いつか海辺で
「あの時の死体の真似、迫真の演技だったよね」
「そりゃどうも」
死体なんて死ぬほど見たからだ。誇れることでもない。
「すごいね。寿命、3日も伸びたよ」
刑の執行予定日は3日前に過ぎていた。何もしないよりは生き延びた。だが。
「3日だけ、な」
俺はため息をついた。
強く押さえた手のひらの中で、湿った感触が広がっていく。
腕の中で、小さな逃亡犯はぐったりとしている。
堀を渡り、森を越え、馬を走らせ北へ。
追手は執拗で、振り切れなかった。
「だから言っただろ、苦しみが増えるだけだって」
「そんなことないよ」
同居人の顔は穏やかだった。
「排水溝に飛び込んだり、馬に乗ったり、変な森に迷い込んだり、綺麗な朝焼けを見たり……いつも通り生きてたら見れなかったものがたくさん見れたよ」
そうしてにこりと満足げに笑う。
「ボクだけだったら、1日も伸びなかったんだから。あんたはすごいよ」
賞賛を素直に受け取る気にはなれなかった。
この先にまだ道が続いているのなら、きっとそんな感謝はしなかっただろう。今も排水溝を出た時のような不平不満を口にして、文句を言っていたはずだ。
もっと何か、できることがなかったか。
これだけ死ぬ気であれこれやるんだったら、そもそも投獄される前にまだ何かできたんじゃないのか。
残り時間が目に見えて失われていくというのに、出せる答えは何もない。無力だった。
「俺は追い立てられないと何もできない、でくの坊だ」
主の導きがなければ、ここにだっていなかった。きっとすぐに後を追っていただろう。
「そんなことはないよ……あんたはやさしい。海、見せてくれてありがとうね」
同居人の声は、寄せては返す波の音にかき消されそうなほど小さくなっていた。
沈みかけた月が、凪いだ海を照らしている。
「満月、きれいだね」
「ああ……もうすぐ『月の道』が現れる」
「なにそれ?」
こうして問われて教えるのも最後だろう。
「月が沈む場所から浜辺まで、海が照らされて一本の道みたいに見えるんだ。月の女神の元まで行ける道だと、海辺の民の伝承では言われてる」
泥とほこりにまみれた小さな頭を撫でる。
「女神様が迎えに来てくれるように……祈ってるよ」
「ふふ、神様なんて信じてなかったんだけど。ボクも今、ちょっと祈りたい気分かな」
そして内緒話をするようにささやく。
「ボク、欲張っちゃったから。神様にごめんなさいしなきゃ」
「欲張った?逃げたことがか?」
確か生きたいって思うことは当たり前のことだとか、正当化してなかったか。
「だってあんた、一人なら逃げ切れたでしょ」
「……」
「庇わなくてよかったのに」
視線が俺の肩のあたりに向かう。背中から貫通した鏃が突き出ていた。抜いたところで失血が早まるだけなので放置している。
「海を……見せたかったんだ」
「誰に?」
最後の最後に発揮された察しのよさに、俺は苦笑いする。
「俺の、仕えた主人に」
「貴族の人?」
「そうだよ。王宮で窮屈に生きていて、そして死んだ」
――海も見たこともない、山に行ったこともない。自分の面倒すら自分で見れない人間に、人の痛みがわかるはずもない。
自身に、そして享楽にふける王族の振る舞いに批判的だった。
だが、主は身分の低い側妃の子で、何の権限もなく離宮に閉じ込められたまま。
最後は毒を煽って自害したという。俺が宮廷で足止めをくらっている間に。
せめて海を感じられるものをと俺が贈った一対の虹貝のイヤリングは、埋葬の時には片方が失われていた。
今それは、腕の中の子供の首元を飾っている。
「ボクもね、海に行きたいって言ってた人知ってるよ」
「……なんで王宮なんかに行ったんだ」
「友達にね、頼まれて……ほんとは友達じゃなかったんだけど」
苦笑いしてぽつぽつと語り始める。
身寄りもなく、王都のスラムで育ったこと。
そのうち、ちょっとした「おつかい」をすれば分け前をくれるグループに加わった。たとえば門番に話しかけて気を引くとか、誰かに謎の荷物を届けるとか。
捕まって尋問されたことも一度や二度じゃない、でも何も知らない子供にそれ以上追及するものはいなかった。王宮に手紙を届けて、投獄されるまでは。
「よく、急げって言われててね。ボク、ずっとそれが名前だと思ってた。どんくさハリー、早くしろって」
「ハリーね……それが愛称なら本名はきっとハリエットだな」
「それ、ボクの名前?」
ハリー改め、ハリエットはぱちぱちと目を瞬かせると、嬉しそうに笑う。
ただ、その瞳はもうどこにも焦点を結ばんでいない。
「かっこいい」
「だろ?」
ポロリとその目尻から涙がこぼれる。
「……巻き直しの奇跡が起きればいいのに」
「月の女神の伝説か?」
この大陸の言い伝えだ。
昔、魔王に挑んだ勇者がいた。
力及ばず敗れた勇者に、聖女が時の運航を司る月の女神に加護を祈ると時間が巻き戻り、勇者は再び魔王に挑んだというものだ。
前回の失敗を乗り越え、勇者は魔王を倒すことができたという。
