第6話 パンと暖炉と賃金表
小麦騒動の翌日、契約局の空気は少しだけ変わっていた。
誰もあからさまに褒めたりはしない。けれど、机の端に置かれる書類が整い、札の位置が勝手に戻されることもなくなった。ベルンハルトさんなど、朝一番で自ら色札を補充していた。人は役に立つ仕組みを前にすると、案外素直だ。
「今日は何からやる」
「賃金表の見直しです」
「また面倒なのを」
「面倒だから放置すると、後でもっと面倒になります」
私は各部署の賃金台帳を並べた。
鍛冶場、馬屋、雪かき班、見張り兵、雑役、配達。仕事内容に対して支払い基準がばらばらで、年齢や紹介元で妙に差がある。特に未成年の雑用係は『勉強代』の名目で安く使われがちだ。
前世で見た「若手だから」「経験になるから」という便利な言葉を思い出し、私は静かに眉を寄せた。
「トーマ、この一週間の働いた時間を教えて」
「えっ。お、俺ですか?」
「そうです」
「ええと、朝の鐘から昼前まで局で、昼飯のあと製本室に書類届けて、夕方は兵舎に……」
「つまり、半日どころではありませんね」
「でも、俺は手伝いだから」
「手伝いで一日四往復はしません」
私は記録用紙にさらさらと書き込み、年齢別最低保証と危険手当の簡易表を作った。
もちろん最終決裁は必要だが、まず基準がなければ交渉もできない。
昼過ぎには、ハンナさんが大きな籠を抱えて局へやってきた。
「昨日のお礼だよ。配給が止まらずに済んだ」
「ありがとうございます」
「それと、あんたの噂が市場で広がってる。『王都から来た冷たい令嬢』じゃなくて、『約束を守らせる令嬢』だってさ」
「それは、だいぶましですね」
「だいぶましどころじゃないよ」
焼きたての黒パンは、外が固くて中がふわりとしていた。北のパンらしく塩気が強く、温かい。局員たちが無言で頬張る様子を見ていると、配給一つ、賃金一つで街の空気は変わるのだと実感する。
午後は市場へ出て、暖房用炭の共同購入について商人たちと話をした。
雪国では、暖房は贅沢ではなく生存条件だ。個々の店がばらばらに少量購入するより、契約局が仲介してまとめた方が単価は下がる。代わりに、支払い遅延が出ないよう簡易台帳をつけ、一定の在庫を非常時に回す仕組みを作る。
「そんなこと、お役所がやるのか?」
炭屋の主人が目を丸くする。
「価格操作ではありません。あくまで透明化です」
「透明化」
「誰がどれだけ買い、どれだけ払うのかを見えるようにするだけです。不正の余地が減ります」
「それが一番嫌な奴らもいるんだがな」
「知っています」
知りすぎるほどに。
夕方、雪を踏みしめて邸へ戻ると、玄関ホールでルシアン様に呼び止められた。
「手を出せ」
「はい?」
言われるまま差し出した手に、彼は薄い革袋を置いた。
開けると、中には深い紺色の手袋が入っている。内側が柔らかい毛で張られ、指先だけ薄く作られた実用品だ。
「インクで冷えていた」
「……見ていらしたんですか」
「視察の帰りに、市場で見かけた」
つまり、炭屋とのやり取りも見ていたのだろう。
少し恥ずかしい気がしたけれど、手袋はとても暖かそうだった。
「ありがとうございます。ですが、こういうものは領費では?」
「私費だ」
「なおさら頂けません」
「働いてもらっている対価の一部だと思えばいい」
「それは契約にない福利厚生ですね」
「追加しておくか?」
さらりと言われて、私は言葉に詰まった。
こんな風に冗談めいた会話をする人だとは思っていなかったのだ。ルシアン様は相変わらず表情が少ないのに、たまに思わぬところで言葉が柔らかくなる。
「……では、ありがたく」
「使え」
「はい」
手袋を受け取ると、思ったよりずっと嬉しかった。
その夜、私は局の暖炉前で賃金表の清書をしていた。
ベルンハルトさんが湯気の立つマグを置いてくれる。
「ハンナの店の薄いスープだ。飲め」
「ありがとうございます」
「その……市場では助かった。共同購入の話も、あれなら冬を越せる店が増えるかもしれん」
「現場の人が協力してくださったからです」
「協力したくなる程度には、お前の仕事が筋が通ってるということだ」
