第2話 左遷先は「呪い公爵」の領地でした
王都を発って七日目、窓の外はすっかり白い世界になった。
北へ向かうにつれて街は小さくなり、道は硬く凍り、馬の吐く息まで白く濃くなる。休憩所で出てくるスープの塩気も、王都よりずっと強かった。寒さに対抗するためだろう。前世ではコンビニのおにぎりで残業を乗り切っていたことを思えば、温かい食事が定刻で出るだけでも人権が高い。
ただし、同乗している文官二人の会話が気まずくないとは言わない。
「ノルドヴァルト公爵領はですね……その……」
「ええ、聞いています。極寒、財政難、王都から遠い、そして公爵様が怖い」
「最後のが一番重要です」
向かいに座った中年文官が、神妙に頷いた。
彼は私を送り届けたらすぐ王都へ引き返す役目らしい。いまの彼の顔には、崖の上まで荷物を運ぶ人のような達成感と罪悪感が混ざっている。
「先代公爵夫妻が相次いで亡くなられてから、現公爵ルシアン様はまだお若いのに灰晶壁の防衛と領政を一手に担っておられます。非常に有能ではありますが、とにかく近寄りがたい。笑わない。眠らない。容赦がない。三年前に赴任した契約局長も二か月で辞表を」
「なるほど」
「その前の局長は一か月」
「改善傾向ではありませんね」
「ええ」
「ちなみに定時はありますか」
「……聞いたことがありません」
私は窓の外を見た。
白い。ひたすら白い。空も雪も遠くの森も、ぜんぶ同じ冷たい色をしている。
でも不思議と、心は重くなかった。王都へ残るより、この白さの方がよほどましだと思えたからだ。
昼過ぎ、ようやくフェルグラードの街へ着いた。
高い城壁と、灰色の石でできた街並み。屋根から下がる氷柱。煙突から立ちのぼる煙。王都のような華やかさはないけれど、目に入るものすべてが実用的で、雪の中で生きるために整えられているのがわかる。
「失礼ながら、レティシア様のようなお貴族様には厳しい場所かと……」
「私は暖房と椅子と紙があればだいたい働けます」
「たくましいですね」
自分でもそう思う。
公爵邸兼政庁は、街の北側、小高い丘の上にあった。
装飾の少ない黒石の建物で、威圧感がすごい。歓迎の花も絨毯もない。その代わり、玄関脇には雪かき用の道具が整然と並び、兵士たちが黙々と出入りしていた。雰囲気としては「舞踏会の会場」より「大規模な現場事務所」に近い。好きだ。
案内された先は、応接室ではなく執務室だった。
扉を開けた瞬間、冷えたインクと紙の匂いがした。
大きな机の向こうに座る男が、顔を上げる。
銀に近い灰色の髪、凍った湖のような青い目。整った顔立ちなのに、疲労の影が濃い。たぶん黙って立っているだけで、王都の令嬢たちは悲鳴を上げるだろう。恐ろしくて、ではなく、美形すぎて。
彼がルシアン・ノルドヴァルト公爵だと、紹介されるまでもなくわかった。
「レティシア・ファルケン伯爵令嬢」
「はい」
「王都からの出向辞令は確認した。契約局に人手が足りていないのは事実だが、貴族のご令嬢が長く務まる仕事ではない。辞退するなら今のうちだ」
低く落ち着いた声だった。
威圧しているのではない。ただ、余計な言葉を省いているだけだとわかる。
「辞退いたしません」
「……理由を聞こう」
「辞令に職務が明記され、給金が支払われ、住居が提供されるからです」
「それだけか」
「それ以上必要でしょうか」
一瞬、部屋がしんと静まった。
控えていた側近の何人かが、息を止めた気配がする。失言だっただろうかと考えたが、公爵は怒るどころか、わずかに目を細めた。
「王都ではどういう扱いを受けていた」
「便利な備品です」
「……率直だな」
「誤解の余地が少ない表現を選びました」
公爵の口元が、ほんの僅かだけ動いた。笑った、と言うには短すぎるが、少なくとも不快ではなさそうだ。
「契約局に入る前に、条件はあるか」
「三つございます」
「言え」
