平穏
嵐が去って数日。ノルデン城には、これまでになかった活気と、どこか柔らかな空気が流れていた。
かつては「氷の城」と揶揄されるほど静まり返っていた廊下には、今や忙しなく動く使用人たちの足音と、互いを労い合う明るい声が響いている。その中心にいるのは、常に手帳を片手に的確な指示を飛ばすクラリッサだった。
「奥方様! 厨房の備蓄リスト、修正が完了しました。例の『大鍋方式』のおかげで、燃料の消費が予定より三割も抑えられています!」
「素晴らしいわ。浮いた燃料は、北の避難所に回しましょう。あちらはまだ冷え込みが厳しいですから」
クラリッサが微笑むと、若い使用人は顔を赤らめて嬉しそうに一礼した。
今の彼女は、単なる辺境伯の妻ではない。この城の隅々まで把握し、皆の生活を守る主として、領民全員から絶大な信頼を寄せられていた。
そんな彼女の様子を、執務室の影から見つめている視線があった。アシュレイである。
彼は以前のように眉間に皺を寄せることもなく、どこか満足げに、そして独占欲の滲む瞳で彼女を追っていた。
「……辺境伯様、あまり奥方様を見つめすぎていると、仕事が進みませんよ」
副官が苦笑しながら声をかけると、アシュレイはふんと鼻を鳴らした。
「……別に見てはいない。ただ、彼女が働きすぎて倒れないか監視しているだけだ」
「それは建前でしょうに。昨夜も、彼女が寝室に戻るまで執務室の火を落とさなかったと聞いていますよ」
アシュレイは反論せず、書類に目を戻した。
その日の午後、クラリッサがようやく一段落ついて、執務室の椅子で小さく息を吐いた時のことだ。
アシュレイが背後から音もなく近づき、彼女の肩を大きな手で包み込んだ。その手は以前よりもずっと優しく、労わるような温もりを帯びている。
「……クラリッサ、もういい。ペンを置け」
「アシュレイ様? でも、まだ午後の収支報告の確認が……」
「後のことは副官にやらせればいい。お前は、明らかに働きすぎだ」
アシュレイは眉間に少しだけ皺を寄せ、彼女の顔を覗き込んだ。その瞳には、自分の代わりに領地を支えてくれる妻への敬意と、それ以上に、彼女が無理をして倒れてしまうことへの強い危惧が宿っていた。
「いいか。お前がここに来てから、ノルデンは見違えるほど良くなった。だがな、その代償にお前が痩せ細っていくのを見て、俺が平気でいられると思うか?」
「そんな、痩せ細るなんて大袈裟な……。私はただ、皆様のお役に立てるのが嬉しくて」
クラリッサが微笑んで誤魔化そうとすると、アシュレイは逃がさないと言わんばかりに、彼女を抱き上げるようにして椅子から立ち上がらせた。
「自覚がないのが一番の問題だ。俺の視界にお前がいない間、お前がどれだけ無理をしているかと思うと、仕事に集中できん。……これは俺の命令だ。今は、休め」
アシュレイはそのまま、彼女を自室へと促した。
部屋には、彼女の好みに合わせて新しく用意された、王都のものよりも上質な茶葉の香りが漂っている。アシュレイ自らが椅子を引き、彼女を座らせた。
「クラリッサ。お前がいないノルデンなど、もう想像もできん。お前はこの領地にとって不可欠だが、俺にとってはそれ以上に、失うわけにいかない唯一の存在だ」
彼は彼女の手を取り、その掌に愛おしそうに唇を寄せた。
ベルノー家では「ただの道具」だった彼女が、今は「宝物」として扱われている。
「お前が守ったこの地で、お前自身が一番幸せでなければ、俺が戦った意味がない。……いいな? これからは、少しは俺に甘えろ」
その言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも深く、クラリッサの心に染み渡った。
二人の間に流れる、穏やかで幸福な時間。
しかし、その幸せを切り裂くように、王都からの黒い報せが届くのは――このわずか数時間後のことだった。




