# 第7話「光を見る聖女」
下層の市場を抜けた先に、治療所と呼ばれる場所があった。といっても立派な建物があるわけではない。迷宮の広間の片隅、崩せない岩壁に沿って粗末な寝台が並び、布で仕切られただけの空間に、薬草と血と、古い油の匂いが重く滞っていた。
レイヴァスはガルフに連れられてそこへ来た。素材採取の帰りに傷を負った男が一人、担ぎ込まれたのだ。原生の獣の爪は深く、男の脇腹から血が止まらず、同行していた者たちの顔は青ざめていた。
「ここでは、医者はいない」
ガルフが低く言った。銀灰の耳が、寝台の向こうから聞こえるうめき声に小さく動く。
「いるのは、あの女だけだ。だが、あの女がいれば、たいていの者は死なずに済む」
布の仕切りの奥で、白い光が揺れた。炎でも松明でもない。柔らかく、けれど芯のある光だった。レイヴァスの目元がわずかに眩む。長命種の血を引く彼の感覚は、魔力の流れにも敏感だった。あの光には、攻撃の棘がなかった。ただ、守ろうとする意志だけが満ちていた。
仕切りの向こうにいたのは、小柄な女だった。亜麻色の髪を簡素に結い、袖をまくり上げ、傷ついた男の脇腹に両手をかざしていた。年は二十歳を少し過ぎたほどに見える。だが、その手つきに迷いはなかった。
「大丈夫です。息を、ゆっくり。……痛みは、すぐに遠くなります」
女の声に合わせて、掌から光が零れた。光は傷口に触れるなり、糸を引くように広がり、めくれた肉の縁をそっと寄せていった。止まらなかった血が、目に見えて勢いを失う。男の荒い呼吸が、少しずつ整っていく。
やがて女は目を閉じ、短く祈りの言葉を紡いだ。唯一神アステイアの名が、その唇から静かに落ちる。すると光の質が変わった。温かいだけではない。清い水で洗うような、澄んだ気配が傷口を包み、獣の爪に残されていた黒ずんだ穢れのようなものを、じわりと押し出していく。浄化だった。
床に落ちた黒い雫は、煙を上げて消えた。周囲の者たちが息を呑む。男の顔に、ようやく血の気が戻ってきた。
「……助かった、のか」
「まだ油断はできません。けれど、峠は越えました」
女は微笑み、額の汗を袖で拭った。その笑みは疲れを隠しきれていなかったが、傷ついた者に不安を見せまいとする、訓練された優しさがあった。
治療所には、他にも傷病者がいた。腕を獣に噛まれた女、落石で足を挫いた老人、熱に浮かされて震える少年。種族もばらばらだった。人もいれば、獣の耳を持つ者も、鱗の覗く者もいる。だが女は、誰に対しても同じ順番で、同じ丁寧さで手をかざしていた。
順番が、身分や派閥で決まることはなかった。先に来た者、重い者から。ただそれだけだった。
レイヴァスはその様子を、しばらく黙って見ていた。下層に来てから、彼は何度も値踏みするような視線を受けてきた。剣聖殺し。使えるのか、危ういのか、腕輪に値するのか。人は人を、格と損得で測る場所だった。だがここでは、測る物差しが違った。
少年が高熱でうわごとを言い出したとき、女はすぐに傍らへ膝をついた。掌の光を額へ近づけ、もう一方の手で少年の震える手を握る。
「怖くない。ここにいます」
光が少年の全身を薄く覆った。結界だった。外からの穢れも、熱の悪化も、その薄い膜の内側では押しとどめられる。少年は守りの光の中で、やがて穏やかな寝息を立て始めた。
「戦いもしないのに、強いんだな」
レイヴァスの呟きに、ガルフが横目を寄越した。
「ああ。イリスは戦わない。剣も持たない。だが、この下層で、あの女に恩のない者は少ない。……戦う力だけが、力じゃないということだ」
イリス。それが聖女の名だった。
程なく、治療所の入口が騒がしくなった。若い獣人の女が、背に子供を負ぶって駆け込んできたのだ。子供はぐったりとして、腕には獣の牙の痕が青黒く腫れ上がっていた。毒だった。原生の獣の中には、牙に毒を宿すものがいる。女は泣きながら、採取の帰りに茂みから襲われたのだと訴えた。
イリスは即座に立ち上がった。疲労の色は消え、代わりに研ぎ澄まされた静けさがその身を包む。
「寝台へ。腕を心臓より高く。……大丈夫、間に合います」
