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第32話 私は私の意思で、この領地に残る

 王都への返答は、悩むまでもなく決まっていた。


 私は机へ向かい、王宮財務再編室への打診文へ正式な辞退を書いた。

 ただし、完全に縁を切るとはしない。北方と王都の契約監査連携役として、必要な照会には応じること。定期監査の様式策定には協力すること。要するに、便利に使われるのではなく、対等な取引に持ち込む。


『私は北方での職務継続を希望します。今後はノルドヴァルト公爵領契約局を主たる勤務地とし、王都案件への協力は明文化された依頼に限ります』


 書き上げた文面を読み返し、私は頷いた。

 これでいい。


 返書を王都へ送ったその日の夕方、公爵邸の中庭でルシアン様に呼び止められた。

「返事は」

「出しました」

「結果は」

「北に残ります」


 言葉にした瞬間、心の奥がすっと静かになった。

 迷いがなくなる音は、案外こんなふうに地味なのかもしれない。


 ルシアン様は一瞬だけ、ほんの一瞬だけだが、安堵した顔をした。

 すぐにいつもの無表情へ戻ったけれど、見逃さない。


「そうか」

「はい」

「理由を聞いても?」

「聞きますか」

「聞く」


 私は少し考えてから答えた。


「ここでは、仕事が仕事として残るからです。誰がやったか、誰が負担したか、誰に返すべきかが見える。あと……」

「あと?」

「戻りたいと思える場所が、もう王都ではないからです」


 そこまで言って、少しだけ視線を逸らした。

 さすがにこれは、仕事だけの話ではない。


 ルシアン様はしばらく黙っていたが、やがて低く言う。


「歓迎する」

「ありがとうございます」

「契約局も、領地も」

「……ええ」

「私も」


 最後の二文字が、思ったよりずっと近くへ落ちてきた。

 顔を上げると、彼はいつもどおり静かな表情をしているのに、耳だけが少し赤い。


「それは、かなり反則では」

「何の話だ」

「いえ、こちらの話です」


 私は咳払いして誤魔化した。

 心臓が妙に忙しい。


 その夜、契約局で簡単な祝賀会のようなものが開かれた。

 と言っても、豪華な宴ではない。ハンナさんの焼いたパン、施療所から回ってきた温かいスープ、街の酒場が差し入れてくれた薄い果実酒。北らしく、実用的であたたかい。


「お嬢さま、これで逃げられませんね」

 ミアが笑う。

「誰が誰をです」

「北が、お嬢さまを」

「それは少し嬉しい言い方ですね」


 ベルンハルトさんは乾杯のあと、ぶっきらぼうに言った。

「……残るなら、来春までに資料棚を倍にするぞ」

「予算、通りました」

「仕事が早い」

「契約局ですので」

「便利だな、その言葉」


 皆が笑う。

 北へ来たばかりの頃には考えられなかった空気だった。


 夜が更けて解散したあと、一人で局の窓を閉めながら、私はふと思う。

 婚約破棄されたあの夜、私は“どこかに逃げたい”としか考えていなかった。

 今は違う。“ここにいたい”と思っている。


 それはたぶん、私がこの世界で初めて、自分の足で選んだ場所だった。

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