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その日から、マルネスの瞳の奥は負の感情を灯すことがなくなった。
そして無表情はそのままに、空気感もどこか丸みを帯びてとっつきやすくなった。もちろん、彼自身は無意識だろうけれど。
マルネスの変化を感じて、私もより彼と接しやすくなった。
仕事に対する姿勢は変わらなかったが、二人を隔てていた見えない壁のようなものが取っ払われた気がして、距離が縮まった。多分、勘違いではないと思う。
「……縫製もやってみるか」
「い、いいの……?」
「……君なら、任せられる」
びっくりして、一瞬耳を疑った。嬉しかった。でも、涙まで込み上げてきたのは、彼の全身から信頼感が伝わってきたから。
「っ、はっ、はい!やります!やらせて下さい!……私、頑張りますね」
「ああ。……期待してる」
彼は思ってもないことは、絶対言わない。
その言葉が、なによりの信頼の証だった。
感情を抑えられず流れた涙に、マルネスが目を細めた。思わずドキリとした。
彼の瞳はあんな色だっただろうか。
私が今まで見ていたものとは、まるで違って見えた。
……春の森に広がる、新緑の色みたい。
見上げた空いっぱいに芽吹いた若葉がさわさわと揺れる風景。爽やかで涼しげなのに、あたたかみもあってーー。
心臓がトクトクと早鐘を打つ。
彼の視線に落ち着かない気持ちが増していく。
何かが変わろうとしている。
そんな予感がした。
……ねぇ、マルネス。私、まだ……わからないままなのよ。
心の中でそっと吐露したら、脈打つ心臓の片隅をきゅっと締め付けるような痛みが走った。
彼の笑顔を初めて見た時 浮かんだ疑問は、ずっと解けていなかった。
それでも……
膨らむ気持ちに限界なんて、存在しなくてーー
……私、どうしたらいいのかしら。
……どうするのが、正解なのかしら。
迷路に迷い込んだみたいな心地だった。
*****
「……病気が進行していますね」
「え……」
定期検査の結果を聞きに行って、頭が真っ白になった。数ヶ月前に受けた検査では、むしろ良好な数値を示していた。主治医の表情から、かなり悪かったのだと察して固まった。
「前回の数値から、明らかに落ちています。魔力が消失するスピードも上がっている」
「……そ、んな」
気づけばカタカタと、勝手に身体が震えていた。
「落ち着いて下さい。あなたの病気は謎が多い。まだ深刻に考えすぎない方がいい」
「…………」
「とにかく、検査の頻度を上げましょう。一ヶ月後、再検査ということで。念の為、服薬の量を増やします。忘れずにきちんと服用して下さい」
「……はい」
さらさらとペンを動かす手を、虚無に眺めた。
「……先生」
「はい」
「私は……生きられますか」
ーーこの先、ずっと……
目を見るのが怖くて、太ももで組んだ手に視線を落として訊ねた。
「エルネスさん」
「…………」
ピクリと肩が跳ねる。先生が、キュッと椅子を鳴らしてこちらを覗き込んだ。
「……正直に申し上げますと、なんとも言えません。本当にわからないんです。確かに、そういう例もありますが」
つまり、死亡例ということだ。
拳に力が入る。
先生はそれから数秒の間を空けて、言った。
その数秒の沈黙がズンと重く感じた。
「ですが……希望を捨てないで下さい。一緒に頑張りましょう?」
「………はい」
「では、また一ヶ月後に。途中、もし違和感や変化を感じたらいつでも来て下さい」
「ありがとうございます」
帰り道、大きな鎌を持った真っ黒な死神が背後に付き纏っている気分になった。
公園の横を通り過ぎる時、風が吹き抜けた。まっすぐに生えた木々たちに呼ばれた気がして、力無く見上げた先に、マルネスの瞳そっくりの色がきらきら揺れていた。
最近、すっかり緩んだ涙腺からまた涙が溢れて、ポタポタと足元の砂に雨を降らした。
「……好き」
好きよ、マルネス。
