その5 帰ってきた中学生
「一体何が……ここは……俺の部屋か?」
「おい、弟! さっさと起きて朝飯作れ。あたしは腹が減ったぞ」
部屋の扉が若干乱暴にノックされ、聞き覚えのありすぎる声が聞こえた。
間違いなく姉ちゃんの声だ。モヤモヤした思考が徐々に明瞭になっていく。
「姉ちゃん⁉」
扉の外にいる姉に向かって声を荒げる。
「おう。如何にもあたしゃお前のお姉さまだ。遂にぼけたか」
「今日は何日⁉」
「はあ? 今日は五月三十一日だっての。奇数日のご飯当番はアンタだからね」
姉ちゃんの呆れた声は、階段を下りて行く音とともに遠ざかっていった。
「偶数日も大体俺がやっているんだけど」
姉の足音が完全に聞こえなくなってから、非難の呟きを漏らす。
ベッドに置いてある目覚まし時計を見る。異世界へ移動してから一週間以上はいたはずなのに、こちらの世界ではそれほど経過していない。移動してから十分くらい過ぎているような気もするが……もしかしたら記憶が違っているのかもしれない。
ただ、確実に間違ってはいない事はある。
それは俺が異世界から戻ってきたという事実だ。勿論「夢落ちでした」というオチも考えなくなかったが、ポケットに入っていたのは血の付いた一枚の布きれ。
それは俺が異世界にいたという、紛れもない証拠だった。
******
とりあえずベッドから起きて、机の上にあるPCの電源を付ける。一応、ネットでアラントの事を調べてはみたが、当然ながら過去にそういった国がるという記述は出てこなかった。
「当たり前か」
ポケットには小さな触媒も残っていた。E級だから使わないだろう踏んで持っていかなかったことでピンチを招いた前科があったので、部屋に戻ってから入れていたのだ。これでゴロツキの魔法を撃ち消したんだよな……。
「発火する炎 発効」
俺は何度も使った魔法を、小さく呟いてみる。ターゲットは机の上にぶっきらぼうに置かれていた現国の教科書だったが、もちろん何も起こらない。
分かってはいたが、この世界に魔法はないのだ。
ゼーガミキトの言っていたことが事実であれば、この世界は魔法の概念を消され、マナを溜めるだけの器となっているのだから。
……マリナはどうなっただろうか。
あの世界で、もしかしたら……もう触媒としてヤツにマナを全て抜かれてしまっているのだろうか。だが考えた所で俺には何もできない。
俺はアイツに負けたのだ。負けて元の世界に戻らされた。この友達がいない世界に。
デスクトップにあるショートカットアイコンを、何となくクリックする。ついこの間発売されたエロゲーが起動した。
これは間違いなく名作だ。初回プレイで涙を流してから、優に百回はプレイしている。ゲームが開始すると、ヒロインが何時ものように喋りかけてくる。
だがいつもはワクワクするはずの嫁の声は、今は何故か空しく聞こえた。
「なあ、俺はどうしたらいいんだ」
画面の中の嫁は何も答えない。答えるはずもないのだが、
「戻ればいいんじゃないですあ、ごしゅじーん」
「ユキ⁉」
代わりに背後から聞こえた声に思わず振り向く。そこには……いつものようにふわふわと浮く精霊がいた。
「お、お前どうして此処に……!」
「ん~、どうしてって言われても困るんですけど。だってあたしはごしゅじんが契約した精霊だし? 近くにいるのは当然っていうか」
悪気が無さそうなのは相変わらず。持ち前の愛嬌もあって憎めない。これはある種の才能だな……。
「それより、ごしゅじん。マリナ譲がいなくなってアラントの上層部は大騒ぎですよぉ? あのおっぱい魔法士はごしゅじんがいなくなってる事にも気が付いて探してましたケド……一体何があったんですか?」
「お前が肝心な所でいなかったから……って愚痴は後だな」
ユキが何故ここにいるかは疑問だったが、とりあえず俺はあの部屋で起きた顛末を説明することにした。
「第五精霊王……。はーん、何か雰囲気がピリピリして怪しいと思ってましたけど、まさか彼が灰の王だったとはちょっち驚きです」
「おかしいと思ってたら教えてくれても良かっただろ」
「無茶言わないでください。属しているならともかく、自分と関係のない精霊王に面会できる機会も早々ありませんし~」
