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耳に吹きかかる吐息と、低い声。
全身に沁み込んでいくそれが誰のものか、後ろを見なくたってわかる。
たった一度、名前を呼ばれただけで「生きたい」と活力が湧いてくる。
まだまだ、幾度となく、名前を呼んでほしい。
あなたの隣で、夢を追いたい。
そう思えて……私はこんなにも単純だったのかと自分に驚く。
でも、どうしてあなたがここに……?
イタズラが成功したみたいなユーリの表情は、「私は、『彼は帰った』とまで言ってないわよ」と語っていた。そういえば、彼女は「追い返した」と口にしただけだ。
ユーリは、優しく微笑んで……ゆっくりと踵を返して教室をあとにした。残されたのは、私とーー
「……マルネス」
鎖骨に回った男性然とした腕に、手をそっと重ねる。
「よくわかったな」
ふっと、彼が笑んだ空気を感じて、きゅうと胸が甘く締め付けられた。
「わかるわ。……この二ヶ月間、頭の中で何度あなたのことを思い浮かべたと思ってるの」
「そうか……嬉しい。僕も、ずっと君のことを考えていた」
溶けそうなほど熱のこもった声に、トクトクと心臓が走って、走って、走って。落ち着きをなくしていた。
「トーラ。どうして、辞めようとした。どうして、僕から……逃げたんだ」
咎められている気はしなかった。
その声はただ、ひたすら切なげで。「寂しかった」「どこにもいかないで」と訴えられている心地になる。
「私は……不器用な優しさに溢れた、あなたが好きだったの」
「不器用な優しさ?」
トーラは、こくりと頷く。
「あなたは、私に同情しなかった」
「………………」
「病気だと知っても、『自分を』生きろって叱ってくれた。仕事を教える時も、手を抜かず、厳しく指導してくれた。……私を思って、あなたなりの『優しさ』で接してくれたわ。私にとって、それがとても嬉しかった」
「…………」
「でも、今は……」
ーーあなたが私の病気を気にしないのが苦しい。
「トーラ……」
「私は、あなたを不幸にしてしまう」
「どういうこと?」
「検査結果がどんどん悪くなっているの。センターに通わなくなった二ヶ月間も、数値は落ち続けているわ」
「数値が.....」
弱った私は、間違いなくあなたに迷惑をかける。
もし、命を失う時が来たら、耐え難い喪失感まで与えることになるだろう。
先の見えない私と居るより、健康な女性と過ごす方がマルネスにとって、実りある人生になるはずだ。
だって、私は……結婚だってままならず、それどころか 大好きなあなたの子供を望むことさえ、できないかもしれないのだから。
「あなたが、病気を理由に離れていく人なら、ここまで悩まなかった。体力が落ちて、手のかかる私なんてさっさと見切りをつけてくれるだろうから」
.....そんな人じゃないから好きになったのだけれど。
「……それで、離れたのか」
黙ったまま、動けなくなった。
肯定も否定もしなかったが、その反応で伝わっただろう。
「馬鹿だな」
「え?」
「君は、時々鋭いのか、鈍いのか、わからなくなる。
トーラ、僕はこの先の人生、君以外を愛することはない。例え 君と結ばれなくても、だ。
そして、僕の『幸せ』は君の隣にいること。
それ以外 あり得ないし、君が隣にいない日々は僕にとってこの上なく『不幸』だ。
断言できる。
だから 迷惑をかけるだの、不幸にするだの、君が気に病む必要は全くないんだ。
これは僕が決めたんだから。僕が、自ら選んだ道なんだから。
それでも、もし、僕を『不幸』にしたくないと考えてしまうならーー
生きてくれ、トーラ。僕の隣で。
そうすれば、僕は世界で一番 幸せな男になれるから」
「……....っ、マルネス」
あまりにも、あっさりと笑い飛ばされる。
その笑顔が眩しすぎて、ぶわりと毛が逆立つ感覚がした。
包まれていた身体は、優しく向かい合う形に誘導されて、再び抱きしめられる。
胸に顔を埋めてスーッと息を吸うと、マルネスの匂いがした。
「そんなこと言ったら、私、絶対離れないわよ?」
「はは、望むところだ。.....君がずっとそばに居てくれるなんて、最高だよ」
砂糖漬けみたいな甘い声で言われて、カァと顔が真っ赤になった。
マルネスは私を軽々と抱き上げ、すぐ背後の椅子に腰掛けた。誰もいない二人きりの室内に、『カタン』と音がこだました。
窓からはオレンジ色の西陽が差し込み、黒板や木目が重なる床が鮮やかに染まっていく。
「可愛い。久しぶりに会えてその顔は反則だ。我慢できなくなるだろう?」
「え.....?」
膝の上に横抱きに腰を下ろされ、愛おしさが満ちた瞳と視線が絡み合った瞬間、ちゅ、と柔らかな感触が額に落ちてきた。
「あ......マ、マルネス......んっ、だめよ」
その感触が何なのか理解するよりも早く、次の口付けが額、耳、鼻、頬.....と、何度も何度も 絶え間なく降ってきて、恥ずかしさで小さく抵抗した。
「君が可愛すぎるのが、いけない。.....ん。トーラ、君が足りないんだ。もっと触れさせて?」
「.....んん」
「君はどこも柔らかいな。やみつきになる。.....ここも。とても瑞々しくて、ふわふわしてるんだな....」
キスが不意に止む。いつの間にかきゅっと閉じていた瞼をあげると、ふに....と彼の指が私の唇をなぞるのが目に入った。
色気たっぷりの仕草に、もう十分高鳴っていた心臓は、更に大きく一跳ねした。
ゆっくりと、私の反応を確認しながら近づいくる新緑の色は、熱く蕩けていて.....
ーー綺麗.....
夕日が染めた壁に映る二つの影が重なった時、私はそんなことをぽうっと考えていた。




