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第3話 誰も触れない赤字帳簿と、眠らない公爵

 翌朝、私は日の出と同時に契約局へ向かった。


 王都にいた頃は、朝一番の仕事といえば王太子の機嫌確認と、前日に増えた無茶振りの把握だった。こちらではまず暖炉に火が入り、雪を払った靴音が廊下に響き、誰もが黙って自分の机につく。静かで、合理的で、たいへん結構である。


 ただし机の上は結構ではなかった。


「……これは」

「見てのとおりだ」


 ベルンハルトさんが、私の机へ三冊の分厚い帳簿を置いた。

 小麦の納入契約、炭の供給契約、鉱夫への冬季危険手当支給台帳。どれも数字が妙に噛み合わない。小麦は届いている数より請求が多く、炭は逆に納入だけされて支払いが止まっている。危険手当の欄には、本来払うべき名前の横に、見慣れない追加記号が並んでいた。


「この記号は?」

「王都式の省略記号らしいが、問い合わせても説明が来ない。たぶん『保留』だ」

「保留の理由は」

「わからん」

「便利な言葉ですね」

「便利すぎて嫌になる」


 私はページをめくりながら、目の奥で糸の流れを追った。

 帳簿に残る契約糸は、数字よりずっと正直だ。小麦の契約には、後から無理やり継ぎ足した黒い節がある。炭の支払いには、本来なら貴族院の承認印が必要なはずなのに、違う魔力の痕跡が混じっている。危険手当はもっと悪質で、労働契約の一部が意図的にぼかされていた。


「鉱山の手当は、いつから滞っているんですか」

「二か月前だ。死人が出る前に何とかしたいが、王都からは予算が来ん」

「契約書の原本は?」

「倉庫の二段目、灰色の箱」


 取り出して確認すると、やはり糸が裂けていた。

 本来は『冬季危険手当を含む』と明記されているのに、その部分だけが黒く霞んでいる。意図的な改竄だ。ここまで露骨だと、怒りより先に呆れる。


 昼前、局員の一人が慌てて駆け込んできた。


「ベルンハルト局補佐! 北鉱区から使いが! 鉱夫たちが持ち場を離れたそうです!」

「やはりか……」

「何があったんです?」

「危険手当が出ないなら、命を張る理由がないと。当然だ」


 当然である。

 前世でも「やりがい」で危険な仕事を回そうとする上司はいたが、結局のところ人は契約と対価で働くのだ。


「現地へ行きましょう」

「お前が?」

「問題が契約なら、見た方が早いです」


 ベルンハルトさんは一瞬迷ったようだったが、やがて頷いた。

 外へ出ると、雪は細かく舞っていた。鉱区は街外れの斜面にあり、黒い坑道の入口の前に十数人の男たちが集まっている。顔は険しく、しかし暴れているわけではない。ただ、これ以上搾取されないと腹を括った人たちの顔だった。


「俺たちは約束を破られた!」

「二度も崩落したんだぞ!」

「家には子どもがいるんだ!」


 もっともである。実にもっともだ。


 ベルンハルトさんが事情を説明しようとしたが、空気は悪い。

 そこで私は一歩前に出た。


「契約書を確認させてください」

「あんた誰だ」

「今日から契約局で働く者です。約束が本当に破られているなら、こちらに直す責任があります」


 年かさの鉱夫が、疑わしげに私を見た。

 貴族の娘が雪の中で何を言うのか、という顔である。わかる。でも慣れている。


 私は原本を広げ、深く息を吸った。

 銀のペン先で、黒く濁った一文に触れる。


 私の視界の奥で、裂けた糸が浮かび上がった。

 誰かが後から、支給条件の条文を曖昧にした痕。けれど完全には切れていない。まだ「本来の約束」が残っている。


(直せる)


 ペン先から、淡い銀の光が滲んだ。

 羊皮紙の上をなぞるように走らせると、黒く焦げていた糸が少しずつ色を取り戻す。ざわめきが広がった。


「お、おい、紙が……」

「光って……」


 最後に自分の名を、補修執行者として余白に記す。

 すると契約書全体がふっと温かくなり、鉱夫たちの持つ労働証にも同じ光が走った。


「……危険手当の支給条項を、原文どおりに修復しました」

「修復?」

「支払い義務は残っています。今日の分から遡って計上できます。局で処理を急ぎますので、名簿確認にご協力ください」


 沈黙のあと、一人の鉱夫が口を開いた。


「本当に、出るのか」

「契約が生きている限りは」

「……あんた、嘘ついてねえな」

「嘘は後で面倒になりますので」


 その一言で、場に小さな笑いが起きた。

 ぴりついていた空気が、ほんの少しだけゆるむ。


 局へ戻ると、待っていたのは山のような実務だった。

 でもこの山は嫌いじゃない。支払い先が明確で、やるべきことがはっきりしているからだ。


 私が名簿を整理し、ベルンハルトさんが予算枠を引き直し、他の局員が伝票を走らせる。気づけば日が傾きかけていた。

 そのとき、扉が開いた。


「鉱区の騒ぎは収まったか」


 ルシアン様だった。

 私は立ち上がって報告する。


「危険手当の条文が改竄されていましたので、原本を修復しました。未払い分を含めて本日中に計上を始めます」

「……修復?」


 彼の視線が、机の上の契約書に落ちる。

 まだ微かに銀の光が残っていた。隠しようがない。


「お前、何をした」

「その前に、一つ確認してもよろしいでしょうか」

「内容による」

「ルシアン様は、昨夜お眠りになりましたか」

「関係あるのか」

「あります」


 私がそう答えると、部屋の空気が張りつめた。

 ベルンハルトさんが、わずかに顔をしかめる。公爵に睡眠を問いただす部下など普通はいない。


 けれどルシアン様は怒らなかった。

 代わりに、少しだけ目を細めて言う。


「三時間ほど」

「足りませんね」

「この時期はそんなものだ」

「そういう顔ではありません」


 思ったより、ずっと危うい。

 昨日見た黒い糸は気のせいではなかった。公爵の肩越しに、北へ伸びる契約の束が今もじりじりと彼を削っているのが見える。


 私は机の上の契約書に手を置いた。


「私の魔法は、破られかけた約束を縫い直すものです。だから数字の不整合も、労働条件の異常も、ある程度なら見えます」

「魔法、と言ったな」

「正確には【契約修復】。珍しいので、あまり知られていません」


 ルシアン様は黙って私を見る。

 まるでその言葉が本物かどうか測るように。


「今夜、お時間をいただけますか」

「何のために」

「この領地で何が破れているのか、きちんと確認したいのです」


 外では雪が強くなっていた。

 暖炉の火がぱちりと鳴る。


 ルシアン様は少しの間だけ沈黙し、やがて低く言った。


「今夜、北棟の制限書庫へ来い。そこで話を聞く」

「承知しました」

「ただし、期待はするな。ここには、見れば楽になる類の書類は一つもない」

「それは王宮で慣れています」


 彼の口元が、ごくかすかに歪んだ。

 初めて見た、小さな小さな苦笑だった。


 その夜、私は銀のペンを握りしめながら思った。

 この領地の問題は、赤字帳簿や未払い手当だけではない。

 本当に破れているのは、もっと大きくて古い約束だ。

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