第4話 私の魔法は、切れた約束を縫い直す
その夜、北棟の制限書庫は吐く息が白かった。
公爵邸の中でも特に古い棟らしく、石壁は厚く、窓は小さい。ランプの灯りが棚の影を長く落とし、革装丁の帳面が無数に並んでいる。書庫というより、時間そのものを積み上げた倉庫だ。
私が案内されたとき、ルシアン様は長机の前で数枚の書類を広げていた。昼間の軍服から黒い上着に替えているが、疲労の色は隠れていない。
「座れ」
「失礼します」
向かいに腰を下ろすと、ルシアン様はまず一枚の紙を差し出した。
今日の昼、私が要求した雇用条件の書面だった。
『レティシア・ファルケンは、ノルドヴァルト公爵領契約局の補佐官として一年間勤務する。職務は契約監査、帳簿照合、対外交渉補助に限定する。緊急動員には局長または公爵の明示命令を要し、超過勤務には代休または手当を支給する』
思わず、私は二度見した。
「……本当に書面化してくださるとは」
「約束は口頭より文書の方がいいのだろう」
「はい。非常に」
「では署名しろ」
私は銀のペンを取り出して、内容を改めて読み込んだ。
抜けや曖昧な表現はない。責任の所在も明確。前世の私が上司に見せたら泣いて喜ぶレベルだ。
「素晴らしい雇用契約です」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めています」
私が署名すると、羊皮紙の上に細い銀の糸が浮かび、するりと両者の名前を結んだ。健全な契約は見ていて気持ちがいい。まっすぐで、温度がある。
ルシアン様の視線がそれを追う。
「本当に見えるのか」
「見えます。契約の綴じ目のようなものが」
「私には見えん」
「普通は見えないそうです。私も、他人から見ればただ紙を読んでいるだけに見えるようですね」
私は少し迷ってから、自分のことを話した。
前世の記憶を持っていること。今世では魔力が少ない代わりに、契約書に宿る魔力の流れが見えること。改竄や抜け落ちた条文を『本来の意図』に沿って補修できること。ただし、存在しない約束を捏造したり、双方の同意を無視して上書きしたりはできないこと。
「要するに、都合のいい嘘は作れないのです」
「便利なようで不便だな」
「その代わり、悪用はされにくいです」
前世で契約書に慣れすぎた人間の感想としては、むしろその制約は健全だった。条文は人を守るためにあるのであって、騙すためにあるべきではない。
ルシアン様は顎に手を当て、しばらく考え込んだあと、低く言った。
「昼間、お前は『紙だけではなく、人まで破れかけている』と言ったな」
「はい」
「私に何が見えた」
「率直に申し上げても?」
「構わん」
「非常に大きくて、古くて、痛そうな契約です。胸元から北へ伸びていました」
ランプの火が揺れた。
ルシアン様の表情が一瞬だけ硬くなる。
「……灰晶壁か」
「やはり」
「ノルドヴァルト公爵家は、建国以来ずっと北壁の維持契約を担っている。兵士の指揮、結界の管理、周辺領の避難計画。代替の利かない仕事だ」
「その負担が、契約どおりでない可能性があります」
「理由は」
「傷み方が異常です。通常の長期契約は磨耗しても、あそこまで黒くはならない。誰かが無理やり継ぎ足したか、本来別の者が負担すべきものまで、一つの署名に押し込んだ形です」
私の言葉に、ルシアン様はゆっくりと息を吐いた。
否定しないところを見ると、思い当たる節はあるのだろう。
「先代――父も同じことを疑っていた」
「では」
「だが証拠が足りなかった。壁の契約はあまりに古く、王家と公爵家以外には閲覧が制限されている。王都へ問い合わせても、必要な写しは届かない」
「それは怪しいですね」
「怪しいどころの話ではない」
彼は立ち上がり、書庫の奥へ歩いた。
重い鍵で扉を開け、その先の棚から一冊の分厚い帳面と、黒い筒を持って戻ってくる。
「これが公爵家保管分の写本だ。原本は王都の宝物庫にある。写しだけでは限界があるが、何もしないよりはいい」
「拝見します」
筒から取り出された羊皮紙は、普通の契約書とは比べ物にならないほど大きかった。古い文字でぎっしり埋まっていて、端には建国王の紋章がある。
視線を落とした瞬間、私は息を呑んだ。
糸、ではなかった。
縄に近い。幾重にも撚られた銀の束が、ページの奥から浮かび上がり、その一部は真っ黒に煤けている。ところどころに棘のような節があり、読むだけで喉が痛くなりそうだった。
「……これは」
「読めるか」
「全部ではありません。でも、異物があります」
「どこだ」
「このあたりです」
私は端の条文を指した。
本文とは違う筆跡、違う魔力。後から追加された一行が、他の糸に食い込むように結びついている。
『緊急時における補填不能分は、公爵家が先行して負担する』
それ自体はあり得る文だ。壁を守るために、現場が先に動くのは理解できる。
問題は、その次に続くはずの文言が欠けていることだった。
「本来なら『後日王家が精算する』か、『国庫より優先補填する』が続くはずです」
「なぜわかる」
「継ぎ方が片方だけだからです。負担の入口はあるのに、出口がない」
「……」
ルシアン様の目が、氷のように冷えた。
「この三十年、北壁は毎年のように赤字だった。補給は遅れ、兵は足りず、不足分は公爵家の名義で立て替えてきた。父も、私も」
「それは『先行負担』ではなく『恒久負担』です」
「そうだ」
静かな肯定だった。
けれど、その一言の重さに私は言葉を失った。
建国以来の防衛契約。
代々の公爵が個人の責任として引き受けてきたのだとしたら、この領地が疲弊するのは当然だ。帳簿の赤字も、公爵の不眠も、局員の消耗も、ぜんぶ一本の壊れた約束につながっている。
「直せそうか」
問われて、私は正直に答えた。
「写本だけでは難しいです。原文の意図を確定できません」
「原本が必要か」
「はい。でも写本からでも、周辺契約を洗えば証拠の輪郭は見えます。補給台帳、軍需契約、徴税配分、過去の王命書。全部つながっているはずです」
「時間は」
「短いほど良いです。これ、放置すると誰かが倒れます」
「誰か、では済まんかもしれん」
私とルシアン様は、同時に無言になった。
外で風が鳴る。
北の夜は深く、冷たい。
「わかりました」
私は帳面を閉じた。
「やりましょう。条件付きで」
「まだ条件を増やすのか」
「当然です」
ルシアン様が眉を上げる。
私は指を一本立てた。
「まず、資料へのアクセスを全面的にください。次に、契約局の人員配置を見直したい。最後に、公爵様ご自身が倒れないよう、睡眠時間を最低四時間から六時間に増やしてください」
「最後の条件だけ、妙に個人的だな」
「契約の相手が倒れると修復計画そのものが破綻するからです」
「合理的な理由に聞こえる」
「合理的です」
しばらくして、ルシアン様は小さく息を吐いた。
「……善処する」
「善処、では困ります」
「お前は本当に容赦がないな」
「契約局ですので」
今度こそ、彼ははっきりと少しだけ笑った。
凍った湖面に、ほんの一筋だけひびが入るみたいな笑みだった。
その夜、私は写本を抱えて部屋へ戻った。
この領地の根っこにある問題は大きい。王都でやっていたような火消しでは済まない。
けれど同時に、久しぶりに仕事らしい仕事をしている感覚もあった。
壊れた約束を、きちんと直す。
それはたぶん、私が今世で一番やりたいことだった。




