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第1話 婚約破棄された瞬間、私が思ったのは「これで定時で帰れる」でした

「レティシア・ファルケン。君との婚約を、ここで破棄する」


 王宮の大広間に、エドガー王太子のよく通る声が響いた。

 秋の夜会。磨き上げられた床にシャンデリアの光が落ち、色とりどりのドレスが揺れている。そんな華やかな場所で、私はいつものように背筋を伸ばし、王太子の三歩後ろに立っていた。


 彼の隣には、栗色の髪をゆるく結い上げた可憐な令嬢がいる。セレナ・コルテス男爵令嬢。最近になって「癒やしの聖女候補」ともてはやされ、王都の噂話の中心にいる人だ。


「レティシアは堅苦しすぎる。笑わない、可愛げがない、何を言っても『その予算では無理です』『その手続きは違法です』と水を差すばかりだ。私はもっと、民に寄り添える温かな妃を望む」


 会場のあちこちで、扇子の裏から小さな息が漏れた。

 まあ、そうなるわよね、と私は妙に冷静だった。


 ――悲しい、とは思わなかった。

 ――悔しい、とも少し違う。

 真っ先に脳裏をよぎったのは、たった一つ。


(……明日から、あの決裁の山を見なくていいのね)


 私は十歳のとき、前世の記憶を思い出した。

 都内の小さな契約管理会社で働いて、毎日終電で帰り、ついにはデスクで意識を失ったまま死んだ、冴えない会社員としての記憶だ。

 異世界に転生したところで待遇が劇的に改善するわけではないらしい。貴族令嬢として生まれた私は、王太子の婚約者に選ばれた瞬間から、今度は王宮で働くことになった。刺繍も礼法も外交も覚えたけれど、現実にはそれよりずっと多くの時間を、予算案の修正、領地からの陳情整理、王太子の思いつき政策の火消しに費やしてきた。