彼女は子供の腕に両手を添え、まず守りの光で毒の広がりを囲い込んだ。薄い結界が腕の内側にまで編まれるように、光の膜が幾重にも重なる。毒の黒い筋が、膜に阻まれて蠢くのを、レイヴァスは感覚で捉えた。魔力の流れが、堰にぶつかる水のように滞っている。
次に、浄化の祈りが唱えられた。今度の祈りは長かった。アステイアの名、慈悲を求める古い言葉、穢れを退けるための定型句が、途切れることなく紡がれる。光が白さを増し、子供の腕の腫れから、黒い霧のようなものが少しずつ滲み出しては消えていった。
子供が痛みに身をよじり、暴れ始めた。毒を押し出す痛みだった。レイヴァスは思わず一歩踏み出し、子供の肩と腕を押さえた。力任せではない。暴れる力の流れを受け、逃がし、傷口を広げない角度へそっと導く。戦いの場で敵の攻めを受けて崩すのと同じ呼吸が、こんな場所でも役に立った。
「……ありがとうございます。そのまま、お願いします」
イリスは目を離さずに言い、浄化に集中した。やがて黒い霧が途切れ、子供の腕に生の色が戻ってくる。張り詰めた空気が緩み、母親である女が、その場にへたり込んで声を上げて泣いた。
「礼なら、要りません。毒が残っていないか、明日も見せに来てください」
イリスは優しく言い、結界を解いた。その指先は微かに震えていた。奇跡は、使う者から何も奪わないわけではないのだ。回復、浄化、守り。どれもが、彼女の集中と体力と、そして信仰の確かさを静かに削っていく。その代償の形は、腕輪の取り立てとはまた違うものなのだろう、とレイヴァスは思った。
ガルフは腕組みをして、その一部始終を見ていた。
「獣人の子だろうと、分け隔てなく、か」
「ガルフさん」
「責めてはいない。……ただ、外の世界では当たり前じゃなかったはずだ、と言っているだけだ」
イリスは答えず、母親と子供に水を渡した。だがその沈黙が、多くのことを物語っていた。彼女がここへ落とされた理由の一端が、その沈黙の奥にあるのだろう。レイヴァスは、それ以上を詮索しなかった。
手が空いたとき、イリスはようやくレイヴァスの方へ顔を向けた。そして、その瞳が、彼を捉えた瞬間に大きく見開かれた。
「……まあ」
彼女はレイヴァスを見ているようで、彼ではない何かを見ていた。視線は顔ではなく、胸のあたり、肩のあたり、彼を取り巻く空気そのものへ向いている。
「どうか、しましたか」
レイヴァスが問うと、イリスははっとして瞬きをした。
「ごめんなさい。私には、人の輝きが光として見えるんです。初めて見る方だと、つい、見入ってしまって」
「光」
「はい。その方が外の世界でどれほど語られ、人に何を与えてきたか。格、と呼ばれるものが、私には光の強さと質で見えます」
彼女の説明は静かだった。ガルフの方へ視線を向けると、イリスは少しだけ言葉を選ぶように続けた。
「ガルフさんの光は、銀の毛皮みたいです。柔らかいのに、芯があって、滅多なことでは揺らぎません。勇者として、氏族に守られてきた光です」
ガルフは居心地悪そうに耳を伏せた。褒められているのに、どこか痛いところを突かれた顔だった。
「……俺の光が綺麗に見えるなら、お前の目は当てにならない」
「あら。どうして」
「守られてきた、じゃない。守れなかった光だ」
短いやり取りの奥に、レイヴァスは重い何かを感じ取った。だがガルフはそれ以上を語らず、イリスも追及しなかった。彼女はただ、小さく頷いて、その光の痛みごと受け止めるように目を細めた。
そして、イリスの視線は再びレイヴァスへ戻ってきた。今度は、言葉がすぐに出てこなかった。
「あなたの光は……」
彼女は彼の周囲を、確かめるようにゆっくりと見回した。
「二つ、混ざっています。一つは、絹みたいです。柔らかくて、温かくて、誰かを包もうとする光。……領地の人々に慕われてきた方の光です。間違いありません」
レイヴァスの胸の奥が、微かに震えた。アイゼン領。守ろうとして、守り切れなかった人々。彼らの顔が一瞬だけ脳裏をよぎる。
「もう一つは」
イリスは眉を寄せた。
「棘です。突き刺すような、荒い光。触れれば傷つくような……悪名の光です。剣聖殺し。その名が広がるたびに、棘は鋭くなります」
二つの光は、レイヴァスの周囲で絡み合い、せめぎ合っていた。絹が広がれば棘がそれを裂き、棘が立つたびに絹が萎む。そのせめぎ合いのせいで、全体の光は絶えず揺れ、明滅し、安定することがなかった。
