脱獄
すうっと息を吸い込む音。
「ぎゃあああああ!!」
深夜の静寂をひときわ大きな叫び声が切り裂いた。
「うるせえ!」「なんだなんだ」「ケンカか?」
ざわざわと通路から人のざわめきが響きはじめる。
まもなく「静まれ!」と怒鳴り散らし囚人を制しながら進む看守の靴音が近づいてきた。
「た、たすけてええ」
騒ぎの元凶である小柄な囚人が格子越しに助けを求める。
「さっきの叫びは貴様か?何を騒いでいる」
独房の前に現れた看守は2人組だった。
一人が明かりを持ち、もう一人は槍を携えていた。
「この人、しんじゃうよお!!」
「何?」
「急に苦しみだしたんだ!助けて!!」
囚人は枷で固定された両腕を体ごと振って、部屋の奥の暗がりを指さした。
そこには同室のもう一人の囚人が壁に背を預けて座り込んでいる。
手足は投げ出されていてぴくりとも動かず、シャツには点々と濃い色の染みが散っているのが見て取れるはずだ。
看守は同僚と顔を見合わせたのち、疑念の目で独房内を見る。
「仮病じゃなかろうな」
「何言ってんの?人が倒れてるんだよ!?この人でなし!!最低!!国家の犬!!」
冷淡な対応に心底驚いた様子で、囚人が格子に張り付いてがなり立てる。
「能無し!スカタン!肝っ玉蟻んこサイズ!!」
止まらない悪口雑言にさすがにカチンときたのか、槍を持った方の看守が柄で囚人を突き飛ばす。
「うるさいぞ、罪人のくせに!」
「ぎゃっ」
ごろごろと転がった囚人は部屋の中ほどで腹を押さえてうずくまる。
「自分の立場が分かってないようだな」
さらに柄を突き入れようとする同僚を、もう一人の明かりを持った看守が制止する。
「待て。ここの囚人は例の派閥の……。勝手に死なれては問題になるかもしれん」
「ちっ、確認して報告ってか?面倒事持ち込みやがって」
急病人は部屋の一番奥にいるため、槍の柄がやっと届く程度で、突いて検めるということもできそうにない。
明かりを持った男は、腰に吊るした鍵束を探る。
「五番牢だったな。一、二……これか」
通報者の囚人は床に這いつくばったまま、横目で鍵を選び出す看守をうらめしげに見ている。
「どっちも非戦闘員って話だが、油断するなよ」
「わかってるって」
がちゃがちゃと鍵を回す看守に、槍を掲げて同僚が応じる。
鍵の担当は警戒、もう一人が囚人の対応という役割分担のようだ。
看守が一人行動不能になったとしても、もう一人が通報に走れば応援が駆け付ける。さすがに単純な襲撃で逃亡できるほど警備は甘くないようだった。
「さーて、とりあえず生存確認のために一発小突いておくか?」
「しんじゃってたら朝まで死体と一緒なの?ボクやだよお」
囚人がめそめそと泣き出す。
看守はうんざりした顔で見降ろした。囚人の泣き言などいちいち取り合っていたら務まらない仕事なのだろう。
10代半ばくらいのまだ子供っぽさの残る囚人だった。お仕着せを着ているから、どこかの中流家庭から貴族宅へ奉公に出されているように見える。
この監獄に収監されている人間の半数くらいは密告やでっち上げで有罪となっていることは公然の秘密だ。
悲嘆にくれる姿に背を向け、職務を遂行すべく部屋の奥の急病人の前に膝をつく。しかし、囚人はなおもすがってきた。
「お願い、別の部屋にして!」
「おい、もう一発入れられたいのか!」
「死人と相部屋なんてヤダあ!!」
パニックを起こした囚人が体ごと腕に寄りかかってくるのを押し返そうとする。2人はもみ合いになる。同情などせず、やはりもう一度突き離しておくべきだっただろう。
「いってえな、いい加減に……っ」
苛立ちをあらわにした男は、突然槍を取り落とした。
「……!?」
足が言うことをきかないのだろう、膝をつく。
「ぐ……うげぇ……っ」
吐き気を催して男は床に倒れ込み、のたうち回る。
「ひっ!?」
「おい、どうした!!」
