第四章 仮面の下の顔
大都市サーヴェルに着いたのは、旅を始めて一ヶ月が経った頃だった。
城壁に囲まれた大きな街だった。門をくぐった瞬間に音が変わった。馬車の音、商人の声、子供の笑い声、どこかで鳴っている楽器の音。タルム村とは別の世界だった。
「大きいな」とリオンが言った。
「私も初めて見た」とヴィサラが言った。楽しそうだった。「綺麗な街ね」
私は街を見渡した。確かに綺麗だった。しかし綺麗な街というのは大抵、綺麗でない部分を上手に隠している。
街に入って最初に気づいたのは、至る所に貼られた告知だった。
「来る満月の夜、サーヴェル侯爵家主催 春の仮面舞踏会 招待状をお持ちの方のみ入場可」
市場を三周しながら話を聞いた。サーヴェルの侯爵はこの地方で最も力のある貴族。招待客は百人以上。そして今年の舞踏会には特別な客が来るという。領主の使いだとかで。
「仮面舞踏会に入る」と私は言った。
「招待状は」とリオンが言った。
「街に来る途中で拾った」と私は懐から一枚の紙を出した。「一枚しかない。私一人で入る」
満月の夜、仮面をつけて侯爵家の屋敷に入った。
会場は広間だった。シャンデリアが輝いて、楽団が音楽を奏でている。全員が仮面をつけている。顔が分からない。それがこの夜の唯一のルールだった。
顔が分からないなら、と私は思った。人を見分けるのは別の場所だ。
私は壁際に立って、しばらく広間を観察した。
手だ。仮面で顔を隠しても、手までは隠せない。指輪、爪の手入れ、皮膚の張り。貴族の手は柔らかく、白い。
給仕も見た。揃いの黒い上着で、銀の盆に酒杯を載せて広間を回っている。彼らの動きには型がある。盆が空けば下がり、満たして戻る。同じ円を、同じ速さで。
ただ一人だけ、その円から外れている給仕がいた。
彼は酒を配らなかった。盆を持ったまま、ある一人の客の近くを、離れずに回っていた。仮面の下から、その客だけを見ているようだった。
気に留めるほどではない。けれど、頭の隅に置いた。
一時間が経った頃だった。広間の中央で悲鳴が上がった。
床に人が倒れていた。仮面をつけたまま動かない。
「死んでいます」と使用人が言った。
私は倒れた男の傍にしゃがんだ。口元に近づいた。かすかに甘い香りがした。毒だ。
倒れた男の手の傍に、酒杯が転がっていた。中身はわずかに残っていた。さっき、あの給仕が近くを回っていた客だ。
「この方はどなたですか」
「ヴァルド商会の会頭、ヴァルド様です」
私は仮面に手をかけた。そっと外した。
広間が静まり返った。誰も知らない顔だった。五十代の男。日焼けした顔。
そして、手を見た。豆だらけの硬い皮膚。剣だこか、櫂だこか。長く重いものを握り続けた手だった。
「この方はヴァルド様ではありません」と私は静かに言った。
「商会の会頭の手じゃない。これは、体を使って働いてきた人間の手です。たぶん、護衛か、その類いの」
ざわめきが広がった。侯爵家の執事が全員を広間に集めた。誰も帰れない。これは毒殺事件だ。
私は広間の隅で考えた。
毒は酒に盛られていた。あの転がった杯。けれど、これだけ人がいる広間で、特定の一人にだけ毒杯を渡すのは難しい。配り間違えれば別の人間が死ぬ。
つまり、毒を盛った人間は、相手を見失わないように、ずっとそばにいたはずだ。
円から外れて、一人の客だけを見ていた給仕。
私が思考を巡らせていた時だった。
「毒の種類から考えた方がいい」
背後から、低く静かな男の声がした。
振り返ると、灰色の仮面をつけた長身の男が立っていた。
「セイヴァンさん」と私は言った。
男は仮面を少しだけ持ち上げた。セイヴァンだった。
「久しぶりですね、セイラ嬢。相変わらず面白いところにいる」
「あの甘い香り」とセイヴァンは続けた。「どこで嗅いだか、覚えていませんか」
私は記憶を探った。甘い香り。
そして思い出した。ネルムの村の井戸だ。あの水面から漂っていた、微かな香り。青い光の魔法が混じった水の匂いと、同じだった。
「魔法で作った毒です」と私は言った。「生活魔法の範囲を超えた毒。普通の毒物じゃない。この街でそれができる人間は、限られている」
毒杯を渡したのは、ただの給仕ではない。魔法の毒を扱える人間だ。
「一つだけ聞いていいですか」と私は言った。「ケイ・サヴァじいさんのことを、知っていますか」
セイヴァンの体が微かに固まった。
「知っています」と彼は言った。声が低くなった。
「じいさんの封印のことも?」
今度は、答えるまでに間があった。「……知っています」
「そうですか」と私は言った。それ以上は聞かなかった。今夜はここまでだと思った。
そしてセイヴァンが広間の入り口に目をやった時だった。
ヴィサラが立っていた。招待状がないはずなのに。
ヴィサラは私と目が合うと微笑んだ。そしてセイヴァンを見た。
一瞬だった。ヴィサラの笑顔が固まった。セイヴァンの目が、細いまま動かなかった。
二人の間に張り詰めた空気が流れた。
この二人は知り合いだ。言葉を交わさなくても、それが分かった。
私は執事に、さっきの給仕の特徴を伝えた。円から外れて一人の客だけを見ていた男。盆を持ちながら、酒を一度も配らなかった男。
衛兵が広間の給仕を一人ずつ確かめた。動線とグラスの並びを照らし合わせると、やはり一人だけ、辻褄の合わない男がいた。
しかし衛兵が取り押さえた時には、男は自ら毒を呷った後だった。雇い主に繋がるものは、何一つ持っていなかった。
夜半過ぎ、事件の輪郭がようやく見えた。
死んだ男は本物のヴァルドではなく、ヴァルドに雇われた護衛だった。本物のヴァルドはこの夜、会場に現れる予定を直前に変えていた。身代わりが、主人の仮面と席を引き受けていた。
ヴァルド商会は領主と対立する商人連合の中心にいた。領主の利権を侵食しつつある存在だった。
「つまり領主側が、ヴァルドを消しに来た」と私は言った。「でも仮面のせいで人違いをして、護衛を殺した」
「状況はそう示している」とセイヴァンは言った。
「あなたは領主の使いとして、ここに来ているのに」
「ええ。矛盾していますね」とセイヴァンは言った。表情は変わらなかった。
「間に合わなかっただけです」と彼は静かに言った。「護衛が死んだ。本物のヴァルドは無事だった。それで十分です」
その言葉を、私はしばらく胸の中で転がした。
間に合わなかった、ではない。間に合わせなかった、でもない。この人は、人違いが起きると分かっていて、止めなかったのか、止められなかったのか。
まだ、分からない。
夜明けの空が白み始めていた。街の石畳が、朝の光を受けてゆっくりと輝き始めた。
綺麗な街だと思った。しかしやはり、綺麗でない部分を上手に隠している街だと思った。
── 第四章 終 ──