「こんなに揺れる光は、初めて見ました。格が……定まっていないんです。あなた自身が何者なのか、外の世界の語りが、まだ決めきれていない」
イリスは言ってから、自分の言葉の重さに気づいたように口元を押さえた。
「ごめんなさい。失礼なことを」
「いえ。……当たっています」
レイヴァスは短く答えた。英雄として慕う声と、剣聖を殺した男として恐れる声。どちらの物語も、彼自身が背負ってきたものだった。どちらも嘘ではないからこそ、格は定まらなかった。
治療所を辞す前、イリスはもう一度、少年の結界を確認していた。祈りの言葉を唱える唇が、途中、一瞬だけ止まったのを、レイヴァスは見逃さなかった。
アステイアの名を呼ぶ声に、ほんの僅かな澱みがあった。信仰の厚い者の声ではなかった。むしろ、呼びかけても答えのない空へ、それでも呼び続けているような声だった。
イリスは少年に微笑みかけ、何事もなかったように祈りを終えた。だが、布の仕切りを出たところで、彼女は小さく息を吐き、自分にだけ聞こえる声で呟いた。
「……それでも、この子は助けなければ」
誰に祈るでもなく、誰に命じられるでもなく。ただ、そう決めている者の声だった。レイヴァスはその横顔に、教えに仕える聖女とは別の、一人の人間の意思を見た気がした。
だが、それ以上を彼は問わなかった。信仰の内側は、その者だけの戦場だ。無理に踏み込むことは、彼の流儀ではなかった。
レイヴァスが治療所を離れる間際、イリスが呼び止めた。手には、採取で擦り切れた彼の掌に塗るための軟膏の小壺があった。大した傷ではない、と言いかけた彼に、イリスは首を振る。
「あなたは、自分の傷を大したことないと言う方ですね。光にも出ています。……守る側の人は、みんなそうです。でも、守る手が傷んだままでは、いつか誰かを取り落とします」
言いながら、彼女は治療所の中を一瞥した。寝台に横たわる者たち一人ひとりの周囲に、彼女の目には光が見えているのだろう。
「あの老人の光は、もう細い蝋燭のようです。外では名工と呼ばれた方だと聞きました。今も弟子たちの便りが届くから、まだ消えずにいる。あちらの女の人の光は、荒いけれど強い。悪名の棘混じりです。でも、棘の向きが外を向いている人は、身内には優しいことが多いんです」
「人の格が、それほど見えるのか」
「見えます。だから、苦しいこともあります。言葉では立派なことを言いながら、光が澱んでいる方もいます。逆に、誰からも恐れられているのに、光の芯が温かい方もいる。……光は、噂よりも正直です」
彼女はそこで、少しだけ笑った。自嘲の混じった笑いだった。
「教会では、この目は神の賜物だと言われました。人の善し悪しを見分けるための目だと。でも、見分けることと、裁くことは、違うはずなのに」
その言葉の先は、語られなかった。イリスは小壺をレイヴァスの手に押し付け、治療所の奥へ戻っていった。祈りの声が再び静かに響き始める。答えのない空へ向けた呼びかけが、それでも誰かの傷を癒やしていく不思議を、レイヴァスは背中で聞いていた。
帰り道、ガルフがぽつりと言った。
「イリスの見る光は、当たる。……だから、厄介でもある」
「どういう意味だ」
「格が揺れる男は、ここでは危うい。取り立ては階層で決まる。だが、受け止める格の方が揺れていれば、払い過ぎる日が来るかもしれない、ということだ」
堕落。その言葉は口に出されなかったが、二人の間には確かに漂っていた。空っぽになるまで払い続け、飢えに変わる末路を、レイヴァスは既に聞かされていた。
自分の周囲で明滅するはずの光を、彼は見ることができない。見えるのはイリスだけだ。棘と絹。悪名と敬慕。そのどちらが勝っても、彼は彼でなくなる気がした。
もし絹の光が先に擦り切れたら、残るのは棘だけになるのか。もし棘が先に折れたら、彼は英雄としてだけ語られる代わりに、何かを失うのか。どちらの問いにも、答えはなかった。あるのは、揺れ続ける格の上で、それでも明日を生きなければならないという事実だけだった。
下層の天井の向こう、遥か下に眠る何かの気配が、その日はやけに近く感じられた。レイヴァスの腕で、枷の腕輪が、微かに重みを増したように思えた。




