表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
セイラ・サバーの事件簿  作者: あび


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/11

第五章 賢者の足跡

 旅を続けるほど、じいさんの気配が濃くなっていく気がした。

 最初に気づいたのはカルセを出た後のことだった。

 街道沿いの古い宿に泊まった夜、宿の棚に埃をかぶった本が並んでいた。私は眠れなかったので一冊手に取った。題名のない古い本だった。表紙を開いた瞬間、手のひらが微かに温かくなった。

 じいさんの宝石が胸の中で震えた。

 本の最初のページに小さな文字で一行だけ書いてあった。


  「水は低いところに流れる。しかし海になる」


 それだけだった。著者の名前はなかった。

 ただその文字の形が、じいさんが私に字を教えてくれた時の筆跡と同じだった。

 じいさん。あなたがここを通ったんですか。


 それからだった。旅の途中で古いものに触れるたびに、何かが起きるようになった。

 ネルムの村の井戸の縁に刻まれた小さな紋様。普通に見れば装飾に過ぎない。しかし私が指でなぞった瞬間に頭の中に映像が流れ込んできた。

 夜の山道を一人で歩く老人の後ろ姿。霧の中に消えていく背中。それだけだった。一瞬で消えた。

 サーヴェルの図書館で古い地図を広げた時もそうだった。地図の隅に書き込まれた小さな文字に触れた瞬間、また流れ込んできた。

 広い草原に二人の男が立っている。向かい合っている。一人は若い。一人は年老いている。年老いた方が静かに首を振っている。

 私はその都度、宝石を握った。宝石は必ず温かかった。


 旅を始めて二ヶ月が経った頃、私たちは小さな山間の町に着いた。名前をヴァルタという。

 町の中心に古い教会があった。扉が開いていたので入った。

 祭壇の脇に古い石板があった。文字が刻まれている。

 私は石板に手をかざした。その瞬間だった。


 頭の中に光が溢れた。映像ではなかった。感覚だった。誰かの感情が直接流れ込んでくるような感覚。

 温かさ。疲れ。そして静かな決意。

 声が聞こえた。老人の声だった。じいさんの声だった。


「お前がここに来る頃、私はもういないだろう。だからここに残しておく」

「力は手段だ。目的ではない」

「お前にも同じ選択が来る。その時に思い出せ」


 声が消えた。光が消えた。

 私は祭壇の前にしゃがんでいた。いつの間にか膝をついていた。手が震えていた。

 石板の文字を読んだ。


  「旅人よ、重荷を下ろせ。ここは始まりの場所ではなく、続きの場所だ」


 著者の名前はなかった。しかし私には分かった。


 その夜、宿で町の老人から話を聞いた。

「もう五十年以上前になるか。この町に一人の老人が来た。武具職人だと名乗っていた。三日ほど滞在して教会で何かしていた」

「その老人の名前は」

「さあ。名乗らなかった。ただ目が澄んでいて、何もかも知っているような目をしていたと聞いた。静かな人だったな。ただそこにいるだけで、周りの空気が落ち着くような」

 じいさんだ、と思った。確信があった。


 ヴァルタを出る朝、ヴィサラが私の隣を歩きながら言った。

「そのじいさん、本当に大切な人だったんだね」

「ええ」と私は言った。

「どんな人だった?」

「口数が少なくて、笑顔も少なくて、褒め方が下手で、叱り方も下手だった」と私は言った。「でもいつでもそこにいた。必要な時に必要なことを言ってくれた。それだけの人だった」

「それだけ、か」とヴィサラは言った。

「十分すぎる」と私は言った。


 町を出てしばらく歩いた街道沿いに、古い道標があった。

 何気なく手で触れた。また流れ込んできた。

 老人が道標の前に立っている。遠くを見ている。その手に宝石が握られていた。私が今持っている宝石と同じ形だった。

 老人がゆっくりと宝石を握りしめた。そして呟いた。


「待っていろ。必ず届ける」


 映像が消えた。私は道標の前で立ち止まったまま動けなかった。

 リオンが振り返った。「どうした」

「なんでもない」と私は言った。歩き出した。宝石を握りしめた。

 じいさん。届いています。ちゃんと届いています。


── 第五章 終 ──


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