私って……なんて『優しく』ないのかしら。
ずっと悩んでいた答えが、出た瞬間だった。
いや。本当はずっと前から答えは出ていたのだ。
ただ、見ないふりをして逃げていただけ。
見えない死神に鎌を突きつけられながら、その日、私は夜通し泣いた。
*****
答えが出てからも、私はセンターに通い続けた。
信頼してくれたマルネスに応えたかった。
夢を諦めたくなかった。投げ出したくなかった。
それも本当で……もう一つ。
マルネスの瞳は、今では、あたたかみしか感じられない。私に向けられる瞳は、穏やかで、優しさの溢れる色になっていた。
まだその色を見つめていたくて、あと少し、少しだけでいいからと、決断を先延ばしにした。
「……よく頑張ったな」
「……ほ、本当ですか?」
「ああ。裁断も、縫製も、文句なし。……完璧だ」
「…………っ、マルネス」
マルネスに認められた。信頼に応えられた。
気分が高揚して、達成感と多幸感が胸を満たした。
「これから、君には裁断と合わせて縫製までお願いするとしよう。……行く行くは、デザインも任せたいと思っている」
だが、次の瞬間、冷や水を浴びせられた気がした。
……言わなくちゃ。
私にセンターでの『これから』はないのだ。
取り返しがつかなくなる前に、センターを辞めよう。
服作りは、他の場所でもできる。
マルネスが気付かせてくれた、「夢を諦めたくない」という気持ちは今後も守っていく。
それがお互いにとって、一番いい『未来』に繋がる。
なのにーー。
「………………」
「……トーラ?」
「好き……」
開いた唇は、全く違う言葉を紡いでいた。
自分でも呆れるほど、切ない声だった。
あなたのそばに居たい。
まだ、あなたと一緒に仕事をしたい。
心が訴えていた。
夜の静寂が広がる二人きりの室内は、まるで世界に二人だけ取り残されたような感覚に陥る。
でも怖さなんて一欠片も感じないのは、きっとあなたが居てくれるから。あなたが居れば、私はどんなことにでも立ち向かっていける。そう思えるから。
……そんな人、きっとあなただけね。
「トーラ……」
呼ばれた名前に、勝手に潤んで涙の膜が張るのを視界で捉えながら、伝えたくて堪らなくなった。
神様……マルネス……
自分勝手な私でごめんなさい。
ちっとも優しくない私で、ごめんなさい。
これで……最後にするから。
だからーー
「……好きなの、マルネス。あなたを……」
ーー愛してる。
あなたの『未来』からは姿を消すから。
せめて、記憶の中には残りたい。
私を、忘れないでーー。
私は目を閉じ……「センターを辞めさせて下さい」と口を開こうとした。その前に、信じがたい言葉が耳に届いて、結局言葉にできなかったけれど。
「…………僕もだ」
「……今……なんて言ったの……?」
「僕もだ、と言ったんだ」
「好きだよ、トーラ。……君を愛してる」
聞き間違いであってほしかった。
でも、そんなわけなくて。
私はもう取り返しのつかない所までやってきていたのだ。
包み込まれた体温に反して、スーッと全身が冷えて行くのを感じた。
「……めて」
「え?」
気づいた時には、マルネスの胸板を押して、その腕から逃れていた。
「……トーラ」
「やめて……っ!私を呼ばないで……っ」
咄嗟に耳を押さえて、精一杯彼を睨む。
ダメ。ダメなの、マルネス。
あなたの幸せな『未来』に私は要らないの。
だから……私を呼ばないで。
決意が鈍るから。このまま、あなたに許されるならそばに居たいと、願ってしまうから。
「っ、な、何だよ!トーラ……っ、待て!待つんだ……っ!」
あの日浮かんだ疑問は、すべて解けた。
私は、彼の愛を欲しいと感じていること。
私を好きになった彼の『未来』は、決して幸せではないだろうこと。
そして、私が考える 彼に対する『優しさ』は.....
あなたの前から、私が消えること。
ーーさようなら、マルネス……
傷つけることになって、ごめんなさい....




