第9話 王都から来た監査官は、私を『返せ』と言った
王都からの監査官は、三日後に到着した。
名前はクラウス・ヴェルナー。王宮財務部付きの上級書記官で、以前、エドガー殿下の執務室でも何度か見かけたことがある。年は三十前後、整った身なりに丁寧な口調。けれど、人を見下すときだけ目尻が少し上がる癖があった。
「お久しぶりです、レティシア様」
「そうですね、クラウス様」
「様付けなど不要ですよ。今のあなたは王太子妃候補ではないのですから」
「では私も敬称を省いて?」
「それはご遠慮いただきたいですね」
面倒な人だ、と再認識する。
彼は応接室で一通り商会の件を確認したあと、本題に入った。
持ってきた封書には、王太子印がある。
「王都より、あなたに帰還命令が出ています」
「帰還、ですか」
「ええ。殿下は寛大なお方です。北方での短期出向は既に十分と判断されました。直ちに王都へ戻り、王宮財務部の補佐へ復帰していただきます」
「辞令を拝見しても?」
「どうぞ」
封を切って読む。
案の定、文面は雑だった。『王太子の裁量により、レティシア・ファルケンの配置を王宮へ戻す』。それだけ。現在の雇用契約期間や、公爵領との調整手順には一切触れていない。
「無効ですね」
「……は?」
「私の現行契約は、ノルドヴァルト公爵領との一年間の雇用契約です。解除には、公爵領側の同意か、契約違反の立証が必要です。この文書にはどちらもありません」
「あなたは王家の命に逆らうのですか」
「王家の正式命令なら、然るべき手続きを踏んでください」
「殿下のお気持ちを、そこまで事務的に」
「私は今、契約局の人間ですので」
クラウスは微笑を崩さないまま、声だけを冷たくした。
「レティシア。あなたは少し勘違いをしている。北方に来られたのは、殿下が情けをかけてくださったからです。不要になれば戻る。それだけの話でしょう」
「備品の返却みたいにおっしゃいますね」
「……似たようなものでは?」
「違います」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
怒る必要はない。ただ線を引けばいい。
「私は人です。しかも今は、こちらで契約に基づいて働いています」
「王太子殿下が求めておられるのですよ」
「それが何か」
「何か、ですって?」
「殿下が望むことと、法的に可能なことは同義ではありません」
クラウスの口元がぴくりとした。
そこへ、応接室の扉が開く。
「そのとおりだ」
入ってきたのはルシアン様だった。隣にはガレス団長もいる。
クラウスは立ち上がって一礼したが、声音には不満が混ざっていた。
「公爵閣下。これは王宮内部の人事でして」
「違う。現在のレティシアは私の領地の契約職だ。少なくとも契約期間中はな」
「ですが、彼女は元々殿下の――」
「元婚約者であって、所有物ではない」
低い声だった。
冷えた刃みたいに、余計な感情を削ぎ落とした声。
クラウスは一瞬言葉に詰まり、それでも食い下がる。
「殿下は強くお望みです。王都では財務整理が滞り、各部署も困窮している」
「それは気の毒だな」
「でしたら」
「だからといって、無効な書面で人員を引き抜く理由にはならん」
ルシアン様は私の前に一枚の紙を置いた。
先日交わした雇用契約の写しだ。銀の糸がくっきりと真っ直ぐ走っている。
「必要なら王都へ正式照会を返す。手続きと補填条件を示せ。そうすれば検討の余地はある」
「補填条件、ですか」
「人を動かすには対価が要る。当然だろう」
「殿下にそのような……!」
「当然だろう」
同じ言葉を、今度は少しだけ強く。
クラウスは完全に押し黙った。
沈黙のあと、彼は私へもう一通の小さな封書を差し出した。
「……では、こちらを。個人的なお手紙です」
「個人的?」
「殿下から、あなたへ」
嫌な予感しかしない。
面談終了後、自室で封を切ると、達筆な文字が目に入った。
『レティシアへ。
君が北で意地を張っていると聞いた。そろそろ気は済んだだろう。王都は君がいないせいで無駄が増え、皆が困っている。戻って来い。
セレナも君との和解を望んでいる。
――エドガー』
私は便箋を見つめたまま、しばらく動かなかった。
怒りというより、虚脱に近い。ここまで見事に『自分が困っているから戻れ』しか書いていない手紙も珍しい。
ミアがお茶を運んできて、私の顔を見て察した。
「ろくでもなかったですか」
「ええ。びっくりするほど」
「燃やします?」
「一瞬魅力を感じましたが、証拠保全してからにします」
私は机に便箋を置いた。
深呼吸を一つしてから、新しい紙を引き寄せる。
「返事を書くんですか?」
「はい」
「優しく?」
「書面として正確に」
「つまり怖いやつですね」
「否定はしません」
ペン先にインクを含ませながら、私は思う。
王都はまだ、私が『便利に使える人間』のままだと思っている。
ならば、違うときちんと書面で示すまでだ。
どうせなら一字一句、誤解の余地なく。




