第5話 最初の残業は断固としてお断りします
契約局改革の第一歩は、魔法でも公爵命令でもなく、壁に紙を貼ることから始まった。
「……これは何だ」
「業務一覧表です」
朝一番、私は局の中央壁面に大きな板を立て、そこへ札を並べた。
赤は緊急、青は今週中、白は確認待ち、黒は王都照会中。書類を抱えたまま右往左往するより、まず仕事を見える形にした方が早い。前世で何度も導入しては、上司の思いつきで三日で消えた仕組みだが、現場の人間が使うとだいたい役に立つ。
「この札を動かしていけば、誰が何を抱えているか一目で分かります。重複作業も減りますし、急ぎ案件も埋もれません」
「そんな子どもの遊びみたいなもので……」
「遊びなら徹夜しなくて済みますよ」
「それは魅力的だな」
「でしょう」
ベルンハルトさんが不承不承ながら頷いたので、周囲の視線も少し和らいだ。
加えて私は、机の上の書類を『本日処理するもの』『返答待ち』『保管』に分け、昼と夕方に十五分ずつ照合時間を設けた。王都ではそれすら贅沢だったけれど、ここではやる。やらないと人が摩耗する。
午前中いっぱいで、局内の動きは少しだけ静かになった。
誰かが同じ契約書を三回探しに行くこともなくなり、トーマのような雑用少年が怒鳴られて走らされる回数も減る。小さな改善だが、効果は大きい。
ただ、改善を嫌う人間はどこにでもいる。
午後、街のパン屋ハンナさんが真っ青な顔で局へ飛び込んできた。
「助けておくれ! 小麦が来ないんだよ! 明日の配給パンが焼けない!」
「納入元は?」
「中央商会さ。『未払いがあるから止める』って言われた。でもこっちは前払いのはずなんだ!」
私は帳票棚から関連書類を引き抜いた。
契約糸は嫌な色をしている。前払い契約に見せかけて、実際には『王都の承認印がない月は納入義務を停止できる』という追記が入っていた。しかも、その承認印申請が意図的に止められている。
「悪質ですね」
「今すぐ商会へ行こう!」
局員の一人が立ち上がる。けれど窓の外を見ると、もう日が傾きかけていた。雪も強い。
「今日は行きません」
「は?」
「閉店間際に怒鳴り込んでも、相手は証拠を隠します。こちらの手札も足りない」
「でもパンが――」
「だからこそ、今夜は別の手を打ちます」
私はハンナさんに向き直った。
「店の在庫で、明日の朝に何個焼けますか」
「配給分には足りない。半分も無理だよ」
「他の店から回せる粉は」
「製麺所なら少し持ってるかもしれないけど、あそこもぎりぎりで……」
「では局から斡旋状を出します。代替調達と、後日精算の仮契約を私が起こします」
「そんなことできるのかい?」
「公爵様の事前承認を取れれば」
幸い、ルシアン様はその件を聞いてすぐ許可を出した。
「必要なら軍の備蓄を一部回す。ただし配給計画は明朝までに出せ」
「承知しました」
局へ戻ると、もう鐘が鳴る時間だった。
ベルンハルトさんが顔をしかめる。
「ここからが本番だろう。帰るつもりか」
「はい」
「今この状況で?」
「だからです」
私は板の前に立ち、札を動かした。
緊急の赤札は三枚。代替調達、仮契約書作成、未払い原因の追跡。今夜やるべきなのは、準備と情報整理まで。深夜に全員を残しても、判断が鈍ってミスが増えるだけだ。
「本日の残業申請を出してください。必要人員は私、ベルンハルトさん、トーマの三名で十分です」
「三名?」
「他の方は明朝七時に。休んだ方が早いです」
「そんな理屈が通るか」
「通します。雇用契約に基づいて」
局員たちがざわつく。
私は少しだけ声を強めた。
「疲れた頭で契約書を書けば、明日また別の穴が開きます。今日は最低限に絞ります。明日必ず片をつけるので、みなさんは帰って寝てください」
言い切ると、部屋が静まった。
最初に動いたのは、意外にもベルンハルトさんだった。
「……わかった。責任は」
「私が持ちます」
「いや、補佐官一人に持たせるのも変だな。局の責任として処理しよう」
そう言って、彼は残る書類を自分の机へ運んだ。
他の局員たちは半信半疑のまま帰っていく。まるで『残業しなくていい』という事実に怯えているみたいだった。少しわかる。王宮の私も最初はそうだった。
その夜、三人で必要な文書だけ整え、代替調達先に走る伝令を書き、朝一番で商会へ突きつける証拠を揃えた。
帰り際、トーマが目をこすりながら言う。
「お嬢さま、ほんとに帰るんですね……」
「帰りますよ。あなたも」
「でも、仕事って終わるまでやるもんじゃ」
「終わるように分けてやるものです」
「……かっこいい」
褒め言葉として受け取っておく。
翌朝、私たちは予定どおり動いた。
製麺所から粉を融通してもらう仮契約を結び、軍の備蓄から必要最小限を借り受ける手配をし、その足で中央商会へ向かう。
店の応接室で、ふくよかな支配人は最初こそ余裕の笑みを浮かべていた。
「未払いがある以上、こちらにも都合がありましてね」
「未払いではありません。承認印の申請を、そちらの関連部署が意図的に止めています」
「何の証拠が」
「こちらです」
私は書類を広げた。申請控え、輸送伝票、未提出の承認書式、そして契約条文の写し。
さらに銀のペン先で追記部分を示すと、黒く濁った糸が微かに現れる。支配人の顔色が変わった。
「それは……」
「この追記、商会側の一方的な追補ですね。公爵領側の合意がありません」
「し、しかし慣例で」
「慣例は契約を上書きしません」
淡々と告げると、支配人は額に汗を浮かべた。
最終的に彼は、今日の分の小麦納入と違約金相当の値引きを認めた。王都の後ろ盾があるからと好き放題していたのだろうが、現場で証拠を突きつけられると弱いらしい。
局へ戻る頃には、ハンナさんの店から焼きたてのパンの匂いが流れてきた。
配給用の丸パンがずらりと並んでいるのを見て、私はようやく肩の力を抜く。
「やれやれ、何とかなりましたね」
「……何とかしたのはお前だ」
背後から声がして振り向くと、ルシアン様が立っていた。
朝から視察に出ていたはずなのに、いつの間にか戻っていたらしい。
「昨夜、全員を残さなかったそうだな」
「必要な分だけ残しました」
「それで間に合った」
「ええ。むしろ余計な混乱が減ったかと」
「普通は逆を考える」
「普通は疲れた人間を過信しすぎなんです」
言ってから失礼だったかしら、と思ったが、ルシアン様は怒らなかった。
むしろ、じっと私を見てから一言だけ言う。
「……悪くない」
短い。
でも、不思議なくらい胸に残る言葉だった。




