第五章 賢者の足跡
旅を続けるほど、じいさんの気配が濃くなっていく気がした。
最初に気づいたのはカルセを出た後のことだった。
街道沿いの古い宿に泊まった夜、宿の棚に埃をかぶった本が並んでいた。私は眠れなかったので一冊手に取った。題名のない古い本だった。表紙を開いた瞬間、手のひらが微かに温かくなった。
じいさんの宝石が胸の中で震えた。
本の最初のページに小さな文字で一行だけ書いてあった。
「水は低いところに流れる。しかし海になる」
それだけだった。著者の名前はなかった。
ただその文字の形が、じいさんが私に字を教えてくれた時の筆跡と同じだった。
じいさん。あなたがここを通ったんですか。
それからだった。旅の途中で古いものに触れるたびに、何かが起きるようになった。
ネルムの村の井戸の縁に刻まれた小さな紋様。普通に見れば装飾に過ぎない。しかし私が指でなぞった瞬間に頭の中に映像が流れ込んできた。
夜の山道を一人で歩く老人の後ろ姿。霧の中に消えていく背中。それだけだった。一瞬で消えた。
サーヴェルの図書館で古い地図を広げた時もそうだった。地図の隅に書き込まれた小さな文字に触れた瞬間、また流れ込んできた。
広い草原に二人の男が立っている。向かい合っている。一人は若い。一人は年老いている。年老いた方が静かに首を振っている。
私はその都度、宝石を握った。宝石は必ず温かかった。
旅を始めて二ヶ月が経った頃、私たちは小さな山間の町に着いた。名前をヴァルタという。
町の中心に古い教会があった。扉が開いていたので入った。
祭壇の脇に古い石板があった。文字が刻まれている。
私は石板に手をかざした。その瞬間だった。
頭の中に光が溢れた。映像ではなかった。感覚だった。誰かの感情が直接流れ込んでくるような感覚。
温かさ。疲れ。そして静かな決意。
声が聞こえた。老人の声だった。じいさんの声だった。
「お前がここに来る頃、私はもういないだろう。だからここに残しておく」
「力は手段だ。目的ではない」
「お前にも同じ選択が来る。その時に思い出せ」
声が消えた。光が消えた。
私は祭壇の前にしゃがんでいた。いつの間にか膝をついていた。手が震えていた。
石板の文字を読んだ。
「旅人よ、重荷を下ろせ。ここは始まりの場所ではなく、続きの場所だ」
著者の名前はなかった。しかし私には分かった。
その夜、宿で町の老人から話を聞いた。
「もう五十年以上前になるか。この町に一人の老人が来た。武具職人だと名乗っていた。三日ほど滞在して教会で何かしていた」
「その老人の名前は」
「さあ。名乗らなかった。ただ目が澄んでいて、何もかも知っているような目をしていたと聞いた。静かな人だったな。ただそこにいるだけで、周りの空気が落ち着くような」
じいさんだ、と思った。確信があった。
ヴァルタを出る朝、ヴィサラが私の隣を歩きながら言った。
「そのじいさん、本当に大切な人だったんだね」
「ええ」と私は言った。
「どんな人だった?」
「口数が少なくて、笑顔も少なくて、褒め方が下手で、叱り方も下手だった」と私は言った。「でもいつでもそこにいた。必要な時に必要なことを言ってくれた。それだけの人だった」
「それだけ、か」とヴィサラは言った。
「十分すぎる」と私は言った。
町を出てしばらく歩いた街道沿いに、古い道標があった。
何気なく手で触れた。また流れ込んできた。
老人が道標の前に立っている。遠くを見ている。その手に宝石が握られていた。私が今持っている宝石と同じ形だった。
老人がゆっくりと宝石を握りしめた。そして呟いた。
「待っていろ。必ず届ける」
映像が消えた。私は道標の前で立ち止まったまま動けなかった。
リオンが振り返った。「どうした」
「なんでもない」と私は言った。歩き出した。宝石を握りしめた。
じいさん。届いています。ちゃんと届いています。
── 第五章 終 ──




