第33話 公爵の告白は、不器用なくらいまっすぐだ
正式再契約の最終写しが王都と北で一致した夜、ルシアン様に書庫へ呼ばれた。
北棟の制限書庫。最初に壊れた建国契約の写本を見た場所だ。
あの日と同じようにランプが灯っているのに、空気はまるで違う。黒い圧が薄れ、代わりに紙と革の匂いが穏やかに感じられた。
「何か不備がありましたか」
私はいつもの癖でそう聞いた。
「いや」
ルシアン様は少しだけ間を置く。
「契約の不備ではない」
「では?」
「私の話だ」
珍しい切り出し方だった。
思わず背筋が伸びる。
彼は机の引き出しから、一枚の羊皮紙を取り出した。けれどそこに書かれていたのは条文ではなく、驚くほど短い文章だった。
『ルシアン・ノルドヴァルトは、レティシア・ファルケンに対し、今後の人生を共にすることを望む』
「……」
「言葉だけだと、お前が後で『聞いていない』と言いそうだったので」
「言いませんよ、たぶん」
「たぶん、か」
私は文面と彼の顔を交互に見た。
鼓動がうるさい。なのに頭のどこかは妙に冷静で、『この人は本当にこういう言い方をするのだな』と感心していた。
「これは、その……」
「求婚だ」
「やはり」
「嫌なら断っていい」
「早いですね」
「圧をかけるつもりはない」
彼はまっすぐ私を見る。
その視線に、いつもの冷たさはない。ただ真面目で、不器用で、逃げ道を残す気遣いがある。
「私はお前に助けられた」
ルシアン様は低く続ける。
「壁のことだけではない。人に負担を預けることも、頼ることも、全部下手だった私に、何度も線を引き直してくれた」
「……」
「仕事ができるからではなく、お前だから必要だ」
「それ、かなり効きます」
「困る」
「困りません」
私は思わず笑ってしまった。
緊張が少しだけほどける。
「一つ確認してもいいですか」
「何だ」
「この“今後の人生を共にする”には、定時退勤と、業務分担と、健康と尊厳を損なう義務の無効が含まれますか」
「もちろんだ」
「追加条項は」
「必要ならいくらでも入れる」
「解除条件は」
「お前が望むなら設ける」
「……本当に、そういうところですよね」
言いながら、胸がいっぱいになる。
甘い言葉を並べる人ではない。代わりに、私が大事にしてきた線を、最初から折らない形で差し出してくれる。
「では」
私はその羊皮紙を受け取り、彼の名前の下に自分の名を書いた。
『検討の結果、私も望みます』
少しだけ、冗談めかして。
ルシアン様が一瞬目を見開き、それから本当に困ったように笑った。
「……可愛げがない」
「今さらですね」
「だが、そこがいい」
その言葉に、不覚にも目頭が熱くなる。
前世でも今世でも、可愛げがないと言われることは多かった。でも、それでいいと言われたのは初めてだった。
彼がそっと手を伸ばす。
逃げる理由はない。私は少しだけ身を寄せた。
触れた唇は一瞬で、でも驚くほど丁寧だった。
書庫の外で風が鳴る。
けれど寒くない。
たぶん今夜だけは、どんな条文よりその事実が確かだった。