 花火を全戸に配ろう。

 街路樹を全部銀に塗ろう。

 税率は下げたいけれど支出は増やしたい。

 夢と理想は結構だが、その皺寄せが全部こちらに来るのは御免である。


「何か言いたいことはないのか」


 エドガー殿下が、私が泣き崩れるのを待つような顔で言った。

 私はカーテシーをした。


「謹んで、お受けいたします」


 場が、しんと静まる。

 むしろこれで終わると思っていなかったのだろうか。


「……ずいぶんあっさりしているな」

「王命に逆らうつもりはございませんので」

「王命ではない。これは私の意思だ」

「そうでしたか。では、なおのこと結構です」


 私は顔を上げずに答えた。

 後ろで誰かが「怖い」と囁く。失礼な。いま私は人生でいちばん穏やかな気持ちなのに。


 するとセレナ嬢が、おずおずと一歩出た。


「あの、レティシア様。わたくし、その……」

「お気になさらず。殿下のお心がどちらに向くかは、私の管理範囲外ですので」

「か、管理……?」


 セレナ嬢は目を丸くした。エドガー殿下は露骨に眉をしかめる。


「最後までそうやって、人の心を数字や規則でしか見ない」

「数字と規則で守れるものもあります。たとえば国家予算とか」

「レティシア!」


 ぴしゃりと声が飛ぶ。

 私ははい、と素直に頷いた。どうせもう婚約者ではない。ここで言い返して評価を落とすより、さっさと退場した方が建設的だ。


「失礼いたします」


 もう一度礼をして、私は踵を返した。

 背中に突き刺さる視線は感じたけれど、足取りは驚くほど軽かった。

 夜会のざわめきを抜け、廊下へ出て、人気のないテラスにたどり着いたところで、ようやく長い息を吐く。


「終わった……」


 冷たい夜風が、火照った頬を撫でた。

 泣く気配はなかった。代わりに湧き上がってきたのは、解放感と、ほんの少しの空腹だ。緊張が解けると、お腹がすくのは世の常である。


 しかし、解放にはたいてい後処理がつきものだ。

 案の定、その夜のうちに実家へ戻され、父に書斎へ呼びつけられた。


「この恥晒しが!」


 入ってすぐ、重たい書類束が机に叩きつけられた。

 ファルケン伯爵――私の父は、怒りで顔を真っ赤にしている。


「王太子妃の座から転げ落ちるとは何事だ! 何年、家がどれだけ投資したと思っている!」

「投資、ですか」

「そうだ。教育費も衣装代も人脈も、すべてお前に注ぎ込んだ。その結果が婚約破棄だと? 回収不能にもほどがある!」


 娘に向かって使う言葉としてはたいへん正直だ。

 でも、だからこそ私も冷静でいられる。


「申し訳ございません」

「申し訳ないで済むものか。修道院へ行け。二度と王都へ出てくるな。王家の怒りがこちらへ向かぬうちに、お前を処分するしかあるまい」


 処分。ずいぶんな物言いだ。

 だが、私はそれにもあまり動揺しなかった。修道院という名の無料労働施設に送られるのはごめんだけれど、父がこう言うだろうことも予想していたからだ。


「畏まりました」


 短く答えて部屋を出る。

 もちろん、畏まってなどいない。


 自室に戻ると、私は前々から準備していた旅行鞄を取り出した。中には簡素なドレス数着、実用的なコート、母の形見の銀のペン、そして少しずつ積み立てていた現金。王宮で公式には無給でも、書類作成の謝礼や宴の差配で浮いた雑費をきちんと管理していれば、これくらいの逃走資金にはなる。


 窓の外では、夜会帰りの馬車がまだ行き交っている。

 私は一枚だけ、机に手紙を残した。


『お世話になりました。修道院には向かいません。私を探さないでください。探す費用も無駄です』


 前世の私が見たら「もうちょっと角の立たない書き方を」と言いそうだが、今夜の私は少々疲れていた。

 鞄を手に裏口から抜け出し、使用人用通路を通って屋敷の外へ出る。


 王都アルシェラの夜は、相変わらず明るかった。

 貴族街の石畳を一人で歩きながら、これからどこへ行こうかと考える。王宮の外で働く先はいくつか見当がある。帳簿と契約なら、私には人より少しだけ得意なことがある。


 そのとき、後ろから駆け足の音がした。


「レティシア・ファルケン嬢!」


 振り返ると、王宮書記官の制服を着た青年が、息を切らしていた。彼は私を見るなり、ほっとした顔で筒を差し出す。


「探しました。王宮より、急ぎの辞令です」

「……辞令?」


 受け取って封を切る。

 そこに書かれていたのは、修道院送りよりはるかにましで、しかし世間一般の令嬢にとっては同じくらいの悪夢といえる内容だった。


『北方辺境ノルドヴァルト公爵領・契約局への出向を命ずる』


 私は思わず、文面を二度見した。

 北方辺境。灰晶壁を抱える極寒の地。呪い公爵が治める、王都の貴族がいちばん行きたがらない場所。


 書記官は気の毒そうに言った。


「表向きは、婚約解消後の名誉ある再配置です。実際には……その、厄介払いかと」

「そうでしょうね」

「お受けになりますか? 断れば修道院行きが既定路線になるかと」

「受けます」


 即答すると、彼はぽかんとした。


「え、よろしいのですか」

「ええ。公的な辞令で、給金が出て、職務内容が明文化されているのでしょう?」

「は、はい。一応」

「でしたら、修道院よりずっとましです」


 私は羊皮紙を丁寧に丸め、胸の前で抱えた。

 行き先が北だろうと西だろうと、雇用契約があるなら話は早い。


 婚約は終わった。

 王太子妃教育も終わった。

 では次は、まともな労働条件を勝ち取りにいくだけだ。


 冷たい夜気の中で、私はほんの少しだけ笑った。

 どうやら私の第二の社会人生活は、呪い公爵の領地から始まるらしい。

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