嵐の予感
ノルデン城を覆う雪景色は、ここ数日で様相を変えていた。
空を埋め尽くす鉛色の雲は、いつにも増して低く垂れ込め、吹き付ける風はまるで獣の遠吠えのように城の隙間をすり抜けていく。この地の冬は常に厳しいが、これほどまでに気配が張り詰めた日は珍しい。暖炉の火も、時折逆流する風に煽られて、か細く震えている。
午後になり、嵐がその猛威を極限まで高めた頃だった。
執務室の重厚な扉が、慌ただしい足音と共に叩きつけられるように開いた。
「辺境伯様!緊急のご報告です!」
飛び込んできたのは、最前線の見張り台から戻った斥候だ。彼の鎧には雪がこびりつき、息は白く凍りついている。アシュレイは地図から顔を上げ、氷のように静かな視線を彼に向けた。
「報告を」
「北の山脈、通称『牙の峠』にて魔獣の大規模な群れを確認しました!この吹雪を利用して、峠を一気に駆け下りてきています!数は……数え切れません。先触れだけでも数百、その後続には計り知れない影が続いています!」
アシュレイの瞳が、鋭く細められた。
この規模の魔獣が人里へ降りてくることは、過去十年なかったことだ。
彼は地図の上に置いた指を、迷いなく北の要所に走らせる。
「……山間部を避けて南下するはずがない。奴らの狙いは、この城そのものか。あるいは、村々を蹂躙して我々の兵力を削ぐつもりか」
アシュレイの声は冷徹なまでの冷静さを保っていたが、その表情の奥には、領主として、そして戦士としての激しい焦燥が渦巻いているのが分かった。
彼が指揮を執る。それだけで、城内の空気は一変した。
兵の配置、バリケードの構築、避難する村民の割り当て。次々と下される命令は、無駄を削ぎ落とした研ぎ澄まされたものだった。
「……クラリッサ」
不意に、アシュレイが私を呼んだ。
彼は地図から視線を外し、私の肩に手を置く。その手は、冷たい空気に晒されていたにもかかわらず、驚くほど熱を帯びていた。
「村の避難誘導と、城内の備蓄食料の管理を頼みたい。今回の魔獣は、単なる野生の群れではない可能性がある。長期戦に備え、物資を一箇所に集中させろ。俺は前線に出て、奴らを食い止める」
彼にとって領地を守ることは責務であり、前線へ向かうことは避けられない運命だ。しかし、この大規模な魔獣の群れを前に、私を安全な場所に残すことが最適解だと分かっていながらも、その眼差しには戦場へ向かう決意とは別の――私を失うことへの、これまでにない深い焦燥が宿っていた。
「……城の司令室から動くな。俺の許可が出るまで、絶対に外の様子を見に行こうとするな。いいな?」
「……分かりました。お任せください」
私は迷わず頷いた。
今の私にできることは、彼に寄り添って祈ることだけではない。
ベルノー家で学んだ、冷徹なまでの管理能力を最大限に引き出す準備を始めた。
アシュレイは黒い軍服の上に重厚な鎧を纏い、愛剣を手に取った。
その背中は、あまりにも頼もしく、しかし同時に、あまりにも孤独に見えた。
出発の直前、彼は私の前で足を止め、一瞬だけ沈黙した。
嵐の音が遠ざかり、部屋の中がひどく静まり返る。
彼は私の頬に、無骨な指先を一度だけ添えた。
「……必ず戻る。だから、お前も無茶をするな」
その言葉は、命令ではなく、彼なりの精一杯の約束だった。
私は彼の鎧の肩に軽く手を置き、小さく息を吐いた。
「……はい。暖炉に火を入れて、夕食を用意して待っています。……必ず戻ってくださいね」
彼は深く頷くと、嵐の中へと飛び出していった。
開け放たれた扉から、白い吹雪が執務室へと流れ込み、積もっていた書類を舞い散らせる。
扉が閉まり、静寂が戻ったが、心臓は早鐘を打っていた。
外では、獣の咆哮が聞こえ始めている。
それは、私の知る日常を切り裂く、不吉な音だった。
今の私には、彼をただ待つ以上に重要な役目がある。
アシュレイが命を懸けて守ろうとしているこの場所を、彼が戻ってきた時に、以前と変わらず温かい場所として残しておくこと。
それが、妻である私の――そして、この領地を任された管理者の戦いなのだから。