「職務範囲を明文化してください。次に、権限の所在を曖昧にしないこと。最後に、常態化した無償残業には応じません」
「……最後のは、貴族令嬢が言う言葉としては珍しい」
「労働者が疲弊すると組織は壊れますので」
前世の会社でも今世の王宮でも、嫌というほど見た。
目先の都合で人を燃やす職場は、だいたいあとで爆発する。
ルシアン様は椅子の背にもたれ、しばらく私を見ていた。
値踏みというより、何かを確かめるような視線だった。
「いいだろう。職務範囲は本日中に書面化する。権限は私の名で与える。残業については――緊急時を除き、申告と補填を条件にする」
「ありがとうございます」
「まだ礼を言う段階ではない。仕事ができればの話だ」
「承知しております」
形式的な面談が終わり、私は契約局へ案内された。
政庁の西棟、暖炉の火が弱い、紙の山に埋もれた部屋だった。部屋、というより倉庫に机を押し込んだような空間で、棚からは帳簿がはみ出し、床にも木箱が積まれている。窓際の机には、目の下に濃い隈を作った男性が突っ伏していた。
「ベルンハルト。起きろ、新任だ」
案内役に肩を揺すられて、男性が顔を上げる。
五十代半ばくらい、神経質そうな眉をした人だった。
「……王都から?」
「レティシア・ファルケンと申します。本日付で配属されました」
「伯爵令嬢が? ここに?」
「はい」
「可哀想に」
第一声がそれだった。
私は少しだけ親近感を覚えた。現場の人間は正直でいい。
ベルンハルトさんは契約局の実質的なまとめ役らしい。彼に簡単な案内を受けながら部屋を見渡すと、異様なことに気づく。
紙の上に、糸が見えた。
もちろん本物の糸ではない。私にしか見えない、魔力を帯びた細い線。契約書や誓約書に宿る「約束の痕跡」だ。私の【契約修復】は、生まれつき魔力量が少ない代わりに、こうした見えない綴じ目を感知することで成立する。
そしてこの部屋にある糸は、どれもひどく傷んでいた。
綺麗な銀色であるはずの線が、ところどころ黒く焦げ、裂け、無理やり結び直されている。
「……ひどい」
「何か言ったか」
「いえ。帳簿の分類がひどいですね、と」
半分は本当だ。
ただ、分類どころの話ではない。これは事務処理の乱れではなく、契約そのものが傷んでいる状態だ。
「今年は特にひどい。王都から来る補給契約、徴税関係、壁の修繕費、どれも辻褄が合わん。問い合わせても返事は遅いし、上からは急げとしか言われん」
「睡眠時間は」
「平均すると四時間くらいか」
「短いですね」
「ここでは長い方だ」
私は静かに息を吐いた。
嫌な予感がする。とてもする。
でも逃げる気にはならない。むしろ、目の前の問題がはっきり形を取っているぶん、王都よりずっと対処しやすそうだった。
その日の夕方、仮の個室へ通される前に、私はもう一度廊下の角でルシアン様とすれ違った。
書類を抱えたままの彼の周囲にも、糸が見える。
他のものとは比べ物にならないほど太く、複雑で、そして痛々しい黒い糸。
それは彼の胸元から北の方角へ伸び、遠く、灰晶壁のある場所につながっていた。
契約の糸が人を縛ることは珍しくない。
だが、あれは縛るというより――削っている。
思わず足を止めた私に、ルシアン様が怪訝そうに振り返る。
「どうした」
「いえ……」
言葉を選ぶ。
初日から「公爵様、あなたを縛る契約がひどく破損しています」などと告げれば、さすがに不審がられるだろう。
「この領地、かなり無理をしていますね」
「今さらな話だ」
「そうですね。でも」
私は彼の胸元に視線を向け、それから逸らした。
「……紙だけじゃなくて、人まで破れかけているのは、あまり良くありません」
ルシアン様は何も言わなかった。
けれどその青い瞳が、一瞬だけ鋭く細まったのを、私は見逃さなかった。
やはり、この領地はただ忙しいだけではない。
ひどく破れた契約みたいだ。




