目覚めと変化
嵐が去った翌朝。ノルデンの空は、昨日までの猛威が嘘のように澄み渡っていた。
新雪に反射する陽光が眩しく、城全体が水晶のように輝いている。昨日まで戦場だった広場では、村人たちが互いに無事を喜び合い、兵士たちはクラリッサの指示通りに配られた熱い粥で腹を満たしていた。
城内の一室。柔らかな朝の光が差し込む寝室で、アシュレイはようやく深い眠りから目を覚ました。
重厚な鎧は脱ぎ捨てられ、傷口には清潔な包帯が巻かれている。ふと横を見れば、椅子に座ったまま、ベッドの端に突っ伏して眠っているクラリッサの姿があった。
「……クラリッサ」
アシュレイが掠れた声で呼ぶと、彼女は弾かれたように顔を上げた。
「アシュレイ様! お目覚めですか? 気分は……どこか痛むところはございませんか?」
彼女の瞳には、まだ昨夜の緊張の余韻と、寝不足による隈が微かに残っていた。髪も少し乱れ、王都の令嬢としての端正な装いとは程遠い。けれど、今の彼にはその姿が、どんな着飾った貴婦人よりも神々しく、美しく見えた。
アシュレイは、まだ重い腕を伸ばし、彼女の細い指先をそっと包み込んだ。
「大丈夫だ。お前のおかげで、これ以上ないほど深い眠りにつけた。……お前こそ、一睡もしていないのではないか」
「いえ……。それより、お水をお持ちしますね」
慌てて立ち上がろうとする彼女の手を、アシュレイは離さなかった。彼は少しだけ上体を起こし、窓の外を見やった。
城の至るところで、薪を割る音や、人々が笑い合う声が聞こえてくる。
「……聞いたぞ。お前が家具を壊してまで火を焚き、礼拝堂まで開放して人々を救ったと。兵士たちも口を揃えて言っていた。『奥方様の采配がなければ、城は内側から崩れていた』とな。あの絶望的な状況で、誰一人欠けることなく夜を越せたのは、奇跡に近い」
「それは……少し大袈裟です。私はただ、私にできることをしただけで……」
クラリッサは照れたように視線を落としたが、アシュレイは首を振った。
「いいや。俺は前線の壁にはなれるが、極限状態で絶望している人々の心に火を灯すことはできなかっただろう。……クラリッサ、お前はベルノー家で無能と呼ばれていたと言ったな」
アシュレイの指に、少しだけ力がこもる。その眼差しは、冷徹な氷の辺境伯のものではなく、一人の男としての深い情熱を帯びていた。
「あいつらは、何も見ていなかったのだな。こんなにも強く、賢く、温かい女性を、ただの道具だと思っていた。お前の価値を測れなかったあの一族は、あまりにも愚かだ。……だが、惜しいことをしたものだ。おかげで、お前は俺の妻になったのだから」
不意に投げかけられた真っ直ぐな言葉に、クラリッサの胸が熱くなる。
ベルノー家で否定され続け、自分の居場所を必死に探していたあの日々。孤独に耐え続けた自分の価値を、この人は戦場を生き抜いた手で、何よりも重い真実として認めてくれた。
「……アシュレイ様にそう言っていただけるなら、私の過去の苦労も、すべて報われた気がします。あの場所を追い出されたからこそ、私は、あなたに出会えたのですから」
彼女が静かに微笑むと、アシュレイは引き寄せるようにして彼女をベッドの側に座らせた。
これまでは契約に基づいた距離のあった二人の間に、今は確かな信頼と、それ以上の熱が通っている。
「クラリッサ。この地はまだ、冬が続く。これからも、俺の隣でこの領地を支えてくれるか。辺境伯の妻としてではなく、俺の……アシュレイ・ノルデンの唯一の伴侶として。お前を、俺は生涯かけて大切にしたい」
それは、孤高に生きてきた男が初めて見せた姿だった。
クラリッサは、溢れそうになる涙を堪え、彼の胸にそっと額を預けた。彼の心臓の鼓動が、トクトクと力強く彼女に伝わってくる。
「はい、喜んで。……でも、その前に」
彼女は少しだけ顔を上げ、いたずらっぽく微笑んだ。その瞳には、かつてのリリアーヌたちには決して見せなかった、一人の女性としての輝きがあった。
「まずは、しっかり朝食を召し上がっていただきます。今日は特別に、アシュレイ様の好きなものをたくさん用意させましたから。……完食していただかないと、管理者の権限で外出禁止にしますよ? 」
アシュレイは一瞬驚いたように目を見開き、それから今日一番の晴れやかな笑い声を上げた。
「……ああ、分かった。お前の命令には、一生逆らえないようだ」
外では雪解けの音が聞こえ始めていた。
かつて孤独だった二人の魂は、この凍てつく冬の終わりと共に、本当の意味で一つに結ばれたのだ。