ぶっきらぼうだけれど、彼なりの評価なのだろう。
私は素直に頭を下げた。
「明日、公爵へ賃金表の案を出します」
「反対されるぞ。金がないからな」
「知っています。でも基準が曖昧な方が、結局もっと高くつく」
「……その台詞、前にもどこかで聞いた気がする」
「多分、世界中のまともな経理が同じことを言っているんだと思います」
外では雪がやまない。
でも暖炉は暖かく、机の上にはまだ湯気のあるスープがある。前世で終電を逃しながらコンビニの冷たいおにぎりを食べていた頃に比べれば、ずいぶん人間らしい夜だった。
そして気づく。
ここへ来てまだ一週間も経っていないのに、この場所の温度が少しずつ好きになっていることに。
そのとき、窓の外に大きな影がよぎった。
視線を上げると、雪の中庭を一人で歩くルシアン様が見える。誰も伴わず、足早に北門の方へ向かっていた。
こんな時間に、どこへ。
胸元から北へ伸びる黒い糸が、月明かりの下でひどく濃く見えた。
私は手袋を握りしめたまま、嫌な予感に眉を寄せた。 迷った末に、私は書類を片づけてから外套を羽織った。
仕事外の行動だし、勝手に追いかけるのは本来なら褒められたことではない。けれど、あの糸の濃さを見て見ぬふりもできなかった。
中庭を抜け、北門へ向かう。
夜の空気は頬が痛いほど冷たかった。見張りの兵に事情を話すと、彼は困ったように眉を寄せる。
「公爵様は時々、壁の状態を直接見に行かれるんです。止めても聞かない」
「お一人で?」
「ええ。あまり、誰かを巻き込みたがられない」
その言い方に、私は小さく唇を引き結んだ。
北へ伸びる契約ほど、負担を一人で抱える癖がついているのだろう。
門の先、石段を上がった高台からは、街のさらに北にうっすらと光る長大な壁が見えた。灰晶壁。結界石の埋め込まれた防衛線だ。
その手前で、ルシアン様が片膝をついている。
「ルシアン様!」
思わず駆け寄ると、彼は顔を上げた。普段よりずっと血の気が薄い。肩で息をしているわけではないのに、ひどく苦しそうだった。
「なぜ来た」
「その台詞、こういうときに言う人はだいたい無理をしています」
「説得力のある返答だな」
いつものように皮肉を返す余裕はあるらしいが、声が掠れていた。
私は彼の手元にしゃがみ込む。指先が凍るように冷たい。胸元から伸びる黒い糸は、壁へ届く手前で強く引き絞られ、公爵本人の体温や睡眠を無理やり奪っているように見えた。
「壁の維持が、今夜も公爵様個人の負担で補われています」
「そのようだ」
「『そのようだ』では困ります」
「困っている」
淡々とした返事なのに、その一言だけで妙に胸が詰まった。
私は咄嗟に、昼間使った銀のペンを取り出した。
大元の契約は直せない。それでも、今この瞬間の摩耗だけなら少しは和らげられるかもしれない。手袋を外し、彼の上着の襟元に触れる。見えている黒い節を、糸の流れに逆らわないよう、そっとなぞった。
じわ、と微かな銀光が滲む。
完全に修復はできない。けれど、今夜ぶんの擦り切れを少しだけ巻き戻すことはできた。
ルシアン様が息を呑む。
「……何をした」
「応急処置です。明日には戻ります」
「それでも、さっきより楽だ」
「だから無茶をされるんでしょうね」
呆れ半分で言うと、彼は珍しく言い返さなかった。
ただ、まっすぐ私を見て、低く告げる。
「レティシア。お前は思っていたより、ずっと危険なところへ手を伸ばす」
「契約局ですので」
「それは便利な言い訳だな」
「自覚はあります」
夜風が二人の間を抜けた。
壁の向こうから、低い唸りのような音が聞こえる。雪の嵐か、結界の軋みか。いずれにせよ、この北はずっと限界の上で保ってきたのだろう。
「戻りましょう」
私は手袋をはめ直しながら言った。
「今夜の分の無理は、これでおしまいです」
「命令か」
「提案です。ですが拒否権はあまりありません」
ルシアン様は小さく息を吐き、ゆっくり立ち上がった。
その横顔は相変わらず冷たく整っているのに、どこか少しだけ、孤独ではなく見えた。
そして私は思う。
この人が褒めるときだけ少し優しいのではなく、優しさを出すのが下手なだけなのかもしれない、と。




