第34話 婚約の前に、条文を読み合わせます
求婚の翌朝、私はいつもどおり契約局へ出勤した。
恋愛小説なら浮かれて仕事にならない場面かもしれない。だが残念ながら私たちは契約局である。朝一番に積まれていたのは資料棚増設の見積書と、北方再監査の追加入力表だった。
「お嬢さま、顔が少しだけ違います」
ミアがじっと見てくる。
「何が」
「ちょっと幸せそうです」
「気のせいです」
「へえ」
「へえ、とは」
「じゃあその紙、何です?」
彼女がひょいと見た先には、昨夜の羊皮紙があった。
慌てて伏せる前に、ベルンハルトさんまで眼鏡越しに覗き込む。
「……検討の結果?」
「見ないでください」
「婚約契約書か」
「まだ草案です」
「やっぱりそうなんだな」
どうやら隠し通すのは無理らしい。
数分後には局中に知れ渡り、トーマは階段で転びかけ、ハンナさんは祝いのパンを焼くと宣言し、ミアは『祝い用の様式を作ります!』と張り切り始めた。
「違います、祝い用の様式って何ですか」
「お祝い金と贈答品の台帳です!」
「それは……必要ですね」
「でしょう!」
悔しいがその通りである。
昼休み、私は公爵邸の小会議室へ呼ばれた。
ルシアン様が待っていて、机の上には新しい書類束がある。
嫌な予感しかしない。
「何ですか、これ」
「婚約に伴う合意事項の整理案だ」
「早い」
「必要だろう」
「必要ですけど」
中身は実に彼らしかった。
居住地、財産管理、職務継続、北方契約局の立場、公私の時間配分、緊急出動時の連絡方法。さらには『互いの了承なく相手の業務領域へ恒常介入しない』という条文まである。
「完璧ですね」
「不足は」
「……『喧嘩したときは一晩寝かせてから話す』も入れたいです」
「入れよう」
「本当に入れるんですか」
「必要な条文は入れる」
真顔で返されて、私はとうとう笑ってしまった。
たぶんこの人は一生こうなのだろう。好きだと思う。
条文を読み合わせながら、細かな条件を詰めていく。
私は婚姻後も契約局で職務を継続すること。ルシアン様は壁関連の緊急対応時、必ず補佐官か騎士団長へ共有すること。食事は可能な限り一日一回は共に取ること。健康診断を年二回。これは重要だ。
「ここまで書く婚約書、なかなかありませんよ」
「ないなら作る」
「本当に契約局向きの方ですね」
「誰のせいだ」
外では冬の日差しが少しだけ柔らかくなっていた。
読み合わせが終わる頃、ルシアン様がふとペンを置く。
「レティシア」
「はい」
「これだけ条文を並べても、たぶん全部は書ききれん」
「そうですね」
「だから、足りない部分はその都度話せ」
「……はい」
その一言の方が、どんな美辞麗句より嬉しかった。
完璧な契約なんてない。だから改訂できる余地を残す。
それはたぶん、関係そのものへの誠実さだ。
会議室を出ると、廊下の向こうでミアたちがそわそわしていた。
「おめでとうございますって言っていいですか!?」
「まだ正式発表前です」
「じゃあ小声で!」
「どうぞ」
「おめでとうございます!!」
「小声とは」
笑い声が弾む。
北の冬はまだ終わっていないのに、その日だけは少し春に近かった。