「精霊同士でも格が違うって訳か」
「格っていうか存在の在り方の違いですかねぇ。ま、それはともかく。精霊堕ちのマリナ譲は、所属の灰の王の前ではマナを生成できなかった、ということですね」
「……ああ。俺のせいでマリナを渡しちまった」
短い返事で返したが、自分でも驚くほど、その中に悔しさが籠っているのが分った。
「ふふーふ」
ユキがにやりと笑う。
「……何がおかしいんだ? 悪いが今は軽口を返しているほど精神面の余裕はないぞ」
「ぼくがいれば、マナなんて幾らでも生成できますよ。ささ、リベンジにいきましょぉ!」
「いやそう言われても。ここは日本だ。アラントじゃあないし、一体どうやって戦うんだ」
「ふっふっふ。ぼくを誰だと思っているんですか」
「誰だよ……。つうか! 俺は負けたんだよ! 悔しいがな……。お前にゃ分かんねえだろうけど。一度負けたら、そいつに勝つのは難しいんだ。いい試合をして負けたんなら次はある。けど圧倒的に負けちまうと……勝負付けが終わっちまうんだ。力が出ない。ましてやアイツは精霊王だったんだぜ? しかもこの世界を創ったとまで来た。はは、創造神かよ。いや実際神に近いんだろうな」
俺は溜めた言葉を一気に吐き出すと、自嘲交じりの溜息をつく。
「ふうん。意外とメンタル弱いんですね」
「もともと強くないさ。学校じゃ見事に孤立してるし? 強かったらこいつらの考えを改めさせてやろうって、もっと意気込むだろうな」
「でも。あっちじゃごしゅじんを必要としている人がいるんじゃないですかねぇ」
その言葉を聞いて、脳裏に浮かんだのは薄紫色の瞳だった。それでも何も言わず黙っていると、
「それとアラントに戻る方法はありますから」
普段のちゃらけた声色ではない、真剣な声が俺の耳を届いた。その言葉の「意味」を脳が理解し、口を開きかけた時、
「戻りたかったら言ってくださいね。ああ、でも「こっち」の時間一分は、あっちの時間の一時間に相当しますから、決めるならなるはやで」
ユキはふっと姿を消した。
一人になった部屋は、もう何年も使っている筈なのにやけに広く感じた。
「弟! 朝飯っつってんだろ! はよ降りてきて作れ!」
リビングから姉ちゃんの怒声が響いたので、答えが出ないまま俺は部屋を出た。
******
冷蔵庫を開け材料を確認する。卵があるからこれでいいだろう。
フライパンでベーコンを焼き、その油を使ってちょっと濃い目のスクランブルエッグを作る。一緒に皿に載せ、ミニトマトときゅうりを添えれば完成である。
姉ちゃんはリビングでテレビをつけ、くだらないコメンテーターの下らない情報番組を真剣に見ている。
「お、今日のラッキーからはピンクだってさ。清楚なあたしにぴったりじゃん! ちょうど今日は桜色のワンピ着てく予定だったんだよね!」
家の中を黒の下着でうろついてる女子のセリフではないです。マジで止めて欲しいです。
片膝を着いてソファに座っている黒髪ロングの女子高生は、世間的に美少女の部類に入だろう。細身なのに出るところは出てるし、悔しいが外面だけならパーフェクトである。
だがそれはあくまでも外にいる時だけ。家の中じゃただのだらしのない女である。
「ほい、できました。ご注文の朝食です」
「うむ。苦しゅうない」
俺がテーブルに皿を置くと、姉ちゃんは視線をテレビに向けたまま、フォークを手に取り器用に食べ始める。これでこぼさないから不思議だ。
「ん」
二口程口にしたところで、こちらにフォークを向け、ちょいちょいっと振る。
「何? しょっぱかった?」
「しょっぱいのはお前の頭だ。あと卵がいつもより堅い。また何か問題を抱えてんだろ。話してみな」
テレビをみたまま、口調は普段と変わらずぶっきらぼう。だけど時折、姉ちゃんは鋭い指摘をする時がある。姉弟だからだろうか。
「……姉ちゃんはさ。何で男ひっかえとっかえなの。痛っ!」
脛を蹴られた。
「いちいち一人一人品定めしてたら、あっという間に適齢期すぎちゃうっての」
「スゲー理屈だ……」
「妥協は嫌いだからね。アンタみたいに素材が悪くなくても、常時ウジってるような奴はご免だわ」
