静かな覚悟
辺境伯家への縁談が決まってからというもの、屋敷の空気は微妙に変化した。
両親とリリアーヌにとっては「厄介な北辺への縁談を押し付けられる」という罪悪感が、私を「家の駒」として改めて定義することで相殺されたかのようだった。
「クラリッサ、辺境伯家への挨拶状と、契約の書類はできたか?」
夕食の席で、父が当然のように私に尋ねてくる。
私は手際よく整理された書類を差し出した。
「はい、こちらです。辺境伯様へ宛てた承諾の書簡と、我が家が用意する持参金の目録、そして婚礼に関する確認事項をまとめてございます」
「ふむ……相変わらず、お前は事務作業だけは優秀だな」
父は褒めるでもなく、単なる事務的な確認として書類を受け取った。
リリアーヌは私の横で、セドリックから贈られたという宝石の指輪を眺めながら、退屈そうにフォークを動かしている。
「お姉さま、辺境に行くのなら、冬服は質素なものにしておいた方がいいわよ。あちらでは誰も見ていないでしょうし、ベルノー家の資金を無駄にする必要はないもの」
彼女の軽薄な忠告に、母が同意して頷く。
「そうよ、クラリッサ。あなたは持参金も必要最低限でいいわ。その分、リリアーヌの次のドレスに回すからね」
かつてなら、この理不尽な差別に胸を痛めたかもしれない。
家族のためにと必死に働いてきたのに、最後には身ぐるみ剥がされるような扱い。
だが、今の私に悲しみはなかった。むしろ、ある種の「清々しさ」さえ感じていた。
(……ああ、そうか。この人たちは、最後まで私という人間を正当に評価することはないんだ)
それは、諦めというよりも、一種の「解放」だった。
期待を捨てれば、傷つくこともない。
私がこの家のために尽くしてきた十年の価値など、彼らにとっては、リリアーヌのドレス数着分にも満たないのだと分かった。
ならば、私もこれ以上、この家族に情をかける必要はない。
その夜、私は自室のデスクに向かい、一通の手紙を書いていた。
それは辺境伯家へ送るための公的な書類ではなく、私自身の備忘録だ。
これから向かう北辺の地で、私がやり遂げたいこと。改善すべき領地の経営。そして、何より――
「家族の呪縛から離れた、私自身の人生」についての計画。
(辺境伯様は、噂通りなら厳しい方かもしれない。でも、少なくとも、無駄を嫌い、責任感がある方なら、私の仕事ぶりを頭から否定はしないはず)
王都の華やかな社交界の、実体のない虚飾と駆け引き。
そんなものに一生を捧げるよりも、厳しい冬に耐え、泥にまみれても、自分の手で何かを成し遂げる場所の方が、ずっと価値がある。
ふと、窓の外を見ると、月が雲に隠れようとしていた。
この屋敷にいる最後の夜は、意外と早く来るかもしれない。
私は羽ペンを置き、窓を少しだけ開けた。
肌を刺すような夜の冷気が、私の頬に触れる。
「……ここではない、どこかへ」
私はもう、この家を守るために帳簿を捏造することはない。
妹の失態を隠蔽するために頭を下げることもない。
明日の朝になれば、私はまたいつものように家事を行い、指示を出し、彼らのために働くのだろう。けれど、心はもう、この家の壁の外にある。
私はそっと手帳を閉じ、深呼吸をした。
ベルノー伯爵家の長女としての私は、もうじき終わる。
次に生まれるのは、辺境の地で、自分自身の手で居場所を勝ち取る一人の女性だ。
準備は、もう整っている。
誰にも期待されず、誰にも惜しまれない出発が、すぐそこまで迫っていた。