「あーあ、時間が昨日に戻らないかな。もっとうまくやるのに」
「そしたら大人しく諦めて、俺を逃がすのにってか?馬鹿を言え」
「なんでさ。あんたまで……死ぬことないだろ」
俺は鼻で笑う。
「そうじゃない。やり直すならもっと前だ。俺なら10年は巻き戻すね」
そうしたら、第二王子が頭角を現す前に全部叩き潰して回れるだろう。
「だけど、そんなしんどい道行きはごめんだな」
「あんたらしいね。でも、もしも本当に巻き戻ったなら……あんたはきっとやってくれそうだ」
「買いかぶりさ」
「ふふ、そうは思わないけど。10年巻き戻ったら、きっともうあんたには会えないね……」
ありもしない奇跡を語るうちに、月は水平線へと降りてきていた。
「もうすぐ『月の道』が現れる。女神さまが迎えに来る」
「そっか。……でもボク、ちょっと眠くて……女神さまにお願いできないかもだから、あんたが代わりにお願いして……」
「おいおい、俺はごめんだって言っただろ。自分で……」
ふうっと小さな息をついて、ハリーは頭を俺の腕に預けた。
「……おやすみ。ゆっくり休めよ、ハリー」
波の音だけが響く、静かな海辺にざわめきが近づいてきていた。
人の声に犬や馬の鳴き声。追手だろう。
こんな時にもハリーはゆっくりはさせてもらえないらしい。
逃亡者は見せしめや腹いせで酷い扱いを受ける。
俺はともかく、ハリーをそんな目に遭わせるのは我慢ならなかった。
「情が移らないように、名前は聞かないでいたんだがな……」
小さな体を抱き上げて、俺は痛む体に鞭打って浜辺へと向かう。
月が水平線から浜辺までまっすぐに海を照らし始めた。
「しかたがないから女神様のところ……の途中まで、俺が送ってやるよ」
月が照らす道を、俺は沖へと歩いていく。どこまでも、どこまでも。
「……おい。おい、こら。起きろ、ヴィー」
呼び声に目を開くと、月光のような淡い銀髪が揺れていた。
「……リッド?」
「私の目の前で居眠りとは、いい度胸だな」
目の前には、10 代の頃の主がいた。
見間違いかと思って目を閉じる。
「なんだ、夢か」
「不敬罪でしょっ引いていいか?」
「いたいいたい!!」
思い切り耳を引っ張られ、頬をつねる手間が省けた。現実だ。
「まったく。ようやく留学から戻ってきたと思ったのに、早々に待ちぼうけさせるなんて酷い男だ」
子供っぽく膨らませた頬の横で、虹貝のイヤリングが揺れている。
「い、今いつだ!?」
「は?午後のティータイムだが。なんだ、何か約束でもしていたのか?」
「いや、そうじゃなくて……あんた、今何歳だ?」
失礼な物言いにも関わらず、主はかえって心配そうな顔になった。
「大丈夫かお前?こないだ揃って18の誕生日を祝ったばかりだろう」
平民から側妃に召し上げられた主の母親は、同じく平民上がりの俺の母親を乳母とした。
俺たちはきょうだい同然に育ち、他に人の目がない時は気安い間柄だ。
もっとも、主は俺に限らず身分をあまり気にしない。
いずれ臣下にでも政略含みで降嫁することになるだろう、と本人は言っていた。物のような扱いだ。
それで俺は宮廷に文官として出仕した。
主の人生を守るために。
だが、傍を離れたことが裏目に出た。俺がいないところで主は毒を盛られ、俺は捕縛され、そして……。あれが夢だったとは思えない。
「……申し訳ございません」
「おかしな奴だな。変な顔をして」
「おかしいついでに、お願いをしても?」
手に入れたいものがある。まずは一つ。
望めば手が届くかもしれない。
だが、最初から望まないものに、その機会はない。
それをあの月夜の晩に、俺は思い知った。
「なんだね、兄弟。お前が願い事とは天変地異の前触れかな?」
面白そうに主が瞳を輝かせる。
「そうですね……下剋上をして、天下を取りに行く、というのはどうです?」
「おや。お前にはそんなつもりはないのかと思っていたよ」
含みのある言い方だ。
「お前は無欲だからなあ」
言いながら、主は……アストリッド第一王女殿下は右手で耳飾りを弄ぶ。
「それで?お前が言い出すってことは、勝算を見つけたんだろう?我が軍師殿?」
「毒蛇の尻尾を捕まえるチャンスを」
ハリーが言っていた。
王宮に手紙を届けに行ったと。
学のないハリーに、手紙は読めない。
それでも捕えて口封じをしようとしたということは……見られてはいけないものを見ていたのだ。たとえば、依頼人の姿であるとか。
守っているだけでは、何一つ手に入れられないことを知った。
だから今度は、すべてを望んで、リスクを取る。
『巻き戻ったなら、あんたはきっとやってくれそうだ』
予想通りになるのはちょっと癪だから、今度会ったなら腹いせにうんと雑用を言いつけてやる。うちの小間使いとして。
当面は皆それぞれの仕事に奔走することになるだろう。
だが、その向こうでいつか。
揃って海辺の別荘で静養する日が来ることを、俺は信じることにした。