囚人と格子の外の同僚が声を上げるが、男は既に返事をできる状態ではない。
えづきながら揺らぐ視界で、同じように倒れたという壁際の急病人の姿が目に入った。
――そう、急病。自害を装った俺だ。
だが、自害用に隠しボタンに仕込んでいた毒針は、未使用のまま同室の囚人の手に渡っている。
先ほどしがみつかれた時にその針がかすったはずだ。
俺はまだ動かない。
うなだれ壁に寄りかかったまま、ただ床を見つめる。
吐しゃ物にまみれて手足を痙攣させている看守の助けを求める視線にも、ただ座ったまま息を詰めている。
無慈悲な化け物……それが看守が見た最後の景色となっただろう。
「貴様、何をした!!」
「な、何もしてないよ!」
残された看守に問い詰められた同居人は、手枷のついた両手を示して無実を訴える。
毒針は早々に投げ捨てている。当然武器になりそうなものは見当たらない。
これで倒れた男の救助に駆け込んで来るならしめたものだが。
「くそっ」
看守は踵を返すと、走り去った。
「あーっ、鍵持ってった!!」
俺は足元の看守が取り落とした槍を掴み、さっさと立ち上がる。
「アホか、さっき鍵開けたままになってるだろ。今逃げるんだよ!」
「だって手は!?これの鍵は!?」
手枷を見て悲観した顔になる同居人の肩を押す。
「常に持ち歩いてるわけないだろ、たぶんこっちだ!」
「たぶんって何!?待ってよお!!」
俺は看守のあとを追うように扉をくぐり、通路を走り出す。文句を言いながらも同居人はついてくる。
「脱走か?」「なんだなんだ」「駆け落ち?」
通路の両側から好奇心に満ちた目が集まり、手が伸びてくるがすべて無視する。
廊下の突き当りの詰め所。
このフロアの看守は交代時を除き、基本2人だけだ。今は無人となっている。
壁に設置された板に、鍵束がいくつかかけられている。
「ねえ、鍵いっぱいあるよ!?」
「さっき五番って言ってただろ、これだ」
幸い部屋番号が掲示された下に鍵が吊るされている。二本あるからそれぞれの分だろう。高い位置にあるそれらを槍で引っかけて手に入れる。
だが、そこで廊下が騒がしくなった。
他のフロアの看守が向かってきている音だ。
「こっちだ」
収監される時に見た構造を思い出し、廊下に飛び出すと階段とは反対方向に曲がる。
詰め所を出てすぐにある……便所だ。
2人で広くはない便所に入り扉を閉めると、俺はすぐに鍵を試す。幸いすぐにかちりと音がして枷は外れた。律儀な管理がされているようで助かった。
同じようにもう一つの鍵で同行者の手枷を外す。
「ねえ、行き止まりだよ!?」
あとのついた手首をさすりながら同居人が見上げてくる。
石壁に囲まれた、広くはない部屋だ。臭気対策に一応小窓はあるが、外に出られるようなものではない。ただ、ここには警備側の盲点がある。
「行き止まりじゃない。トイレだから外に繋がってる」
「えっ!?」
俺はトイレの隅にある床を槍の穂先でつつく。
そこには木製の板がはめ込まれていた。掃除用の排水溝の蓋だ。
持ち上げると、まあ当然かなりの臭気が鼻を突く。だが、あれこれ言っている暇はない。詰め所の方向からはすでに怒号が響いてきていた。
「入れ」
同居人の尻を蹴飛ばす。
排水溝はぽっかりと暗い穴を開けていた。
暗闇でよく見えないのは、この場合かえって幸いだろう。
「ええっ!?」
「死ぬよりはマシだろ」
「そ、そりゃあそうだけど……あの、覚悟が」
排水溝は汚水を集める太い排水暗渠へと繋がり、監獄の堀へと繋がっているはずだ。
出口がどの程度固定されているかは運任せだが。
背後で脱走を知らせる警笛が響き渡った。ここからは時間との勝負だ。
「覚悟ならさっき始める前にしたんだろ。ごちゃごちゃ言ってねえで、急げ!」
「ぎゃーっ!ひとでなしい!」
やかましい叫び声を巻き込んで、俺は暗闇へと飛び込んだ。