「誰がウジウジしてるんだよ。いつも通りなんだけど」
「はぁ。あたしの目が曇りに曇って仮に度が合わない牛乳瓶眼鏡をしてても分かる位、分かり易いオーラを出してるんだけど? 何、今日鬱ってんのは、クラスの誰かに苛められたの」
「孤立はしてるけど苛められてはいねえっての! 何せ距離を置かれてるからな!」
「ドヤ顔でいうな、ドヤ顔で。何されたか知らんけど、あんたはもっとシンプルでいいのよ。気に食わないことがあったら、全力でつっぱしれっていつも教えてるでしょ?」
あんたの場合はつっぱしり片が尋常じゃないんですよね! その教えを実行して一体どんだけ痛い目に遭った事やら。ここでは語るまい。だが少し気持ちが軽くなった俺は、ダメ元で姉に話してみることにした。
「相手にさ、何もできず負けたんだ。勝って欲しいってある子に頼まれてたのに」
軽い口調で、軽く話したつもりだった。
なのに。不思議と俺の拳は、血が止まるほど固く握られていた。
姉ちゃんは相変わらずテレビを見たままだったが、一瞬、その視線が立ちすくむ俺の手に行ったように見えた。
「シンプルに、よ。悔しいんだったらさっさと行きなさい。ただし」
フォークを俺の方へピッと向ける。
「二回目はちゃんとやりなさい。それで負けたら死になさい。分かったらスクランブルもっかい作り直し」
俺よりも三歳年上の姉ちゃんは、不敵な笑みを浮かべアドバイスをくれた。
シンプルに、か。そりゃそうだ。建てに俺よりも長く生きていないな。
「ところで姉ちゃんは二回目以降でも沢山失敗してるけど、それは、痛っ!」
無言で再び脛を蹴られた。余計な事は言うもんじゃないな。
俺は急いでキッチンへ戻ると、冷蔵庫から新しい卵を二つ取り出した。
こっちの時間は向こうの一時間ってユキは言っていたからな。素早くスクランブルして皿に乗せると、姉の前へ差し出す。
「ちょっと出かけてくる」
「待ちな」
彼女は差し出された料理を一口食べると、リビングを出ようとした俺に向かって、親指をぐっと立てた。
俺は部屋に戻るとすぐに、誰がいる訳でもない空間に向かって声を投げる。
「ユキ!」
「はいな」
陽気な声はすぐ横から聞こえた。神出鬼没なのを今は問うてる暇はない。
戻るための理由。きっかけ。そんなのは単純で良かった。
彼女は……マリナは俺が助ける! ついでにムカつくアイツをぶっ飛ばす!
それだけで十分だ。
「アラントへ戻る」
「ふふーふ。さすがぼくのごしゅじん、その言葉を待っていましたよぉ。でもこの短い間にどうしたんですか?」
「ああ、もっと恥ずかしい言葉をお前に言わせてやりたいからな」
「ふふふ、さすが変態ですねぇ。こっちの空気はマナが濃すぎるから、ぼくも早く戻りたかったところです」
服の胸の裾を摘まみながらパタパタと手で仰ぐユキ。
「じゃ行きますよぉ~」
「ってちょっと待て! そう言えばお前なんでこっちの「世界」に来れてるんだ?」
「ま、それは後で後で。一つだけ思い出したんですよ。ぼくの故郷は「こっち」でも「あっち」でもない世界だって」
そういえば最初に紹介所で出会った時、ユキは記憶喪失だと言っていた。名前も俺がつけたんだった。なんだかもう随分前の話に思える。
「だからぼくは何処へでも移動できるんですよねぇ」
何か雑だな! だがそんな事は後でいい。今はアラントへ戻る方が先決だ。
「どうすればいい?」
「じゃ、まずマナを共有するために、手をそうそう、僕の腰に」
ユキの真っ白な手が、俺の右腕を掴むと、そのまま自分の腰に回すよう誘導する。
「えへへ。じゃ、目を瞑ってください」
「目?」
「開きっぱなしだとマナを上手く送れないんですよねぇ」
まあやるって言ってる本人がそう言うんなら間違いないんだろう。俺は目を閉じた。
「じゃ、行きますよぉ」
ユキの声が聞こえてからジャスト一秒後。俺の唇に暖かくやわらかな感触が重なった。
驚いて目を開けようとしたが、いつか感じた眩暈が俺を襲い、足元がふらついた。
精霊の腰に触れていた筈の感触が無くなっている事に気が付き、慌てて辺りを弄り――――何かが手に触れたと思った瞬間、光と共に目の前が一気に開けた。




