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セイラ・サバーの事件簿  作者: あび


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第三章 霧の村と笑わない人たち

 笑顔の作り方が上手すぎる人間には気をつけろ。

 じいさんがそう言ったことがある。理由を聞くと、じいさんは少しだけ笑って答えた。

「笑顔は心から出るものだ。だが、出し方を知っている人間は、心がなくても笑える」

 その時は意味が分からなかった。

 ヴィサラに会った時、その言葉をなぜか思い出した。


 出会ったのは山道の途中だった。

 カルセを出て三日目の昼過ぎ、前から一人の女が歩いてきた。私より少し上、二十代前半だろうか。明るい茶色の髪を緩く結んで、大きな荷物を軽々と背負っている。遠くからでも笑顔が分かった。

「あら!」と彼女は弾んだ声で言った。「旅の方ですか? よかった、人に会えて。この道、熊が出るって聞いて怖かったんです」

「熊は出ません」とリオンが言った。「この時期は山の奥にいる」

「詳しいんですね! 私ヴィサラといいます。回復魔法使いで、各地を旅しながら治療をしているんです」


 私はヴィサラを見た。明るい人だと思った。

 ただ一つ、引っかかった。

 熊が怖かった、と彼女は言った。けれど荷物の背負い方も、足の運びも、山に慣れた人間のそれだった。怖がる人間の歩き方ではない。

 些細なことだ。気のせいかもしれない。

 私はその引っかかりを、胸の奥にそっと仕舞った。


「セイラです。こちらはリオン。旅の者です」


 三人で歩きながら、ヴィサラはよく喋った。行く先々で出会った人の話、治療した患者の話。

「回復魔法はどこで学んだんですか」

「母から。でも三年前に、魔法絡みの事件で亡くなって」

 声のトーンが落ちた。初めて笑顔が消えた。

 話の筋は通っている。感情の動きも自然だ。

 なのに、なぜこの引っかかりが消えないのだろう。


 その日の夕方、三人は小さな村に着いた。霧の多い村だった。名前をネルムという。

 宿屋の主人は愛想がよかった。しかし食事の途中で気づいた。主人の目が笑っていない。口元は笑っているのに、目だけが焦点の合わない、遠くを見るような目をしている。

 村人全員に同じことが言えた。笑い声が少ない。会話が薄い。まるで台本を読んでいるようだった。

 笑顔の作り方が上手すぎる人間には気をつけろ。

 じいさんの言葉が、また頭をよぎった。


 翌朝、村の長老が訪ねてきた。

「村人が、おかしいんです」と声を落とした。

 二ヶ月前から少しずつ始まった。最初は猟師のオルドが、ある朝から別人のようになった。一週間後に別の村人が。今では村の三分の一が変わってしまった。

「変わった人間に話を聞くと、全員、ある夜に夢を見たと言うんです。霧の中で美しい光を見る夢だと」

「その夢を見た人と、見ていない人で、違いはありますか」

 長老は少し考えた。

「……村外れの井戸を使っているかどうか、でしょうか」


 私はもう一つ訊いた。

「変わった人たちは、最近、誰かに体を診てもらいましたか。怪我や、ちょっとした不調で」

 長老の顔色が変わった。

「言われてみれば……ここ二ヶ月、村に旅の治療師が何度か立ち寄って。その人に診てもらった者が、何人か」

 私はリオンと目を合わせた。

 二ヶ月前から。旅の治療師。診てもらった者から変わっていく。

 点が、線になりかけていた。


 村外れの井戸は古かった。水面がわずかに光っていた。ほんの微かに。覗き込むと、甘い香りがした。

 私は懐から小瓶を出して水を少し取った。その瞬間だった。背後で足音がした。

「セイラさん、こんなところに」

 振り返るとヴィサラが立っていた。笑顔だった。

「村人の治療を少し。回復魔法使いですから」

「親切ですね」と私は言った。

 胸の引っかかりが、少しだけ大きくなった。

 治療をしに来た。けれど、彼女が来てから村人が変わり始めた。それを偶然と呼ぶには、時期が重なりすぎている。


 その夕方、私は物陰から見た。

 ヴィサラが井戸に手をかざしていた。手のひらから微かな光が出ていた。

 白くなかった。青かった。


 じいさんが教えてくれたことがある。魔法には色がある、と。

「水を出す、火を起こす――暮らしのための魔法は、白に近い光だ。だが、人の心や記憶に触れる魔法は、青みがかる。青い光を使う人間を見たら、用心しろ。それは人の内側に手を入れる魔法だ」

 あの時は、ただの昔話だと思って聞いていた。

 今、その意味が分かった。

 ヴィサラの手のひらの光は、青かった。井戸の水に青い光を混ぜ、その水を飲んだ者が夢を見る。あるいは、彼女が直接触れた者が。そして翌朝、別人になる。

 回復魔法使い――嘘だ。彼女が使っているのは、人の心に触れる魔法だ。


 翌朝、私はヴィサラに声をかけた。

「昨日から頭が痛くて。診てもらえますか」

 ヴィサラが私の頭に手をかざした。温かい感覚があった。そして――微かに、青い光が見えた。

「ヴィサラさん。それは頭痛を治す魔法じゃないですよね」

 一瞬だった。ヴィサラの手が止まった。笑顔が固まった。

「白い光なら信じました」と私は言った。「でも、あなたの光は青い」

 私はヴィサラの手首を掴んで立ち上がった。「リオン」

 縁側の角からリオンが出てきた。


「いつから気づいていた?」と彼女は言った。

「山道で会った時から、なんとなく」と私は言った。「確信したのは、井戸の青い光を見た時」

「村人を元に戻す方法を教えてください。そうすれば今は騒ぎにしない」

「井戸への魔法を解けばいい。水が元に戻れば、一週間で記憶が戻る」


 ネルムを出る朝、ヴィサラが宿の前に立っていた。

「一緒に行ってもいいかしら。まだ用があるから、追いかけてくる人間がいる」

「いいです。ただし一つだけ約束してください。村人に使ったような魔法は、二度と使わない」

「……約束する」

 リオンが小声で言った。「信用できるのか」

「できない」と私は言った。「だから連れて行く」

 三人と一人が並んで歩き出した。霧が少しずつ晴れていた。


 村を出る前に、長老が教えてくれた言い伝えが頭に残っていた。

 この村はかつて、賢者が通った山道の途中にあるという。その賢者の名は、ケイとかいう名だったような気も、と長老は言った。

 じいさん。あなたはここを通ったんですか。

 霧が流れた。井戸が静かに立っていた。


── 第三章 終 ──


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