけのようだった。
私は淡々と羽ペンを走らせる。
取引先の癖、苦手な支払い方法、値引き交渉の切り出し方。すべてを完璧に書き記していく。
母はそれを受け取り、「ええ、これなら安心だわ」と満足げに頷く。
――安心? そんなはずはない。
帳簿の数字は正しくても、それを運用する人間が違えば、結果は大きく変わる。だが、彼女たちはそれに気づいていない。数字さえ揃っていれば、家は勝手に回ると思っているのだ。
深夜、ようやく解放されて自室に戻った私は、小さな旅行鞄を一つ広げた。
持っていく荷物は、質素なドレス二着と、使い慣れた筆記用具、そして辺境での生活を想定してまとめたメモ帳だけ。
クローゼットを覗き込んで、私は苦笑した。
ここには、私が二十年間暮らしてきた証拠が何一つない。
子供の頃の思い出の品も、愛読した本も、家族からもらったプレゼント一つない。
この家のために働き、この家の利益を優先し、自分のすべてを捧げてきたというのに、私の人生の持ち物は、この鞄一つに収まってしまう。
「……空っぽね」
自分の人生が、あまりにも軽やかだったことに驚く。
家族に愛された記憶も、自分のために選んだ物も、何もない。
だからこそ、今の私には「失うもの」も「守るべきもの」もないのだと気づいた。
この家における「クラリッサ」という役割を捨てれば、私はどこへでも行けるし、何にでもなれる。
部屋の扉を叩く音がした。父だ。
「クラリッサ、開けるぞ」
父は部屋に入ってくると、私を一瞥もせず、冷淡な口調で言い放った。
「明日は朝一番で発つ。辺境伯という男は噂通りなら気難しいだろうが、粗相はするなよ。
……お前に期待などしていない。ただ、ベルノー伯爵家の恥になるようなことだけは避けろ。もし不手際があれば、手紙一本よこすな。我が家とは縁を切ると思え」
それが、父からの「行ってらっしゃい」だった。
愛情も、労いの言葉も、心配の欠片もない。
私を「家門の汚点になりかねない危うい存在」と見なし、予防線を張ることに必死なのだ。
「……かしこまりました。お父様のご期待に沿えるよう、努めてまいります」
私は深々と頭を下げた。
その言葉に、父は鼻を鳴らして部屋を出て行った。
去り際の背中には、娘を嫁に出す寂しさなど微塵も感じられない。ただ、不要な厄介払いが済むことへの安堵だけが漂っていた。
扉が閉まり、再び静寂が戻ってくる。
私は鞄のファスナーを閉めた。
窓の外には、すでに夜明け前の藍色の空が広がっている。
私の旅支度は、これで終わりだ。
最後のお勤めは、引き継ぎの帳簿に誤りがないことを確認すること。
私が去った後のベルノー家が、どれほどスムーズに、そしてどれほど急速に混乱の渦に飲み込まれていくのか。
それを想像すると、悲しみではなく、皮肉な笑みが込み上げてきた。
さようなら、私の役目。
さようなら、私を愛さなかった家。
明日の朝、私はもう、この屋敷の奴隷ではない。
私は鞄を枕元に置き、わずかな時間だけ、目を閉じた。
氷の地へ向かう道は、私自身の人生を取り戻すための、最初の一歩なのだから。




