夜明け
嵐のピークは、深夜を過ぎた頃に訪れた。
魔獣の群れの背後から、大気を震わせる地響きと共に、ひときわ巨大な影が姿を現した。雪山の主、古の魔狼だ。その咆哮一つで、防衛線の兵士たちの足が竦み、折れかけていた剣先がさらに震える。
だが、最前線に立つアシュレイだけは違った。
彼の喉には、先ほど飲み干したクラリッサのスープの熱が、まだ確かな力となって残っている。凍てつく体の中で、その熱だけが「お前は一人ではない」と訴え続けていた。
「怯むな! 奴を倒せば、この嵐も終わる!」
アシュレイは雪を蹴り、巨大な影へと肉薄した。
魔狼の鋭い爪が彼の肩を掠め、軍服を切り裂く。鮮血が白い雪を染めるが、彼は表情一つ変えない。冷徹な氷の辺境伯としての剣技に、今は妻の待つ場所を守り抜くという、熱い執念が宿っていた。
一方、城内。
クラリッサは、窓の外を睨み据えたまま立ち尽くしていた。
もはや指示は行き届き、人々はそれぞれの役割をこなしている。けれど、彼女の心だけは、吹雪の向こうで戦う夫のそばにあった。
ふと、彼女の目に、アシュレイが前線へ向かう際に残した言葉が浮かぶ。
『必ず戻る』
その約束を信じるために、彼女は最後の大仕事を始めた。
城の門から広間へと続く回廊、そのすべての燭台に火を灯させたのだ。
「そんなに火を灯しては、燃料がもったいないです!」
使用人の一人が困惑して声を上げたが、クラリッサは毅然と言い放った。
「これは無駄ではありません。アシュレイ様たちが戻る時、この光が道標になるのです。吹雪で視界を失っても、『無事で帰ってきて』と叫ぶ私たちの声になるのです。最後まで、火を絶やしてはなりません!」
それは、計算高い彼女が初めて下した、合理的ではない、けれど最も強い意志を込めた采配だった。
――そして、夜明け。
不意に風が止み、空に白々とした光が差し込み始めた。
遠くで魔狼の断末魔が響き渡り、それから嘘のような静寂が訪れる。
城の重厚な門が、軋んだ音を立ててゆっくりと開かれた。
現れたのは、ボロボロになった鎧を纏い、互いの肩を貸し合う兵士たち。そしてその先頭に、血に塗れた愛剣を杖代わりにつきながら、一歩ずつ踏みしめるように歩いてくる男がいた。
「アシュレイ様……!」
クラリッサは、周囲の目も構わず駆け出した。
回廊を埋め尽くす数百の灯火が、帰還する英雄たちを黄金色に照らし出している。
アシュレイは、駆け寄る彼女の姿を認めると、張り詰めていた緊張が解けたように膝をついた。クラリッサは、冷え切った彼の体を力一杯抱きしめる。
彼の鎧は氷のように冷たいのに、その内側から漏れる吐息は、驚くほど生気に満ちていた。
「……戻ったぞ、クラリッサ。光が……見えた。お前が灯してくれたのか」
アシュレイの声は掠れていたが、その瞳は穏やかだった。
クラリッサは涙を堪え、震える手で彼の汚れを拭った。
「はい……。スープを温め直してあります。火も、消さずに待っていました」
アシュレイは彼女を抱き締め返し、その肩に深く顔を埋めた。
これまでは、戦いに勝てばそれで十分だと思っていた。けれど今は、守り抜いた後に「おかえりなさい」と迎えてくれることが、これほどまでに救いになるのかと、彼は生まれて初めて知ったのだ。
朝日がノルデン城の白い壁を照らし、長く苦しい夜が終わった。
領民たちは抱き合って喜び、兵士たちはクラリッサの灯した火の温もりに涙した。
ベルノー家の「無能な長女」だった女性と、孤独な「氷の辺境伯」。
二人の心が本当の意味で重なり合ったのは、この凍てつく嵐の夜だった。




