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第8話 ルシアン公爵は、褒める時だけ少し優しい

 王家の封書は、予想どおりろくでもない内容だった。


『中央商会との調整に関し、王都との事前協議を欠いた越権が見られる。経緯を報告されたし』


 要するに、勝手なことをするな、である。

 勝手な追補を黙認しておいて、こちらの是正には即座に反応するのだから腹立たしい。


「返信はどうします?」

 ミアが顔をしかめる。

「事実だけを淡々と。感情は不要です」

「お嬢さま、そういうときの淡々が一番怖いんですけど」

「褒め言葉ですか?」

「半分くらいは」


 私は事実関係を一枚にまとめた。

 停止していた納入、被害を受けた店舗数、追補の無効性、公爵の承認。ついでに『今後同種の改竄が確認された場合は公開入札へ移行する』と一文添える。温度は低いが、必要な圧はかける。


 昼すぎ、その報告書に署名をもらうため執務室へ向かうと、ルシアン様は珍しく椅子に深く腰を下ろしていた。

 机の上には未処理の書類が積まれているのに、ペンが止まっている。青い目の下の影が濃い。


「失礼いたします」

「入れ」

「報告書です。ご確認を」

「置いておけ」


 言われて机へ近づいたところで、私は足を止めた。

 彼の胸元から北へ伸びる黒い糸が、昨夜よりさらに細かく擦り切れている。応急処置のぶんはもうほとんど消えていた。


「……昨夜、お休みになりましたか」

「四時間」

「約束は六時間のはずでした」

「約束はしていない。善処すると言った」

「嫌な前例ですね」

「お前もなかなかに口が悪い」


 私は小さく息を吐いた。

 怒るより先に、どうにかしてこの人の負担を数字で可視化したくなる。見えないから我慢できてしまうのだ。見えたら、多分もっと早く止まる。


「少し失礼します」

「何を」

「壁関連の今週の決裁書類、全部見せてください」


 ルシアン様は怪訝そうにしながらも、数冊のファイルを寄こした。

 灰晶壁修繕、結界石補充、兵站、夜間巡回、緊急出動費。私はそれらをざっと見て、眉間を押さえる。


「……ひどい」

「どれがだ」

「全部です。書類の作りも、負担の偏りも」

「具体的に言え」

「壁の定常維持費が『臨時』扱いで別枠処理されています。だから本来、王家と国庫が定期補填すべき分まで、公爵家名義の立替になっている」

「それは以前から」

「以前からでも駄目です。臨時が常態化した時点で制度が壊れています」


 私はページをめくるたび、黒い糸がどこで増え、どこでルシアン様へ食い込むのかを追った。

 そして気づく。

 彼を削っているのは一つの呪いではない。細かな『例外措置』の積み重ねだ。誰かが後で補填するはずの負担を、何年も何十年も放置した結果、全部が公爵家へ雪だるま式に乗っている。


「ご自身が毎晩壁へ行くのも、そのせいですね」

「……契約上、当主の立会いが最も効率がいい」

「効率がいいのは今この瞬間だけです。長期的には最悪です」

「そう言い切るか」

「言い切ります。個人に依存した仕組みは必ず壊れます」


 前世の私は、そういう現場をいくつも見た。

 神担当者が一人いれば回る。だから増員も文書化も後回し。やがてその人間が倒れて、組織ごと終わる。

 ここではそのスケールが国家防衛というだけで、構図は同じだ。


 ルシアン様はしばらく黙り、それから低く問うた。


「お前は、なぜそこまで人が倒れることを嫌う」

「一度、倒れて死んだからです」

「……前世の話か」

「はい」


 私はペンを置いた。

 前世の話を誰かにきちんとするのは初めてだったかもしれない。


「大した仕事ではありませんでした。ただ、誰かがやらないと回らないと言われて、ずるずる引き受けて、気づいたら眠る時間もなくなっていました。頑張れば報われると思っていましたし、私が止まると周りが困るとも」

「実際、困ったのだろう」

「ええ。たぶん。でも、私も死にました」

「……」


 部屋は静かだった。

 ルシアン様は相槌を打たない。ただ、逃げずに聞いている。


「だから私は、同じ構図を見ると腹が立つんです。責任感のある人ほど、自分を削って埋めるから」

「私が責任感のある人間に見えるか」

「少なくとも、無責任な人ではありません」


 その瞬間、彼の表情がわずかに揺れた。

 驚いたようにも、困ったようにも見えた。


「……お前は時々、想定外の角度から殴ってくるな」

「殴ったつもりは」

「比喩だ」


 私は咳払いをして、持ってきた書類を差し出した。


「提案があります。壁関連の決裁を三分類に分けましょう。日次、週次、緊急です。日次分は局で仮承認まで回し、週次で公爵様確認、緊急だけ即時決裁。そうすれば毎晩すべてに立ち会わなくて済みます」

「現場が混乱する」

「最初だけです。代わりに、説明用の様式はこちらで作ります」

「……できるのか」

「できます」


 即答すると、ルシアン様は薄く目を細めた。

「そうやって断言されると、不思議とこちらも信じたくなる」

「では信じてください」

「命令か」

「提案です。ですがかなり強い」


 少しの沈黙のあと、彼は報告書へ署名した。

 そして私の方を見ずに、ぽつりと言う。


「昨日のことも、今の提案も。助かっている」

「……はい」

「褒められる頻度を増やせと言っただろう」

「覚えていらしたんですね」

「必要事項は忘れん」


 その一言に、何だか変な熱が頬へ上がった。

 前世でも今世でも、正当に感謝される経験が少なすぎて、こういうのに弱い。


 その日の夕方、契約局へ戻ると局員たちがざわついていた。

「公爵様に何か言われたのか」

「怒られたんじゃなくて?」

「違います。褒められました」

 そう言うと、全員が沈黙した。

 やがてミアが真顔で言う。

「雪、強くなりますかね」

「失礼ですね」


 笑いが起きる。

 こんなふうに笑える職場は、悪くない。


 けれどその夜、笑っていられない知らせが届いた。

 王都から監査官が出発したという。

 名目は中央商会の件の調査。

 実態は、おそらく――私の回収だ。

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