嵐の中の城
アシュレイが吹雪の彼方へ消えてから、一時間が経過していた。
ノルデン城の広場は、かつてないほどの混乱に包まれていた。吹き付ける雪から逃れるように、近隣の村々から避難してきた人々が次々と門をくぐる。凍えきった子供の泣き声、馬のいななき、そして時折、地響きのように遠くから響く魔獣の咆哮。
それらの雑音が混ざり合い、城内の空気は恐怖という名の毒に侵されつつあった。
「第ニ広場がもう満員です! 後から来た避難民をどこへ入れればいいのですか!」
「負傷した兵が運ばれてきました! 医務室のベッドが足りません!」
兵士や使用人たちが、我先にと私に助けを求めて詰め寄る。その誰もが、極限の緊張状態で瞳を血走らせていた。
ほんの数ヶ月前までの私なら、この光景にただ圧倒され、震えることしかできなかっただろう。けれど、今は違う。この地でアシュレイと共に歩んできた日々が、私の中に逃げない強さを育てていた。
私は、この混乱を収めるためにここに立っているのだ。
「全員、落ち着いてください!」
私は、喉が張り裂けんばかりの声を出した。王都の社交界で教わった優雅な発声ではない。凍てつく空気を切り裂くような、芯の通った叫び。その一喝で、周囲の喧騒が嘘のように静まり返った。
「情報の錯綜は死に直結します。報告は一人ずつ! 避難民の割り当ては、今すぐ大広間を解放し、仮設居住区に変えます。家財道具を隅に寄せ、家族単位で固まって。子供と高齢者は、最も暖房効率の良い暖炉のそばへ誘導してください!」
私は、矢継ぎ早に指示を飛ばした。
ベルノー家で父に押し付けられていた、終わりのない帳簿付けや理不尽なまでの家計管理。あの時は、ただ自分を削るだけの苦役だと思っていた。けれど、何十もの数字を同時に捌き、一分の狂いも許されない計算を毎日繰り返してきた経験が、今、絶望的な混乱を整理するための勘となって私を突き動かしている。
皮肉なものだ。私を縛り付けていたはずの鎖が、今、この地を守るための唯一の武器になっているなんて。
その経験が、今、死地と化した城内を動かす唯一の歯車になっていた。
「薪が足りません! 備蓄分では夜までもたない!」
震える声で報告してきた若い使用人に対し、私は冷徹なまでに合理的な判断を下した。
「城内にある木製の家具をすべて使いなさい。装飾品も、客間の椅子も、価値のある絵画の額縁も。見た目よりも、今は命です。壊しても構わないから、燃やせるものは全て燃料に回して! いい? 私たちは今、雪の嵐という目に見えない敵と戦っているの。アシュレイ様が外で命を懸けている間、私たちはここを絶対に守り抜く。冷えで誰一人失わせないこと、それがこの城の防衛戦よ!」
私の言葉に、兵士や使用人たちの表情が劇的に変わった。
これまでは「辺境伯の妻」として敬意を払われていただけだったが、今は違う。彼らは、自分たちを窮地から救い出す「指揮官」として私を見つめていた。その瞳には、恐怖に代わって、生き延びようとする確固たる意志が宿り始めていた。
ふと、広間の大きな窓が風圧で激しく鳴った。
その轟音の合間に、鋼と魔獣の爪がぶつかり合う凄惨な音が、風に乗って微かに届く。アシュレイたちが、今まさに血を流して戦っている証拠だ。
(……無事でいて。どうか、一秒でも長く)
喉元まで出かかった祈りは、飲み込んだ。
祈っている暇があるなら、一グラムでも多くの食料を確保し、一ミリでも安全な寝床を増やす。
私がここで盤石の体制を築き上げ、一人の脱落者も出さない環境を作れば、アシュレイは背後を一切気にせず、目の前の敵を斬ることに全神経を注げるはずだ。
「次は、怪我人の搬送ルートの確保です。通路にある装飾品はすべて撤去して。医務官に伝えて、動ける負傷兵は手当てが済み次第、物資運搬の補助に回ってもらいます。……さあ、動いて! まだ夜は始まったばかりよ。誰一人として、この城で死ぬことは許しません!」
吹き荒れる嵐を凌駕する熱量が、私の内側から溢れ出していた。
ベルノー家で培った冷徹なまでの管理能力と、この地で手に入れた「守りたい」という情熱。その二つが重なり合い、私はかつてないほど強く、鋭く、覚醒していた。




