第64話 番外編 ハンナの談話:あの子はちゃんと食べるようになった
ハンナは、最初にレティシアを見たときのことをよく覚えている。
白くて細くて、きれいなのに妙に疲れた顔の娘だった。礼儀は立派だが、いかにも“食うより先に働く”タイプで、正直あまり長持ちしないと思った。
ああいう子は、真面目で、無理を無理と認めない。頑張れば何とかなると思って倒れる。パン屋を何十年もやっていれば、その手の顔は見れば分かる。
ところが、である。
今では朝に店へ来れば、まず局の連中のぶんまで数を聞く。
忙しい日でも最低限の休憩は確保するし、誰かが菓子パンだけで済ませようとすると、ちゃんと汁物か固いパンも買わせる。
自分のぶんも、昔みたいに小鳥の餌みたいな量ではない。スープに合う黒パンだの、昼に回せる干し果物入りの丸パンだの、働く人間の買い方をするようになった。
「人って変わるもんだねえ」
焼き上がったトレイを棚へ移しながら呟くと、店番の娘がくすりと笑った。
「北のごはんが合ったんじゃないですか?」
「それだけじゃないさ。ありゃ“安心して食べていい”って顔だよ」
食べることは、生きることの一番近くにある。
だからハンナは、腹の減り方やパンの選び方で、その人間の暮らし向きをだいたい読む。
最近のレティシアは、仕事帰りにときどきルシアン公爵と一緒に来る。
どちらも声は大きくない。派手に笑うわけでも、見せびらかすように寄り添うわけでもない。
ただ、明日の朝のぶんのパンを相談して、今日は風が強いからシチューに合うものがいいだの、会議が長引く日は切り分けやすいものがいいだのと、実に堅実な話をしていく。
「甘いのは一つでいいです」
「半分こかい?」
「……そうなりますね」
そう言ったレティシアの横で、ルシアン公爵がわずかに頷いたのを、ハンナは見逃さなかった。
幸せそうですよね、と娘がまた言う。
ハンナは鼻を鳴らす。
「そうさね。派手じゃないけど、ちゃんと腹の底が落ち着いた顔してる。大げさに笑う顔より、ちゃんと寝て、ちゃんと食べて、ちゃんと帰る顔のほうが、よほど信用できる」
明日もまた、局の連中は忙しいだろう。
誰かの困りごとが持ち込まれ、紙が増え、数字が並び、文句もひとつふたつ飛ぶに違いない。
それでも今のあの子たちなら、食べて、働いて、帰れる。
だからハンナは、朝一番のパンを少しだけ多めに焼いておくつもりだ。
あの子たちが、ちゃんと食べて、ちゃんと働いて、ちゃんと帰れるように。
北の寒さの中でも、明日のぶんのぬくもりが途切れないように。




